2017年4月の読了本

『怠惰への讃歌』バートランド・ラッセル 平凡社ライブラリー
昔から論文とエッセイの中間みたいなかためのエッセイが割と好きだったりする。たとえば山形孝夫『砂漠の修道院』とか網野善彦『古文書返却の旅』とか。本書はそんな自分の好みにあった、分析哲学の大家が記したエッセイだ。テーマは時事や社会問題に関するもので書かれたのは1930年ごろ。第一次大戦の後、束の間の平和のときだ。全体主義の足音が聞こえはじめ大きく変化する国際社会への危機感が、辛辣で鋭い提言の中に見え隠れする。たとえばこんな感じ。
「政治的に未熟な国民は、将来の政治についての最上の案内者ではない」
「即ちファシズムの哲学はなく、これについては精神分析ができるだけだ」
(いずれも「前門の虎、後門の狼」の章より)
ラッセルが批判しているのはファシズムばかりではなく、それを許してしまう人々のこころだったりもする。彼によれば二十世紀前半の西洋の青年は、せっかくの高い知識を持っているのに、日々の糧を得るため冷笑とともに自らの良心を麻痺させることでそれを愚かな富豪のために用いたという。(しかし科学者は社会の全幅の賛意のもと自分達の最善の精神力をふるうことが出来たので、冷笑的にならずにすんだ稀に見る幸福者だとも。うーん、これはどうだろうか。)
また冒頭にある同題のエッセイでは、1日あたりの勤労時間を四時間に制限して、残りの時間で人生を豊かにする社会を作れと提言する。安吾の『堕落論』みたいに、刺激的なタイトルだが内容はしごく真っ当な社会論なのだ。これを「怠惰」と呼ぶのであれば怠惰大賛成である。
ほかにも教養と教育(「無用」の知識/青年の冷笑/克己心と健全な精神)、女性問題(建築と社会問題)、経済(現代版マイダス王/社会主義の問題)、全体主義や帝国主義(ファシズム由来)など、とりあげられるテーマは幅広い。(注:カッコ内にあるのは章の名前)
似たような感じのものでは『春宵十話』など岡潔氏の随筆もあるが、あちらはすこし説教くささが強くて自分には合わなかった。本書の方が視野が広く押し付けがましくなくて好きだ。ただ残念なのは訳が古くて文章自体も硬いこと。新訳したらもっと読みやすくなる気がする。

『僕僕先生 仙丹の契り』仁木英之 新潮文庫
こんどは吐蕃(チベット)の王位継承の騒動に巻き込まれる僕僕先生一行。相変わらず愉しいシリーズだ。このシリーズは呪術(仙術)による闘いや敵役が権謀術数の限りを尽くすところなんか酒見賢一氏の『陋巷に在り』にも似てるのだけれど、主人公に王弁をすえたのが大きく違うところ。彼のおかげで僕僕先生の仙人チートによって話が単調になるのを逃れている。また敵の姑息な策略が、王弁の正面突破で粉砕されるのがいつも気持ちいい。
あとがきによれば、どうやら仙人と弟子と仲間たちの長かった旅もいよいよ佳境。「終わりの始まり」に差し掛かったようだ。頼りなかった王弁がどんどん役に立つようになるのが寂しくもある(笑)。しかし単行本は既に二冊ほど出ているようなので、まだしばらくは愉しめるだろう。

『黄色い雨』フリオ・リャマサーレス 河出文庫
孤独と老いと哀切、そして崩壊の予兆に満ちた物語。黄色とは腐敗の色。打ち捨てられた村と一人残った老人の記憶を静かに覆い隠してゆく色だ。黄色い雨とは、はらはらと舞い散るポプラの枯葉であはるのだが、それと同時に苦しみや別離や苦い記憶そのものであったりもするのだろう。優しく雨ぞ降りしきる。全てが忘却の彼方に消え去るまで。滅びゆくことが避けられぬアイニェーリェ村はまるで『百年の孤独』のマコンドのようにも思えたりするのだが、実はマコンドなのは村ではなく語り手である「私」自身。全てが崩れ去り塵と化すことが不可避であるとき、そこに現れるのは息子が家を出るとき死に絶えた自分の心であり、そして出会うのは内宇宙なのだ。全篇を通じて暗く救いのない話なのだが、読んでいると様々なものが頭を駆け巡り飽きさせない。語り手である老人の迷妄が進むにつれて死者たちが甦ってくるあたりは、いわゆる典型的な魔術的リアリズムでもあるのだが、本書では死者をみて普通に怖がっているのがおもしろい。彼と最後まで運命を共にする雌犬も一緒になって怯えているので現実の出来事であるともとれる。(ところでストーリーとは関係ないのだが、老人が飼っている「雌犬」が、名前すら付けてもらえてないのに、性別は明確なのが面白い。スペイン語だからだろうか。)文庫版のボーナストラックとして本編のほかにグラビンスキの『動きの悪魔』を思わせる「遮断機のない踏切」と、「不滅の小説」という二つの掌編も収録されたお得な一冊だった。

『ハリー・オーガスト15回目の人生』クレア・ノース 角川文庫
何度死んでも全ての記憶をもって生まれなおす主人公が辿る数奇な人生。運命はやがて彼に不倶戴天の敵を招き寄せる......。『リプレイ』のようなもっと個人的な物語かと思ったら、後半は人類を巻き込んだ壮大な物語になってびっくりした。リプレイものは主人公の全能感と思うようにいかない焦燥感が楽しい。SFとしては設定に若干の難があるように思えるが、エンタメ小説としては充分に面白く好感のもてる作品だった。誰かにミステリとしても読めると聞いていたのだが、見えない敵の探索がそれにあたる部分だったのかな。ミステリというのであれば、自分としてはむしろ主人公の一人語りという形式と、且つそれにも拘らず内面が描かれないところにハードボイルドと同じ空気を感じた。本書はかように物語としては充分面白いのだが、あえて無い物ねだりを言わせてもらえば、主人公が深まっていないところが残念。「永遠に同じ生を繰り返す」という設定は、ニーチェの永遠回帰やブランキ『天体による永遠』などを持ち出すまでもなく倫理問題として極めて魅力的、従って主人公と敵役の思想上の対決をぜひ見てみたかった。(ところで本書は題名をなかなか憶えられなくてこまった。『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』とか『シンドバッド7回目の航海』などとごっちゃになってしまう。読後感がどことなくラノベっぽいと思ったのだが、その一因にこの長い題名もあるのかも知れない。)

