2017年6月の読了本

『死せる神々 ロシア幻想短編集III』A.アンフィテアトロフ他 アルトアーツ
20世紀初頭のロシアに花開いた幻想文学の系譜を紹介するアンソロジーの第3弾。バラエティにとんだ6つの短編を収録する。一般書店で売っているものではないので通販を利用したのだが、一昔前なら絶対に入手できなかったような作品が読めるのはネット時代のいいところだと思う。収録作品の中ではケン・リュウの中国ファンタジーを思わせる「オパール」や、ただひたすら圧倒される「沈黙」が好かった。

『里山奇談』coco/日高トモキチ/玉川数 角川書店
いわゆる「異界」である山や川辺を訪れた人々が体験した奇しい話の聞き語り集。ページをめくると目の前に不思議な世界が広がってゆく。柳田國男や柴田宵曲、根岸鎮衛『耳嚢』などが好きな人はかなり気にいるのではないか。たんに怖いというより「畏れ多い」と言った方がしっくりくる。実話系遠野物語とでも呼べば良いだろうか。マタギの人たちに山奥での体験を聞いた『山怪』も面白かったけど、こちらは舞台が里なのでよけい身近に感じる。いたずらに怖がらせようとするのは興ざめだけど、こういうのは好きだ。

『奇妙で美しい石の世界』山田英春 ちくま新書
本業の装丁家としてだけでなく瑪瑙コレクターとしても広く知られている著者が、「模様の美しい石」の数々に関する様々なエピソードをカラー写真とともに紹介した本。風景画のように見える「風景石」や樹木のように見える石など、収録された写真はどれもたいへんにとても美しい。それにしても瑪瑙がこんなにきれいな石だとは知らなかった。語られている薀蓄も愉しい。たとえば「中国で、美しい石「玉(ぎょく)」といえば翡翠だが、日本で「玉」といえば、まず瑪瑙やジャスパーなのだ。「玉川」と名がつく川は上流から瑪瑙などの美石が流れてくる川であることも多い。」世界を広げてくれる本は読んでいて愉しい。

『ブローティガン 東京日記』R.ブローティガン 平凡社ライブラリー
『アメリカの鱒釣り』や『西瓜糖の日々』といった作品で有名な作家・詩人の著者が、1976年5月から6月30日までの東京訪問時に書き留めた詩をまとめたもの。全く馴染みのない文化、言葉すら通じない異国でひとり過ごす寂しさと見知らぬものへの興味を独特のリズムで描きだす。布団の中でぱらぱらとページをめくっていると、ついうとうとしてしまう。ブローティガンは読んでいて気持ちいいのだ。
「ねむりのないねむりのあとに ふたたびねむる ねむること なく」(「ぼくのベッドを見る/午前三時」)

『星の子』今村夏子 朝日新聞出版
わが子の病気をきっかけにして「あやしい宗教」にのめりこんだ両親。娘の目を通して彼らの日々の生活が淡々と語られる……。いつも氏の作品ではいびつな人間関係を通してぞわぞわと心を逆なでにされる。無事に毎日を送りたければ気づいてはならないことがある。気付けば耐えられなくなるから。描かれぬものこそが雄弁に語りかけてくて止められない。
描かれているのはひと言で言えば「しあわせ」と呼ばれるものなのかもしれないが、それはよくあるように健やかな状態が失われて感じられるといった安直な描き方ではない。どこまで歪めてもそれを「しあわせ」と呼ぶことができるのか、ぎりぎりの判断を強制する。そして極限まで歪んだ「しあわせ」は、そのまま「不気味の谷」と化して読者にせまってくる。このあたりは同じく「痛み」をテーマとするアンナ・カヴァンの作風とも違っている。なぜならカヴァン作品の語り手は自らの不幸を直視しているから。そう考えると今村作品はカヴァンよりもある意味さらに残酷な物語と言えるかもしれない。

『夜の夢見の川』T・スタージョン、G・K・チェスタトン他 創元推理文庫
翻訳家・アンソロジストの中村融氏による〈奇妙な味〉の作品を集めたアンソロジーの第2弾。恐怖あり不思議あり余韻ありの好作品集で、前作『街角の書店』よりさらに薄暮から暗闇にかけての気配が強まった気がする。(なにしろ冒頭の「麻酔」には度肝を抜かれた。)
「麻酔」「バラと手袋」「お待ち」の後味の悪さに「終わりの始まり」「ハイウェイ漂泊」「銀の猟犬」や「心臓」「怒りの歩道」の不安な気持ち、「アケロンの大騒動」と「イズリントンの犬」のユーモアに「剣」と表題作の底知れぬ怖さ。何れ劣らぬ十二の秀作揃いで“ほの昏い”読書が堪能できた。

『少年十字軍』マルセル・シュウォッブ 王国社
シュウォッブは一部に熱狂的なファンを持つ作家。本書は彼の『黄金仮面の王』『二重の心』という二つの初期作品から厳選して訳出した短篇集で、ポーやダンセイニ、ヴァーノン・リーなどに共通する幻想と衒学と愉しさに溢れている。休日にパスタとワインの昼食を摂って、午後の風に吹かれながらリクライニングチェアで本書を読んだらまさに至福の時間だった。特に好みだったのは「黄金仮面の王」「大地炎上」「リリス」「少年十字軍」。ちなみに訳者の多田智満子氏はアルトー『ヘリオガバルス』やユルスナール『東方綺譚』など手がけられていて、格調高い訳文も好かった。

『花の命はノー・フューチャー』ブレイディみかこ ちくま文庫
イギリスの港町ブライトンで労働者階級の連合いと暮らす著者による強くて痛快なエッセイ。氏が語るのは「逆境」が世代を越えて受け継がれるクラスタで暮らすということ。センチメンタルな気持ちなど吹き飛ばして生きる姿はパンク。読んでいて気持ちがいい。
「『そんなに未来に希望が持てないのなら、生きる甲斐がないじゃないか』と言われることがよくある」
「最後には各人が自業自得の十字架にかかって惨死するだけの人生」
「それでも(中略)生きようとするからこそ、人間の生には意味がある。そういう意味だったら、わたしもまだ信じられる気がする」
それにしてもシモーヌ・ド・ボーヴォワールに雨宮まみ、こだまに笙野頼子、そしてチママンダ・ンゴズィ・アディーチェにブレイディみかこと、読むと無性に何かを語りたくなる本の著者がきまって女性というのは、きっと何か意味があるという気がする。