『ホフマンと乱歩 人形と光学器械のエロス』平野嘉彦 みすず書房
「砂男」「押絵と旅する男」という二作の幻想小説を、望遠鏡、双眼鏡などの光学器械や人形といった両者に共通する象徴的な小道具を基にして分析する論考。フロイトの「無気味なもの」も援用しつつ、登場人物たちの隠喩的連関に着目して作品を深く味わうための道筋を示す。もちろん作品の解釈は決して絶対的なものではないけれど、豊かな読み方を目にすると刺激を受けるし気持ちがいい。《理想の教室》叢書の一冊。

『ボアズ=ヤキンのライオン』ラッセル・ホーバン ハヤカワ文庫
カルト的な人気を誇る大人向けのファンタジーを数十年ぶりに読み返したが、記憶に違わず面白かった。父と息子、世代も価値観も違う二人の生き方を通じて、この世界に存在するということ、世界と対峙するということについて読者に問いかけてくる秀作。喪われしものを探し求める物語はいつも切実で哀しく、そしてあたたかいのだ。
「父親が死ねるためには、まず生きなければいけない」
「空ろな空間から未来が生まれる。空っぽな空間がなければ、どこから未来を生みだしたらいい?」
本書には様々なエピソードや隠喩が散りばめられているが、それらが語ろうとしているのは「一個の主体として生きる」ということ。「世界の中で生きる」ということについて男性は女性よりも(社会的に恵まれているがゆえに)圧倒的に無自覚だろうと思うのだが、この本はユダヤ/キリスト教的な寓意と詩的なイメージでもって、そのような者たちに対して考えることを強いてくる気がする。私にとってのライオンは何なのか、と。見えているのに見えていないということは往々にしてあるが、それが自らの命に関わることである場合、はたしてそのように他人事のようにしていられるものだろうか。本書におけるライオンとはそういうものである。

『生物はウイルスが進化させた』武村政春 講談社ブルーバックス
電子顕微鏡ではなく光学顕微鏡で見えるほど大きく、ゲノムサイズも一部の微生物より大きいという「巨大ウイルス」によって見えてくる生物進化と生命の起源を紹介し、最後にはとても刺激的な「ヴァイロセル仮説」によって生物の定義そのものにまで揺さぶりをかける本。著者の巨大ウイルスをテーマにした本はこれで3冊目だけど相変わらずとても面白い。現時点ではヴァイロセル仮説はあくまで仮説にすぎず真偽のほどは判らないのだが、ドーキンスの「利己的な遺伝子」と同じようにたいへん面白い思考実験だと思う。少なくともミミウイルスやパンドラウイルス、マルセイユウイルスといった巨大ウイルスの説明は読んでいてわくわくしてくるので、読んで損のない本だと思う。

『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ 河出書房新社
ナイジェリアで生まれ今もアフリカとアメリカを往復しながら活躍する作家によるスピーチの記録。肩ひじ張らず、おもねるでもなく、自然な態度で女も男も「みんな」が良くしていこうと語りかける。読んでいて感銘を受けたが、人として当たり前のことを当たり前に述べているだけなのだから、そのことで感銘を受けるということはおそらく社会の方が歪んでいるのだろう。
『子供たちをそだてるときに、もしもジェンダーよりもその子の「能力や才能」に焦点を合わせたらどうでしょう?ジェンダーよりもその子の「興味や関心」に焦点を合わせたらどうでしょう?』
ね、普通のこと、当たり前のことだ。著者による代表的な小説作品の『アメリカにいる、きみ』や『明日は遠すぎて』を読んでみたくなってきた。

『役に立たない読書』林望 インターナショナル新書
国文学者で作家でもあるリンボウ先生が書いた読書エッセイ。ここでいう「役に立つ」とはいわゆる資格試験や実用の知識を得るための読書のことで、そんなことに拘泥せず古典など自分の好きなものを読めば良いとの主張には素直に頷ける。面白かったのは、氏が“良し”とする本および読書の内容が自分からすると結構偏っていること。(もちろんそれが悪いわけでは無い。)ときに偏屈とも思える至極真っ当な「正論」に苦笑いしつつも、幅広い知識と読書愛あふれる文章をじっくりと愉しめた。
あちらこちらについ引用したくなるような文章があるのがさすがはリンボウ先生である。
「最近は私もアマゾンで本を購入する機会が増えましたが、あのレビューに関して言えばまったく信用するに足りないと考えています」 うん、素晴らしい。
「本の貸し借りはぜひやめたほうがいい、というのが私の持論です。(中略)貸した本は返ってきません。だから読みたい本は自分で買う、これが大原則です。」うんうん。(激しく首肯)
「場合によっては敢えて重複所蔵することも躊躇ってはなりません」うむ、そうなのだ。だから買ったことを忘れていても仕方ないのだ。積んであるうちに文庫化したら文庫も欲しくなるのだ。(いや、本書ではそんなことは言ってない/笑)
いやあ愉しい。