『東方綺譚』マグリット・ユルスナール 白水uブックス
東方の地を舞台に著者が自在に想像を膨らませて描いた九つの物語。多田智満子氏の美しい訳文が幻想的な雰囲気を一層かきたてて素晴らしい。冒頭の「老絵師の行方」と掉尾を飾る「コルネリウス・ベルクの悲しみ」がとても気に入った。

『本棚探偵 最後の挨拶』喜国雅彦 双葉文庫
ハードカバーでも読んだのだが、文庫になったのを見かけたらつい買ってしまった。人気ギャグ漫画家による古本とミステリをテーマにしたエッセイの第四弾。著者は本書で日本推理作家協会賞を受賞した。この巻で一旦打止めとのことでちょっぴり寂しい気持ちがするが、でも読み返したらやっぱり面白かった。「文庫本のためのあとがき」も新たに書き下ろされているのでお買い得。

『むずかしい愛』カルヴィーノ 岩波文庫
境遇も性別も様々な人々による「冒険」を通して、人との触れ合いの不在と、そしてそんな世界で生きていくということの一瞬を照射する。カルヴィーノの作品ではときどきハッとするような文章にぶつかる。といっても大上段に構えた警句とかではなく、わけのわからなさにどきっとするのだ。たとえば「幸福とはウズネッリにとって、宙ぶらりんの状態、息を殺して生きるようなものだ」とか、あるいは「彼は藤の花をながめていた。いかにも藤の花のながめ方を心得ているといった様子で、かれは藤の花をながめていた。」といった文章。やはりどう考えても変だ。カルヴィーノの魅力はもしかしたらこういった「わけのわからなさ」にあるのかも知れない。最初はすこし戸惑ったが、後半の「ある読者の冒険」からツボに入った。「ある夫婦の冒険」「ある詩人の冒険」「あるスキーヤーの冒険」の流れはちょっと奇跡っぽいとさえ思う。
(SFファンのための追記:ふと思ったのだけれど、本書のテーマである「愛(=コミュニケーション)」の不在や不可能性は、スタニスワフ・レムの『エデン』や『ソラリス』といった作品と共通するところがあるかもしれない。)

『ヒドゥン・オーサーズ』西崎憲/編 惑星と口笛ブックス
ついにでた電子書籍オリジナルの叢書〈覚醒と口笛ブックス〉の第一弾。(大前粟生氏の短篇集『のけものどもの』と同時発売。)同じく西崎氏の編集で書肆侃侃房から出ている文芸誌『たべるのがおそい』と同様に、小説だけでなく詩や短歌などジャンルミックスの作品集となっているが、こちらの方がより「尖がって」いるような気がする。たとえば冒頭の作品は、我々の住む世界とは全く繋がりのない(因果律も異なる)世界で、異質な人々が紡ぐ物語。もしも我々自身と共通するものがあるとすれば、それは 唯一彼らが感じる情動ぐらいなものなのだ。こんな調子で最初から最後まで、読んだことがないような作品が続く。従来の商業枠には収まりきれない作品を収録したショーケース的作品集といえるだろう。
特に好みだった作品は、大滝瓶太「二十一世紀の作者不明」、斎藤見咲子「マジのきらめき」、大原鮎美「月光庭園」、野村日魚子「夜はともだちビスケット」、ノリ・ケンゾウ「お昼時、睡眠薬」、伴名練「聖戦譜」、岡田幸生「『無伴奏』抄」、深沢レナ「芋虫・病室・空気猿」、深堀骨「人喰い身の上相談」あたりだろうか。

2017年5月の読了本

出張に行く機会が増えたことも大きいが、だんだんと読書ペースが戻ってきて嬉しい。好きな本を好きなタイミングで読めるしあわせを噛みしめている今日この頃であるね。

『ハイン 地の果ての祭典』アン・チャップマン 新評論
20世紀初頭まで南米パタゴニアに暮した原住民族セルクナム族。彼らが伝えていた男子の成人儀式「ハイン」の様子とその宇宙観について、人類学者でもあった神父グシンデの貴重な写真と記録を基にして著者がまとめた本。
儀式の中心となるのは成人男性が演じる様々な精霊たち。精霊は天を表すものと地から湧き出るものの二種類に分かれており、いずれも赤・白・黒の三色に塗り分けられた身体と奇怪な仮面で表現される。精霊の異様な姿と不思議な儀式の描写に魅了される。白人の入植と麻疹の流行で彼らの社会は今はもう崩壊してしまっており、儀式でもあり演劇でもあったハインの記録をこうして残す事ができたのは良かった。
彼らの社会は極端な男性権力型で、それを正当化するために伝えられていた神話がまたすごい。遥かな昔、彼らの社会は今とは逆で女性シャーマン「月」が支配する極端な母権制であり男たちが革命により勝ち取ったとされる。(まるで映画『猿の惑星』をみているようだ。)男たちの一斉蜂起で女の世界が一夜にして滅び、後に残ったのは秘密結社により受け継がれるミソジニーと男性支配の構図。まあこのような文化が今に受け継がれなくて良かったのかもしれないが、本で読んでいる分には大変に興味深い。異様な精霊たちの姿と相まってまるで物語を読んでいるような感覚に陥いってゆく。いろんな意味ですごい。
最後まで読んだら地元の話題がでてきて驚いた。この貴重な記録や写真を残したマルティン・グシンデ神父は、その後1959年に南山大学に教授として赴任して人類学研究所の設立に関わったとのことだ。なお全編に流れる雰囲気は何となく『悲しき熱帯』を思わせたが、著者がレヴィ=ストロースの薫陶を受けた事とは多分関係ないだろう。文化人類学好きなら絶対愉しめる。