『辺境図書館』皆川博子 講談社
〈唯美〉かつ幻想的な作風で熱心なファンをもつ著者が自らの体験をもとに記した読書ガイド。本書で取り上げられ、氏の読書の記憶とともに紹介される書物の数々はどれももきらきら輝いてみえる。こういう風に本の感想をつぶやけたらいいのだが。
本書で紹介された本のうち読んだことのある本は『アサイラム・ピース』『氷』『黒い時計の旅』『神の聖なる天使たち』などごく僅かだが、それらの文章を読むと氏の紹介が勘どころを押さえた見事な紹介になっているのがよく判る。他の本についても信用できるに違いない。好きなことをうまく説明するのって、実はとても難しいことなのだ。喩え方も素晴らしい。(自分を含めて)幻想界隈の読者にとって、幻想小説とは「心の穴から虚空へと伸びる命綱」のようなものだと思っていたのが、本書でもっと良い喩えを見つけた。それは「救命ブイ」だ。孤独な夜の海に浮かぶ救命ブイ。沈むことなくいつまでも漂い続ける。
そんなに厚い本ではないのだが、メモしながらなので読むのに時間がかかり、そして読んだ後には紹介された本を買いたくなるという困った本といえる。いいぞ、もっとやれ。(笑)

『ヒトラーが描いた薔薇』ハーラン・エリスン ハヤカワ文庫
エリスン3冊目の短篇集。最初はちょと心配したが、尻上がりに好くなった。特に気に入ったのは「死人の眼から消えた銀貨」「バジリスク」「大理石の上に」「睡眠時の夢の効用」の四つ。怒りや哀しみを書かせると、エリスンはやはり巧い。

『ビリー・ザ・キッド全仕事』マイケル・オンダーチェ 白水uブックス
西部劇時代の伝説的な無法者の生涯を、彼や友人たちへのインタビュー、本人が書いた詩、写真や小説といった様々な架空の断片を組み合わせて描きだした本。(ドキュメント風になっているがすべてはフィクション。)歴史上の出来事をコラージュ的なエピソードの積み重ねで再現する手法は、あたかも同時代に自分が生きていたような臨場感を感じさせることに成功し、全方位で表現された死と隣合わせの生は、まるで神話的な様相すら示している。言葉を尽くすことでやっと辿り着ける領域に易々と到達しているように思えるのがとても新鮮だ。仏教における禅のような仕事とでもいうか。全篇を濃厚な死の気配がずっとし続けていて、やがて感覚が麻痺してくる。ここで示される空気感は、ある意味、開高健が『輝ける闇』でベトナム戦争に対して行おうとした事に近いのかも知れない。

2017年3月の読了本

今月は10冊。両親の件がだいぶ落ち着き、年度末進行の忙しさはあったがそこそこ読むことができてよかった。四月もぜひおの調子でいきたいものである。今はとにかく本が読みたい。

『分裂病の少女の手記』M・セシュエー みすず書房
複雑な家庭環境に育ち18歳で統合失調症となった女性について克明に記録した本。前半には発症から心理療法による快復までの過程を内面から描写した当人の手記を、そして後半には彼女の主治医であった著者セシュエーによる解釈を収録する。解釈の方は今の目から見るといささか古い感じがしないでもないが、何と言っても手記が圧巻だ。後半のセシュエーによる解釈に「外部の情景と彼女の内的世界との間には限界がなくなっている。自我はもはや独立した主体ではなく、外部の対象にとけ込んでしまっている」とあるが、まさしくこれはJ・G・バラードが描いた内宇宙そのものに違いない。(但しバラードの場合はその状態をある種のユートピアとして描いているわけだが。)また日常生活に突然異様な感覚が侵入してくる恐怖は、実話怪談の精神病理や或いはアンナ・カヴァンの『アサイラム・ピース』や『ジュリアとバスーカ』といった作品にも通じるものがあるだろう。
少女の快復は口の中に一片の林檎を頬張ったときから始まる。それまで彼女にとってなんら意味を成さなかった世界の全てが再び「現実」へと回帰するシーンは読んでいて感動すら覚える。「これこそはそれよ、これこそはそれよ」「これこそはそれ、あの現実よ」というのは、まさしく心からの叫びに違いない。(実際には快復の兆しを見せてからも、守られているという安心感と見捨てられたという絶望感から一進一退を繰り返し、寛解にこぎつけるにはまだ何年もかかるわけだが。)
ただ、解説については1950年の刊行ということもあり、今の目からすると仕方ないのではあろうが若干の違和感を覚えた。どうも口唇期やエディプス期といった表現が直截的に示されると気恥ずかしくなってしまっていけない。病気の症状をフロイト的な解釈で快刀乱麻を断つがごとく切っていき、「象徴的な投射」と「模倣」などの心理療法で統合失調症が本当に治ってしまったのだとしたら、すごいとは思うが、本当のところはどうなのだろう。
最後になるが、付録にある「ルネの生活歴及び病歴」は短文ながら、少女のこれまで過ごして来た家庭環境が判ってつらい。こういう人は健康になって幸せにならなければいけないと思うよ。いやほんと。

『ビブリア古書堂の事件手帖7』三上延 メディアワークス文庫
毎回違う切り口で描かれる古書の話題と、若い女性の古書店主をめぐる人間模様とで人気のミステリシリーズの完結篇。母親や語り手と彼女の関係にも一応の決着がつきほっとする。今回の本のテーマはシェイクスピアであり、蘊蓄話もいつにも増して愉快であった。なおミステリとしての本シリーズは、古書にまつわる底意地の悪い連中が語り手たちを引っ掻き回すという点で、紀田順一郎の古書ミステリの系譜につらなるものといえるだろう。主人公側の人々の性格が良いのがせめてもの救いか。ライトノベルだから読後感に注意してそのあたりを加減しているのかもしれない。

『いのちの半ばに』ビアス 岩波文庫
「兵隊の物語」と「市民の物語」の二部からなる、全二十六篇の同題の短篇集から七篇を訳出したもの。死をめぐる暗い話ばかりだが「アウル・クリーク橋の一事件」や「ふさわしい環境」など技巧に凝っていて飽きない。中でも幻想味の強い「ふさがれた窓」が好みだ。