『うろんな客』/『不幸な子供』/『敬虔な幼子』エドワード・ゴーリー 河出書房新社
四日市市立博物館で開催していた「エドワード・ゴーリーの優雅な秘密」展を見に行って、あまりに面白かったのでミュージアム・ショップで衝動買いしてしまった3冊。なんとも人を喰った展開とブラックな味わいが堪らなく好い。『うろんな客』にでてくる“うろん”のピンバッジまで買ってしまった。

『母の記憶に』ケン・リュウ 新☆ハヤカワ・SF・シリーズ
大評判となった『紙の動物園』に続く日本オリジナル短篇集の第二弾。ショートショートから中篇まで、訳者の古沢嘉通氏が厳選したバラエティあふれる十六篇が収められてあるが、今回もいずれ劣らぬ傑作揃いでハズレが無い。冒頭の「烏蘇里羆(ウスリーひぐま)」「草を結びて環(たま)を銜(くわ)えん」からいきなり物語世界に引きずりこまれる。色んなタイプの物語が入っているので、前作と同様、読む人によって好きな作品が分かれるのではないだろうか。
ケン・リュウ作品が後を引くのは登場人物の関係がとてもウエットだからかもしれない。つねづねSFの魅力は展開のドライさにあると思っているのだが、この人の作品ほどウエットで且つ面白いSFというのはこれまで経験したことがない。ウエットなのはジェンダーや家族関係に踏み込むからだろうか。そしてドライではない代わりにとてもビター。たとえば「レギュラー」ではサイコパスのよる連続殺人とそれを捜査する私立探偵の物語を軸に、未来のテクノロジーが生み出すアジア社会の描写と探偵を苦しめる過去の呪縛が良い具合に合わさってサスペンスを盛り上げる。抒情的なのだけれど甘くはないところが持ち味だ。
あえて気に入った作品を三つ選ぶとすれば、「草を結びて環を銜えん」「レギュラー」「上級読者のための比較認知科学絵本」だろうか。「カサンドラ」「訴訟師と猿の王」や「万味調和」もかなり気に入った。

『ペルーの異端審問』フェルナンド・イワサキ 新評論
あちこちの古文書館に保管された異端審問史料を丹念にひもといて、「異端の罪」に問われた被告たちの罪状と、彼らがいかに裁かれたかを紹介した本。むかし平凡社ライブラリーで読んだヤコブス・デ・ウォラギネ『黄金伝説』を裏返したみたいな印象だが、人々がどのような信仰をおくっていたかの貴重な記録でもある。罪の動機も現代とそう変わらない。訴えさえあれば審問会が開かれるので、聖女と称して様々な奇跡を起こした人々が悪魔の所業として逆に異端に問われることだってある。結果、自分から見たら『黄金伝説』に列挙される聖人たちと区別のつかない者たちが裁かれることにもなるのだ。
ただし実際には「異端審問=即極刑」というわけではないようだ。被告は裁判で悪魔信仰を放棄(否定)して審問官に「単なる肉欲を抑えられぬ一罪人」と見なされれば、追放などの軽い処置で済む。また正真の「愚者」と見なされれば、やはり死刑ではなく病院送致となる。罪状や審問のやりとりはえげつないものも多いが、歴史学的な見方をすればかなり面白い。また当時の彼らの感覚はそのまま読めば幻想文学としても楽しめる。バルガス・リョサが序文を書いて筒井康隆か帯の推薦文を書いているのはダテではないのだ。

『水蜘蛛』マルセル・ベアリュ 白水uブックス
幻想的な中短篇を十二篇収録した作品集。〈小説のシュルレアリスム〉叢書の一冊だが中身は正統派の幻想小説だった。18~19世紀ごろの別の誰かの作品といっても通用しそうな気もする。「球と教授たち」「向いの家」「宝の島」「百合と血」などはとても好み。詩人だけあってイメージが詩的でとても綺麗だ。表題作のエーベルス「蜘蛛」にも通じる不安感や「球と教授たち」のタルホ的な味わいも面白かった。

『食通知つたかぶり』丸谷才一 中公文庫
神戸を皮切りに伊賀や高松に酒井など日本全国を食べ歩く。ひたすら食い、呑み、味わうことに徹しているのが気持ちいい。作者自身が執筆の動機を「言葉によってどれだけものの味を追へるか」と述べているだけあって食べ物の形容がとにかく見事。ねっとりとして舌にまとわりつくような味わいがある。旧仮名遣いの文章も好い。書名の「知つたかぶり」みたいに小さい「っ」を使わないってのはなんか良いなあ。
食べ歩きエッセイの愉しさは、いかに言葉をつくすかにあると思っているのだが本書はその点では申し分なく、これでもかと言わんばかりに書き込まれた言葉がそのまま舌に旨い。「豪奢」に「嬌柔」に「流麗」とか、あるいは「瀟洒」に「柔媚」など。また「清楚淡白」に「香美脆味」、「優雅端正」に「清凛豊饒」、「甘美肥甜」なんてのもでてくる。(もっとも岡山の魚正とか名古屋の鳥孝など店を検索してみるととんでもなく高級な店なので旨いのは当たり前かも。)
あるレストランでは「牛の髄の焼いたの(ベイクト・ボウン・マロウ)」を食べていていかにも美味しそうなのだが、こんなの今では絶対食べられないだろう。古い本なので他にも鯨料理など今ではおいそれとは食べられないものも出てきて、図らずもある時代の日本を切り取ったポートフォリオのようになっているのが興味深い。ひとつ驚いたは、店の名前をそのままに、感心しない料理はそのまま「いただけない」とか書かれているのもあったこと。自由すぎる表現は丸谷氏ご本人の性格によるものか、あるいはこれもその時代では普通だったのか。はたして店の人は怒らなかったのだろうか?