『世紀の地獄めぐり』ブッツァーティ 創林舎
著者の遺稿となった『夜明けに発つ連隊』を始め、全部で六つの著作から選んだオリジナル短篇集。ブッツアーティ自身が語り手となる表題作はミハル・アイヴァス『もうひとつの街』を思い出した。(ここにいる悪魔はカヴェーリンの『ヴェルリオーカ』か、もしくは『モモ』の灰色の男たちに似たタイプ。)生者と死者、信仰と罪とが入り交じり、此岸と彼岸の区別ない世界では、逝きし者たちがダンス・マカブルを繰り広げる。独特の味わいである。なかでも気に入ったのは『夜明けに発つ連隊』から選ばれた四作品(「夜明け…」「ステファーノ・キャベロット」「オッタヴィオ・セバスチャン」「みんなに」)と、魔女の生涯を描く「メリンダ、魔女になる」や幻想生物「ババゥ」など。そこはかとないユーモアと哀しみがとても好い。

『人はなぜ物語を求めるのか』千野帽子 ちくまプリマー新書
人が世界を認識する方法のひとつである「物語/ストーリー」について、小説や神話から認識論や人生論、道徳哲学に果ては宗教論まで多様なジャンルを越境しながら考察する。WEB連載の『人生につける薬」に加筆修正。最後にはウイリアム・ジェイムズからエックハルトまで引合いに出し、ライフストーリーという〈懸崖〉から手を離すことの意義を説明する。「正しい私は報われ(評価)されるべきだ」という被害者意識の呪縛を解く重要性も。予想していたより遥かに射程の広い本だった。
小説に関する章では、自分がよく知らない文学理論や評論が数多く援用されていて大変に面白い。例えばフランク・カーモウドによれば、素朴な読者が物語/ナラティブに求めるのは「しかるべき論理一貫性」と「『なぜと問う』必要をなくしてくれる権威」なのだとか。人は「なぜ」を求めてしまう生き物なのだ。たとえばSFを読む面白さの一部には、たしかにこの宇宙の理/ことわり(そしてもっと言えばその意味)が書かれているという快感があり、そして神話を読む時は、(理由づけのあまりの強引さに苦笑しつつも)物語として純粋に楽しんだりする。その一方では因果関係をあえて否定する物語も存在する。本書でも言及されたカミュの『異邦人』や、もしくはロブ=グリエの『消しゴム』などがそうだ。これらの小説では主人公たちの行動の理由が一切書かれていないが、それは理由を隠しているのでなくてそもそも理由が無いのだ。
しかし我々の実際の生活ではそういうわけにはいかない。自らに降りかかった理不尽な不幸があるとすると、それが「ただの不幸なできごと」だと耐えられないので「意味のある悪い結果」としてとらえ直し、それに相応しい「悪い原因」を見つけてしまうのが人のさがというものなのだ。しかし無理やりつなげたストーリーは人を不幸にすることもあるとのこと。ふむ確かに。読んでいるうちに色んなことを考えてしまう本だった。

『物語の役割』小川洋子 ちくまプリマー新書
全部で3つのテーマからなる講演集。第一部は「物語が持つ役割」、第二部は「物語を創り出す作家としての作業」、そして第三部は「自らの読書体験を通じて読書の持つ役割を語る」というテーマで語られ、全篇を通して読書の喜びに満ち溢れている。
第一部はまさに上記『人はなぜ本を求めるのか』と響きあう内容で、「作家は特別な才能があるのではなく、誰もが日々日常生活の中で作り出している物語を、意識的に言葉で表現しているだけのことだ」といったくだりなどは『人はなぜ物語を求めるのか』に出てきた「ライフストーリー」の語り直しであるといえる。人は作家になるのでなく作家に生まれるのだ。
もしも本書のように人が物語を求めるのは世界で生きるためだとすると、音楽を求めるのは世界とつながりたいからとは言えないだろうか。人と、社会と、そして自分をとりまく世界そのものと、コミュニケーションをとりつながる手段としての音楽。(また同様になぜ本を求めるのかと問われれば、それは自分と対峙するためと答えざるを得ない。)
良い本を続けて読むことができてよかった。互いに共鳴しあえる読書はさらに大きな喜びとなる。

『植物はそこまで知っている』ダニエル・チャモヴィッツ 河出文庫
植物が持っている様々な機能を、動物の「視覚/嗅覚/触覚/聴覚/平衡感覚/記憶(手続き記憶)」になぞらえて、門外漢にもわかりやすく紹介した本。解りやすくといってもたとえば安易に植物を擬人化したりするのではなく、古今東西の科学実験の結果に基づいて説得力のある説明がなされている。エピローグでは「植物に知性はあるか?」という話題にも踏み込んでいて、読むほどに地球上に生きる多様な生命の在り方と、そして生物が生きるための精妙な仕組みに感嘆する。この宇宙の「理(ことわり)」を学ぶのが「理科」なのだとすれば、本書はまさに理科の喜びを語る本だといえるだろう。

『裏世界ピクニック』宮澤伊織 ハヤカワ文庫
実話怪談や都市伝説で語られている、現実世界と薄皮一枚で隔てられた異世界を舞台にしたサバイバルホラー小説。ネットで語られてきた「くねくね」などの恐怖が迫力を持って描かれる。本書を実話怪談の変種として読んでも面白いが、「聖痕を持つ者による妖怪退治譚」として読むこともできるだろう。途中で「ゾーン」という名前が出てくることからも明らかなように本書には『ストーカー』のオマージュの側面がある。ただし「ゾーン」に現れる謎とは違って、人間に積極的な働きかけをしてくるという点ではむしろ〈永遠のチャンピオン〉の「混沌の神々」に近いのかもしれない。(聖痕の位置が左手と片目というのは〈紅衣の公子コルム〉を連想させる。事実、目の前の現実が層をめくるように変わるところは〈コルム〉前半の『剣の王』辺りを連想させて楽しかった。)あるいは手塚治虫の『どろろ』やラムゼイの〈タイタス・クロウ〉を思わせる。本書は書こうと思う気さえあればずっと続けていける設定だと思うが、物語として決着をつけるのであれば〈タイタス・クロウ〉みたいにするか〈サザーン・リーチ〉みたいにするか難しいところかもしれない。
(マニアックな話で申し訳ないです。解らない部分はスルーしてください。)

『ぼくが死んだ日』キャンデス・フレミング 創元推理文庫
16歳のマイクは真夜中の道を車で帰る途中、ふとしたことから墓場へと足を踏み入れた。そこで彼は、9人の子供の霊が語る自らの死の物語を耳にすることになる……。魔術から宇宙の怪物まで、子供たちを襲う超自然的な恐怖と様々な「死に方」を描き、様々なタイプの怪談を愉しめるショーケースのような短篇集となっている。なかでもまるでB級SF映画のような「ディヴィッド」や魔術譚「エヴリン」、そして「猿の手」の正統的な後継「リリー」にサイコホラー的な「エドガー」辺りが好みだが、他の作品も(タイプは異なるものの)どれも怖い。また解説にもあるように全篇を通じてシカゴの歴史になっているのも好い。
ちなみに本書がなぜ単なる後味の悪い話でなく上質の怪奇小説になっているかというと、語り手が死んだ子供たち自身だということの影響が大きい気がする。怖いのは死ぬまでのことで、彼らはすでに死後の安息を得ているのだ。「すでに終わったこと」であれば、額縁に入った絵のように眺めることができる。現実はつらく哀しいが過去は甘くて苦い。だからこそ怪奇と幻想はいつも過去を語るのだろう。
おまけついで。S・キングのホラーを読んでいると段々つらくなっていくのは、きっと過去じゃなく常に現在を書いているからなのかもしれない。終わった話ではなく現在進行形の恐怖だからこそあの迫力が出るし面白くなるのだけれど、その代わりたくさん読むと胃にもたれてくる。食傷気味になるのだ。(もちろんキング作品の優劣の話ではなくて単なる好みの話。)もしかして「現在形」というのは、モダンホラーが「モダン」たる所以なのかも。またゴシック・ホラーと違って物語としての額縁が無いところなどは、実話怪談と共通するものがあるのかも知れない。考え出したら結構面白そうな話になりそうな気がする。

『江戸化物草子』アダム・カバット編 角川ソフィア文庫
十返舎一九の『妖怪一年草(ばけものひととせぐさ)』や『化物の娵入(よめいり)』などの作品を中心に、江戸時代の草双紙を翻刻とともに全五篇収録。山口昌男や辻惟雄、宮田登に小松和彦といった錚々たるメンバーによる解説も大変読み応えあり。取り上げられている話自体はたわいもないものなのだが、解説で小松和彦氏も書かれていたように、文化史や社会学的な視点でみてみると、がぜん面白くなってくる。そして「化物(妖怪)」がどのような社会的役回りだったのかを見ることで、当時の社会風俗が陰画のように眼前に立ち現れてくるのだ。

『社会学の根本概念』マックス・ヴェーバー 岩波文庫
最晩年の著者が社会学の様々な概念についてまとめた未完成の論文。複数の人間同士の相互関係を「社会的関係」とし、それにまつわる行為/秩序/闘争(淘汰)/団体/権力といった諸概念について定義を試みている。未完のまま途絶しているだけに内容には粗密があり、無味乾燥な用語の羅列や考察が不充分な部分も散見される。しかし読んでいるうち、ヴェーバーが社会学の枠組みで取り組もうとした課題の輪郭が徐々に見えてくる気がする。本書を読む限りでは社会学とは社会をいくつかの要素に分解し、それらの関係性を明らかにしようとするものといえるだろうか。ただ、各々の関係性が顕在化した部分についてのみ考察の対象としている感じもして、それらの関係性の根本原因に興味がある自分としては、少し食い足りない感じがしないでもない。(しかしヴェーバーが本書を書いた目的からしても、著者の意見に同意できるか否かはまた別の問題として考えるべきだろう。

『アレント入門』中山元 ちくま新書

このところ国内外ともにキナ臭い状況が続いている。以前から「暴力」の意味について興味があったのだが、ハンナ・アレントにはまさに『暴力について』という著作があり、いちど読んでみようかと迷っていた。しかしアレントは全くの不案内。そのような著作を初めて手に取ろうとする場合、いきなり高いハードカバーでは外れた時のダメージが大きいので(笑)、まず概要をざっくり頭に入れることにした。ほんとうはこういった解説書ではなく本人の著作を直接読むのが一番なのはわかっているのだが、どこから手を付けて良いかすら判らない時はまず視座を頭に入れておきたいのだ。
前置きが長くなってしまったが、そんなわけで本書について。本書はハンナ・アレントの思想を著作の時系列、すなわち『全体主義の起源』『人間の条件』『イェルサレムのアイヒマン』、そして連続講義「道徳哲学のいくつかの問題」に沿って俯瞰していくものだ。ハイデガーとの関係やユダヤという彼女の出自から出発し、やがて到達し得た独自の道徳哲学を解説する。(本書を読んでみて、『暴力について』それより『人間の条件』や『責任と判断』といった辺りの著作を先に読んだ方がいい気がしてきた。)
中身についても軽くふれておこう。端的にいえばアレントは「なぜナチスに代表される全体主義が発生し」、そして「それを食い止めるには何をすれば良いのか」を考察した人といえる。そして彼女は人々が社会的に「孤立」の状態に置かれていることこそが全体主義の温床となると指摘し、対抗するには「公的な領域」を作り出す事と、その中で人々のまなざしの下に行動することが重要であると説いた。それが示されているのが冒頭に挙げた『全体主義の起源』および『人間の条件』というわけだ。
本書によれば、アレントは人間の行為を「労働」「仕事」「活動」の三つに分けて定義し直しているそうだ。最初の「労働(labor)」とは個人の生命維持に必要な行為であり、次の「仕事(work)」は世界に何らかの"作品"を残し人々の間に"世界"を構築する行為。そして最後の「活動(action)」は、人と人との間に交流を生み出す行為であるとのこと。全体主義に深く関わりがあるのは、これらの行為のうち最後の「活動」であり、具体的な事例としては古代ギリシアのポリスにおける「民会」が引き合いに出されている。
古代ギリシアにおいて民会すなわち「公の場」で発言するのは、自由な市民として他の市民を説得しようという意思の表れ。発言する者はその行為によって、自らがどんな存在なのか周囲に暴露する危険を引き受ける覚悟を持つ。また他者に意志を示すということは、すなわち他者から反論される危険性を引き受けることでもある。(インターネットのブログやSNSをみていると、現在は自分の主張はしても前述のような「危険」を引き受けようとはしない人もけっこう多い気がする。SNSはまるで私的空間のような親密さで見ず知らずの人とも気軽にコミュニケーションを取れるのは良いのだがまた一方で暴走の危険も孕む。自分の世界を大事にするのであれば、あえて他者の視線をもっと意識するべきなのかもしれない。)