『巨神計画(上・下)』シルヴァン・ヌーヴェル 創元SF文庫
世界各地の古代地層から見つかったのは超文明による巨大ロボットの部品だった。その秘密を解き明かすべく集められた個性的なメンバーは、否応なく世界レベルの陰謀に巻き込まれてゆく……。軽く読めるエンタメ三部作の第一作で、小説としての重厚感や“らしさ”よりもハラハラドキドキとスピード感に力点が置かれている。アニメや映画になれば気分よく楽しめる良作になるのではなかろうか。エピソードは荒唐無稽な感じが強いが、ロボット物が好きな人には堪らないだろう。

『まっぷたつの子爵』カルヴィーノ 岩波文庫
〈我らの祖先三部作〉の一作目。砲撃で真二つとなり「悪半」と「善半」の半身ずつに別れた領主メダルド子爵により奇想天外で示唆に満ちた物語が展開する。三部作の好きな順番は『不在の騎士』、『木のぼり男爵』、『まっぷたつ』だったのだが、今回読み返してみて以前読んだ時になぜ本書が苦手だったのかを思い出した。「悪半」の残酷さが辛かったのだ。圧倒的な悪者感に、そうだった、そうだったと頷きながらページをめくっていた。でも傑作。他の二冊も読み返してみたくなった。

『死都ブリュージュ』ローデンバック 岩波文庫
喪われし想い出を求めて廃市に隠遁し、亡き人の面影を追う独りの男が出逢ったのは、放埓な一人の踊り子。憂愁と沈黙の街を舞台に、信仰と愛、情熱と誘惑、そして苦悩と破滅への道を歩む男の姿を描く。現実ではない幻想のブリュージュがここにある。個人的にはもう少し踊り子ジャーヌが悪魔的である方が良かったが、それはないものねだりというものだろう。黄昏のロマンに満ちた作品。

『バッタを倒しにアフリカへ』前野ウルド浩太郎 光文社新書
ファーブルに憧れて昆虫の研究者となった著者が単身モーリタニアへと乗り込み、サバクトビバッタの研究に没頭した3年間の思い出を綴った笑いあり涙ありの熱血ノンフィクション。砂漠、異文化、昆虫ときたら面白くないわけがない。フィールドワークの楽しさに満ちた一冊となっている。
また同時に、将来がみえず不安に満ちたポスドクが徒手空拳で異国の地に乗り込み、現地の人々と一緒になって逆境を跳ね返して夢を叶えるという、ある種の“ビルドゥングスロマン”にもなっている。つらい生活を楽しみ、"無収入"になってもその深刻でも明るさを忘れない姿がとても好い。昆虫版の『ルワンダ中央銀行総裁日記』とでも言えば雰囲気が伝わるだろうか。(トーンはもっと能天気だが/笑。なにしろ1ページ目からしてすでに面白い。バッタの研究者なのにバッタアレルギーで、バッタに触られるとじんましんが出るとか。)
専門分野のサバクトビバッタ以外にもゴミムシダマシやマメハンミョウ、毒バッタなど面白い生態の昆虫が出てくるので、虫の写真さえ大丈夫だったらノンフィクション好きの人には超おすすめの一冊だ。

『ランボー詩集』堀口大學訳 白凰社
ランボーの詩作を初期と後期に分けてまとめなおし巻末に解説を附す。個人的には後期詩篇の方が好きなものが多かった。(初期詩篇は今読むとけっこう“厨二”的なものも多い。)たとえば「鴉たち」の「暮れの鐘、余韻をあとに消ゆる頃 九天の高きより吹きおろせ」「君ら、義務の宣布者たれ、おお、黒きわが凶つ鳥!」といったくだりはかなり好き。 昏い作品の方が切れ味が良い気がするのは単に自分の趣味のせいか。幻想的な詩篇も多く、訳者の言葉の選び方も冴えている。装幀も味があって好い。中には肖像や巴里にランボーを呼び寄せたヴェルネールによる彼のデッサンなどもあり、結構愉しめた。とくに気に入ったのは「酔いどれ船」「鴉たち」「渇きの喜劇」と『地獄の一季』あたりか。
なお、「ジャンヌ・マリーの手」の中に「京のまた大阪の?」という文章があったのだが、巻末の訳者自身による鑑賞ノートには原文は"Des Khenghavars ou des Sions?"とある。それぞれペルシャの古都とエルサレムのことなのだが、翻訳のあまりの自由さに笑ってしまった。

『世界のすべての朝は』パスカル・キニャール 伽鹿舎
17世紀フランスに実在した音楽家サント・コロンブの生涯を静かな筆致で描く。彼の二人の娘と弟子マラン・マレ、亡き妻との邂逅を通じて示されるのは、言葉で語りえぬものと高みへと至る想い。(などと言うとそれもまた違うのであるが。)イサク・ディネセン(カレン・ブリクセン)の諸作にも通じる捉えどころのなさと深みがあるが、読んでいる間はただただ心地よい。読んだあと、つい何かを語りたくなってくる作品だが、本作についてはあれこれ言わぬのが良さそうだ。