閑話休題。しかしアレントによれば、そのようにして危険を冒しながらも公の場で発言することが、すなわち他者と異なるその人自身の「他者との差異性」を明らかにする方法に他ならない。そして先に述べたように、「公的な領域」を通じて人同士が交流することこそが、全体主義に絡め取られないために必要な行為なのだ。(*)

   *…ただ、アレントが「公的な領域」と「私的な領域」の区別を強調しすぎているような
      ところが、若干気にはなった。カレントが私的領域と呼ぶ家庭といえども、家族と
      いう自分以外の人間との関係性が生じるなら権力は発生するわけで、ある種の
      「公的空間」と呼んでも差し支えないのではなかろうか。そのうち積まれたままに
      なっている『人間の条件』を直接読んで確認してみたい。

次はアイヒマン裁判の傍聴記である『イェルサレムのアイヒマン』。この本で彼女はナチスの「良き歯車」であろうとしたアイヒマンの裁判を傍聴してレポートにしたためる。彼女はアイヒマンの「恐ろしいほどにノーマル」な印象が与える「悪の凡庸さ」に衝撃を受け、そして深い思索の末にアイヒマンに彼女なりの「死刑判決」を下すのだそうだ。
それは単にアイヒマンが非人道的な行為に加担したからでも、犠牲者があまりに多いからでもない。彼女が「死刑判決」を下したのは、彼が「この地球に誰が住み誰が住んではならないかを決定する権利を持つかのように」振る舞い、その行為を実行したからなのだという。そのような人物だからこそ、地球上で誰からも「ともに天を戴く」ことを望まれないであろう――ということこそがその理由なのだ。(このあたりのアレントの批判は問題の核心を突いている感じがする。)
自分が思うに、これは他国の人々や透析患者へ暴言を吐く人たちにも通じる批判であるまいか。そしてアレントが生涯を通して追究した「思考する力は人が悪を為すことを防ぐことができるのか、という問いは現代に生きる我々にこそ問われなければならないものではないかという気がする。ふうむ、重たいテーマだ。

<追記>
キリスト教徒やユダヤ教徒、そしてイスラム教徒といったいわゆる“啓典の民”にとっては、神の定めた戒めを破ることがすなわち罪になるのだろうと思う。いっぽうで自分も含め宗教に対して不信心な一般的日本人にとってはそうではない。我々にとって神の戒めの代わりになる価値観は、昔は「世間体」というものだったと思われる。しかし地域のコミュニティや大家族制が崩壊した今となっては、「世間体」なるものはほぼ死語に等しくなってしまった。そしてSNSでは代用となる価値観を提供するにはあまりに狭くまた弱い。結果、よく「ぶれる」のだ。
かつて「神が死んだ」時代に、それに代わるものを哲学で打ち立てようとしたのがニーチェだったと思うのだけれど、ポピュリズムと同様、全体主義の道具としていいように使われてしまった。哲学は困難な時代に人々の救済にとって強力な武器になると思うのだけど、色々な理由でそれが受け入れられない人はいる。遥かな昔それを支えていたのが信仰だったのだろう。だからこそ鎌倉の戦乱の世に、悟りを開くための修行をする力も時間もない衆生のため、法然や親鸞らが南無阿弥陀仏を唱えたのだ。
しかし信仰すら確固たるものを与えられない時代においては、カルト化もせず普遍的な救済を与えるのは大変な困難を伴う。してみると未来の哲学や社会学や政治学の使命は、信仰に代わるものを生み出すことなのかもしれない。そしてそうでなければ、本来の目的を果たすことが出来ないのではあるまいか―― とまあ、そんなことを考えてみたりもするのだ。
読まなきゃね、アレント。

2017年2月の読了本


『山怪(弐)』田中康弘 山と渓谷社
日本全国の山林を取材するカメラマンが、あちこちで聞きかじった山人達の体験をそのままの形でまとめた実話系怪談の第二集。姿が見えぬもの達の来訪をはじめ、様々な怪異の様子が前作と同様の語り口でつづられる。正体が判らない方が恐ろしいのは、例えばロバート・エイクマンの『奥の部屋』の怪奇小説などと同じ。オチなし意味なしの怪異がただ素材のままゴロリと放り出されているのがいい。まるで怪異の活け造りだ。

『アレント入門』中山元 ちくま新書
ハンナ・アレントの思想を『全体主義の起源』『人間の条件』『イェルサレムのアイヒマン』、そして連続講義「道徳哲学のいくつかの問題」という著作に沿って俯瞰する入門書。ハイデガーとの関係やユダヤという彼女の出自から出発し、やがて到達し得た独自の道徳哲学を解説する。『人間の条件』や『責任と判断』といった著作も読んでみなければ。