2017年4月の読了本

『怠惰への讃歌』バートランド・ラッセル 平凡社ライブラリー
昔から論文とエッセイの中間みたいなかためのエッセイが割と好きだったりする。たとえば山形孝夫『砂漠の修道院』とか網野善彦『古文書返却の旅』とか。本書はそんな自分の好みにあった、分析哲学の大家が記したエッセイだ。テーマは時事や社会問題に関するもので書かれたのは1930年ごろ。第一次大戦の後、束の間の平和のときだ。全体主義の足音が聞こえはじめ大きく変化する国際社会への危機感が、辛辣で鋭い提言の中に見え隠れする。たとえばこんな感じ。
「政治的に未熟な国民は、将来の政治についての最上の案内者ではない」
「即ちファシズムの哲学はなく、これについては精神分析ができるだけだ」
(いずれも「前門の虎、後門の狼」の章より)
ラッセルが批判しているのはファシズムばかりではなく、それを許してしまう人々のこころだったりもする。彼によれば二十世紀前半の西洋の青年は、せっかくの高い知識を持っているのに、日々の糧を得るため冷笑とともに自らの良心を麻痺させることでそれを愚かな富豪のために用いたという。(しかし科学者は社会の全幅の賛意のもと自分達の最善の精神力をふるうことが出来たので、冷笑的にならずにすんだ稀に見る幸福者だとも。うーん、これはどうだろうか。)
また冒頭にある同題のエッセイでは、1日あたりの勤労時間を四時間に制限して、残りの時間で人生を豊かにする社会を作れと提言する。安吾の『堕落論』みたいに、刺激的なタイトルだが内容はしごく真っ当な社会論なのだ。これを「怠惰」と呼ぶのであれば怠惰大賛成である。
ほかにも教養と教育(「無用」の知識/青年の冷笑/克己心と健全な精神)、女性問題(建築と社会問題)、経済(現代版マイダス王/社会主義の問題)、全体主義や帝国主義(ファシズム由来)など、とりあげられるテーマは幅広い。(注:カッコ内にあるのは章の名前)
似たような感じのものでは『春宵十話』など岡潔氏の随筆もあるが、あちらはすこし説教くささが強くて自分には合わなかった。本書の方が視野が広く押し付けがましくなくて好きだ。ただ残念なのは訳が古くて文章自体も硬いこと。新訳したらもっと読みやすくなる気がする。

『僕僕先生 仙丹の契り』仁木英之 新潮文庫
こんどは吐蕃(チベット)の王位継承の騒動に巻き込まれる僕僕先生一行。相変わらず愉しいシリーズだ。このシリーズは呪術(仙術)による闘いや敵役が権謀術数の限りを尽くすところなんか酒見賢一氏の『陋巷に在り』にも似てるのだけれど、主人公に王弁をすえたのが大きく違うところ。彼のおかげで僕僕先生の仙人チートによって話が単調になるのを逃れている。また敵の姑息な策略が、王弁の正面突破で粉砕されるのがいつも気持ちいい。
あとがきによれば、どうやら仙人と弟子と仲間たちの長かった旅もいよいよ佳境。「終わりの始まり」に差し掛かったようだ。頼りなかった王弁がどんどん役に立つようになるのが寂しくもある(笑)。しかし単行本は既に二冊ほど出ているようなので、まだしばらくは愉しめるだろう。

『黄色い雨』フリオ・リャマサーレス 河出文庫
孤独と老いと哀切、そして崩壊の予兆に満ちた物語。黄色とは腐敗の色。打ち捨てられた村と一人残った老人の記憶を静かに覆い隠してゆく色だ。黄色い雨とは、はらはらと舞い散るポプラの枯葉であはるのだが、それと同時に苦しみや別離や苦い記憶そのものであったりもするのだろう。優しく雨ぞ降りしきる。全てが忘却の彼方に消え去るまで。滅びゆくことが避けられぬアイニェーリェ村はまるで『百年の孤独』のマコンドのようにも思えたりするのだが、実はマコンドなのは村ではなく語り手である「私」自身。全てが崩れ去り塵と化すことが不可避であるとき、そこに現れるのは息子が家を出るとき死に絶えた自分の心であり、そして出会うのは内宇宙なのだ。全篇を通じて暗く救いのない話なのだが、読んでいると様々なものが頭を駆け巡り飽きさせない。語り手である老人の迷妄が進むにつれて死者たちが甦ってくるあたりは、いわゆる典型的な魔術的リアリズムでもあるのだが、本書では死者をみて普通に怖がっているのがおもしろい。彼と最後まで運命を共にする雌犬も一緒になって怯えているので現実の出来事であるともとれる。(ところでストーリーとは関係ないのだが、老人が飼っている「雌犬」が、名前すら付けてもらえてないのに、性別は明確なのが面白い。スペイン語だからだろうか。)文庫版のボーナストラックとして本編のほかにグラビンスキの『動きの悪魔』を思わせる「遮断機のない踏切」と、「不滅の小説」という二つの掌編も収録されたお得な一冊だった。

『ハリー・オーガスト15回目の人生』クレア・ノース 角川文庫
何度死んでも全ての記憶をもって生まれなおす主人公が辿る数奇な人生。運命はやがて彼に不倶戴天の敵を招き寄せる......。『リプレイ』のようなもっと個人的な物語かと思ったら、後半は人類を巻き込んだ壮大な物語になってびっくりした。リプレイものは主人公の全能感と思うようにいかない焦燥感が楽しい。SFとしては設定に若干の難があるように思えるが、エンタメ小説としては充分に面白く好感のもてる作品だった。誰かにミステリとしても読めると聞いていたのだが、見えない敵の探索がそれにあたる部分だったのかな。ミステリというのであれば、自分としてはむしろ主人公の一人語りという形式と、且つそれにも拘らず内面が描かれないところにハードボイルドと同じ空気を感じた。本書はかように物語としては充分面白いのだが、あえて無い物ねだりを言わせてもらえば、主人公が深まっていないところが残念。「永遠に同じ生を繰り返す」という設定は、ニーチェの永遠回帰やブランキ『天体による永遠』などを持ち出すまでもなく倫理問題として極めて魅力的、従って主人公と敵役の思想上の対決をぜひ見てみたかった。(ところで本書は題名をなかなか憶えられなくてこまった。『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』とか『シンドバッド7回目の航海』などとごっちゃになってしまう。読後感がどことなくラノベっぽいと思ったのだが、その一因にこの長い題名もあるのかも知れない。)

『ホフマンと乱歩 人形と光学器械のエロス』平野嘉彦 みすず書房
「砂男」「押絵と旅する男」という二作の幻想小説を、望遠鏡、双眼鏡などの光学器械や人形といった両者に共通する象徴的な小道具を基にして分析する論考。フロイトの「無気味なもの」も援用しつつ、登場人物たちの隠喩的連関に着目して作品を深く味わうための道筋を示す。もちろん作品の解釈は決して絶対的なものではないけれど、豊かな読み方を目にすると刺激を受けるし気持ちがいい。《理想の教室》叢書の一冊。