『狂気の巡礼』ステファン・グラビンスキ 国書刊行会
『動きの悪魔』で本邦初紹介となった作家の第二作品集。超常的な戦慄に満ちた十四篇はいずれもレベルが高い。精神が現実世界に、あるいは死者が生者の思考に影響を及ぼす話が多いが、これもまた20世紀初頭という時代を感じさせて好い。全篇を通じて『動きの悪魔』よりも凄惨で狂気に満ちている気がして、どちらかといえば前作よりこちらの方が好みかもしれない。
中身については、例えば「薔薇の丘」では夢野久作『ドグラ・マグラ』やD・リンゼイ『憑かれた女』にも通じる感触があるし、「接線に沿って」では稲垣足穂のロバチェフスキー空間を思わせるような描写もある。また「海辺の別荘にて」や「灰色の部屋」といった短篇は、どことなくバラード〈ヴァーミリオン・サンズ〉の「ステラヴィスタの千の夢」あたりを思わせるし、「チェラヴァの問題」に至ってはスティーブンソン『ジキル博士とハイド氏』を連想したりと、大変バラエティに富んでいる。全体を通しての印象は、無意識や精神に関する怪奇譚が多いということだろうか。これは19世紀末から20世紀初頭という時代背景からして、フロイト心理学の影響が大きかったのかも知れないがよく分からない。かなり面白かったので、同じ著者の3作目が出ることをぜひ期待したい。

『ようこそ授賞式の夕べに』大崎梢 創元推理文庫
〈成風堂書店〉と〈出版社営業・井辻智紀〉の両シリーズが合流する贅沢な書店ミステリ。あちこち走り回る主人公たちがやがて「書店大賞」の授賞式で一堂に会して謎が解かれる。これはあれだ、ジョージ・R・R・マーティンらによる<ワイルド・カード>のシリーズと同じ「モザイク・ノベル」のスタイルだ。本屋大賞ならぬ「書店大賞」を扱った作品とあって、書店を巡る状況の厳しさやそれを打破しようと尽力する人々の姿がいつにも増して強く描かれていて、読んでいてとても気持ちがいい。毀誉褒貶相半ばする本屋大賞ではあるが、本書のような思いで関わっている人もいるのだろうねえ。このシリーズはキャラが魅力的だ。

『スタッキング可能』松田青子 河出文庫
現代日本の女性が感じているであろう怒りや焦燥や哀しみや、その他諸々の思いを絶妙な言語感覚でまとめ上げた不思議な短篇集。取り上げられている内容は、所謂ジェンダーと呼ばれるものではあるのだろうけど、抗う気持ちは女性も男性も同じようだ。女性が日々感じている気持ち悪さを知るためだけでも、男性は読むといいのではないか。(しかし気持ち悪さを与えている当の本人は、こういう本は一切読まないような気もするけど。)

『ピエール・パトラン先生』 岩波文庫
『パンタグリュエル』の訳者・渡辺一夫御大の手による中世フランスの笑劇。作者不詳だが創作年代は15世紀半ば、日本でいえば応仁の乱の時代にあたる。(一休禅師の『狂雲集』と同じころだ。)
話は単純で、素寒貧の代言人(弁護士)ピエール・パトランが、羅紗屋(服地屋)を相手に高級服地を騙し取り、まんまと逃げおおせるまでの顛末を描く。同じく中世のいたずら者ティル・オイレンシュピーゲルの説話と同じで、今とは違う価値観に基づいた哄笑が全編に響きわたっている。なんだか狂言みたいな感じもあって面白い。

『動物農場〔新訳版〕』ジョージ・オーウェル ハヤカワepi文庫
叛乱を起こして農場主を追放し、農場の自主経営を始めた豚や馬や犬といった動物たち。はじめは自由と希望に満ちていた彼等の暮らしは、やがて一匹の豚による独裁によって地獄へと変貌を遂げていく。たしか開高健が『1984年』よりも優れていると手放しで褒めていた作品で、テーマは重いが寓話なのですらすらと読める。一読すれば判るように本書のテーマは直接的には当時の共産主義批判なわけだが、内容としてはもっと普遍性を持っているといえる。スターリンを模した豚による権力の奪取の過程や、ある種のプロパガンダを利用した独裁制の描写は確かに過去のソビエト連邦や隣の半島の収容所国家を思わせるけれど、我々だって決して他人事ではない。愛国の名の下に暴力と恫喝で社会を私物化しようとする施政者にも通じるものではないだろうか。割と薄めの本だけれど、著者自身による序文や訳者の山形浩生氏の解説もついてお買い得だ。

『湯女図』佐藤康宏 ちくま学芸文庫
江戸の私娼である湯女たちを描いて重要文化財に指定される「湯女図」の構図を詳細に分析し、その視線の先にあるものを推測する。絵の崩れから原図からの写本であることを示唆したり、元絵の描き手の推定やそして絵に込められた意図まで内容は盛りだくさん。様々な参考資料を縦横無尽に飛び回り、読む者に知的興奮を呼ぶ。辻惟雄氏により提唱された「二曲屏風の左扇が残ったもの」が通説になっていたらしいが、本書では代わりに「四曲屏風の一部」であるという説を新たに示したりするところは、詳しい人にも結構刺激的な内容ではないかと思われる。また、江戸幕府の公娼たる吉原と市中の湯屋との確執から当時の風俗までを視野に入れ、女性の置かれていた社会的立場まで考察するなど、社会学の領域にまで踏み込んでいる。まさに副題「視線のドラマ」に相応しい、盛り沢山な内容だった。元々は平凡社の〈絵は語る〉のシリーズの一冊として二十年ほど前に出たものの文庫化だそうで、画像が小さくて見難いことだけが残念だが内容は今でも全く古びてはいない。いやあ、美術史って面白いなあ。

『おそれミミズク』オキシタケヒコ 講談社タイガ
”僕”は十年前の暗い座敷牢での少女との邂逅をきっかけにして、彼女に週に一度会いに行くことになった。ただこわい話を聞かせに行くために……。実話怪談かと思いきや、物語はやがて驚く展開を遂げて最後は綺麗に着地する。怪異に全て理屈がつくのは怪談というよりSFといえる。「実話怪談ホラーSF」だ。ラストもしっかりハッピー・エンドで読後感も悪くない。講談社タイガというレーベルの本を読んだのは本書が初めてだが、「講談社ノベルスの兄弟」という位置づけや表紙イラストのテイストからして、もしかしたらヤングアダルト向けのレーベルなのかな?こういう話が中高生の頃に読めたら良かったのだがなあ。