『ボアズ=ヤキンのライオン』ラッセル・ホーバン ハヤカワ文庫
カルト的な人気を誇る大人向けのファンタジーを数十年ぶりに読み返したが、記憶に違わず面白かった。父と息子、世代も価値観も違う二人の生き方を通じて、この世界に存在するということ、世界と対峙するということについて読者に問いかけてくる秀作。喪われしものを探し求める物語はいつも切実で哀しく、そしてあたたかいのだ。
「父親が死ねるためには、まず生きなければいけない」
「空ろな空間から未来が生まれる。空っぽな空間がなければ、どこから未来を生みだしたらいい?」
本書には様々なエピソードや隠喩が散りばめられているが、それらが語ろうとしているのは「一個の主体として生きる」ということ。「世界の中で生きる」ということについて男性は女性よりも(社会的に恵まれているがゆえに)圧倒的に無自覚だろうと思うのだが、この本はユダヤ/キリスト教的な寓意と詩的なイメージでもって、そのような者たちに対して考えることを強いてくる気がする。私にとってのライオンは何なのか、と。見えているのに見えていないということは往々にしてあるが、それが自らの命に関わることである場合、はたしてそのように他人事のようにしていられるものだろうか。本書におけるライオンとはそういうものである。

『生物はウイルスが進化させた』武村政春 講談社ブルーバックス
電子顕微鏡ではなく光学顕微鏡で見えるほど大きく、ゲノムサイズも一部の微生物より大きいという「巨大ウイルス」によって見えてくる生物進化と生命の起源を紹介し、最後にはとても刺激的な「ヴァイロセル仮説」によって生物の定義そのものにまで揺さぶりをかける本。著者の巨大ウイルスをテーマにした本はこれで3冊目だけど相変わらずとても面白い。現時点ではヴァイロセル仮説はあくまで仮説にすぎず真偽のほどは判らないのだが、ドーキンスの「利己的な遺伝子」と同じようにたいへん面白い思考実験だと思う。少なくともミミウイルスやパンドラウイルス、マルセイユウイルスといった巨大ウイルスの説明は読んでいてわくわくしてくるので、読んで損のない本だと思う。

『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ 河出書房新社
ナイジェリアで生まれ今もアフリカとアメリカを往復しながら活躍する作家によるスピーチの記録。肩ひじ張らず、おもねるでもなく、自然な態度で女も男も「みんな」が良くしていこうと語りかける。読んでいて感銘を受けたが、人として当たり前のことを当たり前に述べているだけなのだから、そのことで感銘を受けるということはおそらく社会の方が歪んでいるのだろう。
『子供たちをそだてるときに、もしもジェンダーよりもその子の「能力や才能」に焦点を合わせたらどうでしょう?ジェンダーよりもその子の「興味や関心」に焦点を合わせたらどうでしょう?』
ね、普通のこと、当たり前のことだ。著者による代表的な小説作品の『アメリカにいる、きみ』や『明日は遠すぎて』を読んでみたくなってきた。

『役に立たない読書』林望 インターナショナル新書
国文学者で作家でもあるリンボウ先生が書いた読書エッセイ。ここでいう「役に立つ」とはいわゆる資格試験や実用の知識を得るための読書のことで、そんなことに拘泥せず古典など自分の好きなものを読めば良いとの主張には素直に頷ける。面白かったのは、氏が“良し”とする本および読書の内容が自分からすると結構偏っていること。(もちろんそれが悪いわけでは無い。)ときに偏屈とも思える至極真っ当な「正論」に苦笑いしつつも、幅広い知識と読書愛あふれる文章をじっくりと愉しめた。
あちらこちらについ引用したくなるような文章があるのがさすがはリンボウ先生である。
「最近は私もアマゾンで本を購入する機会が増えましたが、あのレビューに関して言えばまったく信用するに足りないと考えています」 うん、素晴らしい。
「本の貸し借りはぜひやめたほうがいい、というのが私の持論です。(中略)貸した本は返ってきません。だから読みたい本は自分で買う、これが大原則です。」うんうん。(激しく首肯)
「場合によっては敢えて重複所蔵することも躊躇ってはなりません」うむ、そうなのだ。だから買ったことを忘れていても仕方ないのだ。積んであるうちに文庫化したら文庫も欲しくなるのだ。(いや、本書ではそんなことは言ってない/笑)
いやあ愉しい。

『辺境図書館』皆川博子 講談社
〈唯美〉かつ幻想的な作風で熱心なファンをもつ著者が自らの体験をもとに記した読書ガイド。本書で取り上げられ、氏の読書の記憶とともに紹介される書物の数々はどれももきらきら輝いてみえる。こういう風に本の感想をつぶやけたらいいのだが。
本書で紹介された本のうち読んだことのある本は『アサイラム・ピース』『氷』『黒い時計の旅』『神の聖なる天使たち』などごく僅かだが、それらの文章を読むと氏の紹介が勘どころを押さえた見事な紹介になっているのがよく判る。他の本についても信用できるに違いない。好きなことをうまく説明するのって、実はとても難しいことなのだ。喩え方も素晴らしい。(自分を含めて)幻想界隈の読者にとって、幻想小説とは「心の穴から虚空へと伸びる命綱」のようなものだと思っていたのが、本書でもっと良い喩えを見つけた。それは「救命ブイ」だ。孤独な夜の海に浮かぶ救命ブイ。沈むことなくいつまでも漂い続ける。
そんなに厚い本ではないのだが、メモしながらなので読むのに時間がかかり、そして読んだ後には紹介された本を買いたくなるという困った本といえる。いいぞ、もっとやれ。(笑)