2017年1月の読了本

相変わらずの低空飛行だが何とか6冊読めた。(漫画版『夢十夜』も加えると7冊。)読了数は少ないが、好きな物だけ読んでいるので満足度はわりと高い。(ただし相変わらずのペースで本を買っているので、読めない本は溜まっていく一方だが。/苦笑)

『月光とアムネジア』牧野修 ハヤカワ文庫
架空の言葉と文化を持つ架空の国が舞台。かつて〈レーテ〉と呼ばれる異常空間での事故で重篤な認知障害に陥った元刑事が、伝説の殺人者「月光夜」を追って再び〈レーテ〉へと侵入する......。凄惨なシーンが強烈なバイオレンス幻想小説。暴力的な描写が苦手な方にはちとつらいかもしれないが、この著者の言葉の感覚はとても好きだ。

『月の裏側』クロード・レヴィ=ストロース 中央公論新社
訳者は人類学者の川田順造氏。副題に「日本文化への視角」とあるように、著者の文章から日本に関するものだけを集めたオリジナル編集。日本に関する講演録や序文といった小文を集めたもので、取り上げられるテーマは『日本書紀』や『源氏物語』、『因幡の白兎』の説話や琉球のノロ、そして仙厓和尚の水墨画など。内容は説話分析から旅行記や対談など幅広い。日本人に馴染みのあるものばかりなので入門書として良いかも。外国人であるが故の日本文化に対する勘違いや誤解も多く見られるが、それぞれ川田順造氏による訳注で丁寧にコメントされているのも親切だ。

『増補 モスクが語るイスラム史』羽田正 ちくま学芸文庫
東はイランから西はスペインまでを対象に、7〜18世紀の大モスクの様式を通じてイスラム世界の変遷を紹介した本。イスラムの歴史を建築で繙くのはこれまで知らなかった視点で大変に面白く読めた。新たに追加された補章も大変良い。22年前に中公新書から出て品切れとなったままの本を、こうして復刊してくれるのはとても有難い。(すぐに学芸文庫自体が品切れになってしまうのが難点だが。/笑)著者は本書について「もう古い本なので今更」と言いつつ新たに補章を追加してくれていて、その後出た関連本を紹介してくれているのも好感が持てる。しかしなかなかどうして、補章を除いても今読んで充分に面白い内容だと思う。

『怪書探訪』古書山たかし 東洋経済新報社
ミステリを中心に稀覯本や珍本を収集する著者による、自らが収集した古書にまつわるエピソードと、横田順彌氏の『日本SFこてん古典』を彷彿とさせるような語り口がとても愉しい珍本の紹介からなる古書エッセイ。著者の本職は上場企業の役員だそうで、結構なお金を古書蒐集につぎ込んでいる所謂「書痴」もしくは「書鬼」というタイプの人。元になった文章も実は東洋経済オンラインに連載したものなのだそう。なぜこんなお堅い出版社から出たのかと思っていたが腑に落ちた。
ポプラ社の少年探偵シリーズや南洋一郎版のルパンシリーズに、中島河太郎著『推理小説の読み方』など、著者が子供の頃に読んでいた本が結構自分とだぶっているので、もしかして著者は自分と同年代なのかもしれない。それと、豪雨の際にマンション上階のベランダから溢れた大量の汚水が著者の蔵書の上へしたたり落ちるくだりは、読んでいてとても心臓に悪かった。本好きにとってはちょっとしたホラー小説のようなものだ。

『夢十夜』夏目漱石/近藤ようこ 岩波書店
夏目漱石の小説『夢十夜』を近藤ようこ氏が漫画化したもの。文章で表現された世界を近藤氏のイマジネーションで絵にしていく。考え抜かれた構図も流石。自分のイメージと違うところもあるし、自分のイメージをはるかに超えるものもあって、ずっと眺めていても飽きない。なるほどこういう風に絵になるのかと、文章では正直あまり面白くなかった話もこうして見るとまた楽しく読める。
小説版『夢十夜』で好きなのは、百合の花の第一夜に子供を背負う第三夜、蛇使いの爺さんの第四夜に海をゆく大きな船の第七夜、そして豚に舐められる第十夜といったところだが、漫画版『夢十夜』では夜の侍の第ニ夜と床屋の第八夜もかなり好かった。これらの作品は映像化した方が断然好くなると思う。(それが近藤氏の画力によるものではあるのはもちろんだが。)

『夫のちんぽが入らない』こだま 扶桑社
今話題の本。衝撃的な題名もさることながら、中身もなかなかに重い。複雑な家庭関係に育った一人の女性がやがて小学校の教師となり、心と身体を病んで苦しみつつも夫との「平穏な」生活を掴むまでの壮絶な記で、以前読んだ卯月妙子氏の漫画『人間仮免中』を思い出した。これはすごい。

『ドラゴン・ヴォランの部屋』J・S・レ・ファニュ 創元推理文庫
表題作はまるで『三銃士』を思わせるような軽快で仕掛けに満ちた中篇で、無鉄砲で直情的(悪く言えばおバカ)な主人公がひとりの女性に振り回される。著者に当初期待していた怪奇譚ではなかったけれど、スリルがあってこれはこれで愉しかった。その他には初期と後期からそれぞれ二篇ずつ怪奇譚を収録しており、幽霊や妖精が跋扈する話も存分に愉しめる。自分はファウスト的な悪魔物や妖精郷の話が好きなので、収録作の中では「ロバート・アーダ卿の運命」と「ローラ・シルヴァー・ベル」が好みだが、「ティローン州のある名家の物語」に出てくる盲目の狂女もかなり怖いのでお奨め。
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Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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