『ヒトラーが描いた薔薇』ハーラン・エリスン ハヤカワ文庫
エリスン3冊目の短篇集。最初はちょと心配したが、尻上がりに好くなった。特に気に入ったのは「死人の眼から消えた銀貨」「バジリスク」「大理石の上に」「睡眠時の夢の効用」の四つ。怒りや哀しみを書かせると、エリスンはやはり巧い。

『ビリー・ザ・キッド全仕事』マイケル・オンダーチェ 白水uブックス
西部劇時代の伝説的な無法者の生涯を、彼や友人たちへのインタビュー、本人が書いた詩、写真や小説といった様々な架空の断片を組み合わせて描きだした本。(ドキュメント風になっているがすべてはフィクション。)歴史上の出来事をコラージュ的なエピソードの積み重ねで再現する手法は、あたかも同時代に自分が生きていたような臨場感を感じさせることに成功し、全方位で表現された死と隣合わせの生は、まるで神話的な様相すら示している。言葉を尽くすことでやっと辿り着ける領域に易々と到達しているように思えるのがとても新鮮だ。仏教における禅のような仕事とでもいうか。全篇を濃厚な死の気配がずっとし続けていて、やがて感覚が麻痺してくる。ここで示される空気感は、ある意味、開高健が『輝ける闇』でベトナム戦争に対して行おうとした事に近いのかも知れない。

2017年3月の読了本

今月は10冊。両親の件がだいぶ落ち着き、年度末進行の忙しさはあったがそこそこ読むことができてよかった。四月もぜひおの調子でいきたいものである。今はとにかく本が読みたい。

『分裂病の少女の手記』M・セシュエー みすず書房
複雑な家庭環境に育ち18歳で統合失調症となった女性について克明に記録した本。前半には発症から心理療法による快復までの過程を内面から描写した当人の手記を、そして後半には彼女の主治医であった著者セシュエーによる解釈を収録する。解釈の方は今の目から見るといささか古い感じがしないでもないが、何と言っても手記が圧巻だ。後半のセシュエーによる解釈に「外部の情景と彼女の内的世界との間には限界がなくなっている。自我はもはや独立した主体ではなく、外部の対象にとけ込んでしまっている」とあるが、まさしくこれはJ・G・バラードが描いた内宇宙そのものに違いない。(但しバラードの場合はその状態をある種のユートピアとして描いているわけだが。)また日常生活に突然異様な感覚が侵入してくる恐怖は、実話怪談の精神病理や或いはアンナ・カヴァンの『アサイラム・ピース』や『ジュリアとバスーカ』といった作品にも通じるものがあるだろう。
少女の快復は口の中に一片の林檎を頬張ったときから始まる。それまで彼女にとってなんら意味を成さなかった世界の全てが再び「現実」へと回帰するシーンは読んでいて感動すら覚える。「これこそはそれよ、これこそはそれよ」「これこそはそれ、あの現実よ」というのは、まさしく心からの叫びに違いない。(実際には快復の兆しを見せてからも、守られているという安心感と見捨てられたという絶望感から一進一退を繰り返し、寛解にこぎつけるにはまだ何年もかかるわけだが。)
ただ、解説については1950年の刊行ということもあり、今の目からすると仕方ないのではあろうが若干の違和感を覚えた。どうも口唇期やエディプス期といった表現が直截的に示されると気恥ずかしくなってしまっていけない。病気の症状をフロイト的な解釈で快刀乱麻を断つがごとく切っていき、「象徴的な投射」と「模倣」などの心理療法で統合失調症が本当に治ってしまったのだとしたら、すごいとは思うが、本当のところはどうなのだろう。
最後になるが、付録にある「ルネの生活歴及び病歴」は短文ながら、少女のこれまで過ごして来た家庭環境が判ってつらい。こういう人は健康になって幸せにならなければいけないと思うよ。いやほんと。

『ビブリア古書堂の事件手帖7』三上延 メディアワークス文庫
毎回違う切り口で描かれる古書の話題と、若い女性の古書店主をめぐる人間模様とで人気のミステリシリーズの完結篇。母親や語り手と彼女の関係にも一応の決着がつきほっとする。今回の本のテーマはシェイクスピアであり、蘊蓄話もいつにも増して愉快であった。なおミステリとしての本シリーズは、古書にまつわる底意地の悪い連中が語り手たちを引っ掻き回すという点で、紀田順一郎の古書ミステリの系譜につらなるものといえるだろう。主人公側の人々の性格が良いのがせめてもの救いか。ライトノベルだから読後感に注意してそのあたりを加減しているのかもしれない。

『いのちの半ばに』ビアス 岩波文庫
「兵隊の物語」と「市民の物語」の二部からなる、全二十六篇の同題の短篇集から七篇を訳出したもの。死をめぐる暗い話ばかりだが「アウル・クリーク橋の一事件」や「ふさわしい環境」など技巧に凝っていて飽きない。中でも幻想味の強い「ふさがれた窓」が好みだ。

『世紀の地獄めぐり』ブッツァーティ 創林舎
著者の遺稿となった『夜明けに発つ連隊』を始め、全部で六つの著作から選んだオリジナル短篇集。ブッツアーティ自身が語り手となる表題作はミハル・アイヴァス『もうひとつの街』を思い出した。(ここにいる悪魔はカヴェーリンの『ヴェルリオーカ』か、もしくは『モモ』の灰色の男たちに似たタイプ。)生者と死者、信仰と罪とが入り交じり、此岸と彼岸の区別ない世界では、逝きし者たちがダンス・マカブルを繰り広げる。独特の味わいである。なかでも気に入ったのは『夜明けに発つ連隊』から選ばれた四作品(「夜明け…」「ステファーノ・キャベロット」「オッタヴィオ・セバスチャン」「みんなに」)と、魔女の生涯を描く「メリンダ、魔女になる」や幻想生物「ババゥ」など。そこはかとないユーモアと哀しみがとても好い。

『人はなぜ物語を求めるのか』千野帽子 ちくまプリマー新書
人が世界を認識する方法のひとつである「物語/ストーリー」について、小説や神話から認識論や人生論、道徳哲学に果ては宗教論まで多様なジャンルを越境しながら考察する。WEB連載の『人生につける薬」に加筆修正。最後にはウイリアム・ジェイムズからエックハルトまで引合いに出し、ライフストーリーという〈懸崖〉から手を離すことの意義を説明する。「正しい私は報われ(評価)されるべきだ」という被害者意識の呪縛を解く重要性も。予想していたより遥かに射程の広い本だった。
小説に関する章では、自分がよく知らない文学理論や評論が数多く援用されていて大変に面白い。例えばフランク・カーモウドによれば、素朴な読者が物語/ナラティブに求めるのは「しかるべき論理一貫性」と「『なぜと問う』必要をなくしてくれる権威」なのだとか。人は「なぜ」を求めてしまう生き物なのだ。たとえばSFを読む面白さの一部には、たしかにこの宇宙の理/ことわり(そしてもっと言えばその意味)が書かれているという快感があり、そして神話を読む時は、(理由づけのあまりの強引さに苦笑しつつも)物語として純粋に楽しんだりする。その一方では因果関係をあえて否定する物語も存在する。本書でも言及されたカミュの『異邦人』や、もしくはロブ=グリエの『消しゴム』などがそうだ。これらの小説では主人公たちの行動の理由が一切書かれていないが、それは理由を隠しているのでなくてそもそも理由が無いのだ。
しかし我々の実際の生活ではそういうわけにはいかない。自らに降りかかった理不尽な不幸があるとすると、それが「ただの不幸なできごと」だと耐えられないので「意味のある悪い結果」としてとらえ直し、それに相応しい「悪い原因」を見つけてしまうのが人のさがというものなのだ。しかし無理やりつなげたストーリーは人を不幸にすることもあるとのこと。ふむ確かに。読んでいるうちに色んなことを考えてしまう本だった。

『物語の役割』小川洋子 ちくまプリマー新書
全部で3つのテーマからなる講演集。第一部は「物語が持つ役割」、第二部は「物語を創り出す作家としての作業」、そして第三部は「自らの読書体験を通じて読書の持つ役割を語る」というテーマで語られ、全篇を通して読書の喜びに満ち溢れている。
第一部はまさに上記『人はなぜ本を求めるのか』と響きあう内容で、「作家は特別な才能があるのではなく、誰もが日々日常生活の中で作り出している物語を、意識的に言葉で表現しているだけのことだ」といったくだりなどは『人はなぜ物語を求めるのか』に出てきた「ライフストーリー」の語り直しであるといえる。人は作家になるのでなく作家に生まれるのだ。
もしも本書のように人が物語を求めるのは世界で生きるためだとすると、音楽を求めるのは世界とつながりたいからとは言えないだろうか。人と、社会と、そして自分をとりまく世界そのものと、コミュニケーションをとりつながる手段としての音楽。(また同様になぜ本を求めるのかと問われれば、それは自分と対峙するためと答えざるを得ない。)
良い本を続けて読むことができてよかった。互いに共鳴しあえる読書はさらに大きな喜びとなる。

『植物はそこまで知っている』ダニエル・チャモヴィッツ 河出文庫
植物が持っている様々な機能を、動物の「視覚/嗅覚/触覚/聴覚/平衡感覚/記憶(手続き記憶)」になぞらえて、門外漢にもわかりやすく紹介した本。解りやすくといってもたとえば安易に植物を擬人化したりするのではなく、古今東西の科学実験の結果に基づいて説得力のある説明がなされている。エピローグでは「植物に知性はあるか?」という話題にも踏み込んでいて、読むほどに地球上に生きる多様な生命の在り方と、そして生物が生きるための精妙な仕組みに感嘆する。この宇宙の「理(ことわり)」を学ぶのが「理科」なのだとすれば、本書はまさに理科の喜びを語る本だといえるだろう。

『裏世界ピクニック』宮澤伊織 ハヤカワ文庫
実話怪談や都市伝説で語られている、現実世界と薄皮一枚で隔てられた異世界を舞台にしたサバイバルホラー小説。ネットで語られてきた「くねくね」などの恐怖が迫力を持って描かれる。本書を実話怪談の変種として読んでも面白いが、「聖痕を持つ者による妖怪退治譚」として読むこともできるだろう。途中で「ゾーン」という名前が出てくることからも明らかなように本書には『ストーカー』のオマージュの側面がある。ただし「ゾーン」に現れる謎とは違って、人間に積極的な働きかけをしてくるという点ではむしろ〈永遠のチャンピオン〉の「混沌の神々」に近いのかもしれない。(聖痕の位置が左手と片目というのは〈紅衣の公子コルム〉を連想させる。事実、目の前の現実が層をめくるように変わるところは〈コルム〉前半の『剣の王』辺りを連想させて楽しかった。)あるいは手塚治虫の『どろろ』やラムゼイの〈タイタス・クロウ〉を思わせる。本書は書こうと思う気さえあればずっと続けていける設定だと思うが、物語として決着をつけるのであれば〈タイタス・クロウ〉みたいにするか〈サザーン・リーチ〉みたいにするか難しいところかもしれない。
(マニアックな話で申し訳ないです。解らない部分はスルーしてください。)

『ぼくが死んだ日』キャンデス・フレミング 創元推理文庫
16歳のマイクは真夜中の道を車で帰る途中、ふとしたことから墓場へと足を踏み入れた。そこで彼は、9人の子供の霊が語る自らの死の物語を耳にすることになる……。魔術から宇宙の怪物まで、子供たちを襲う超自然的な恐怖と様々な「死に方」を描き、様々なタイプの怪談を愉しめるショーケースのような短篇集となっている。なかでもまるでB級SF映画のような「ディヴィッド」や魔術譚「エヴリン」、そして「猿の手」の正統的な後継「リリー」にサイコホラー的な「エドガー」辺りが好みだが、他の作品も(タイプは異なるものの)どれも怖い。また解説にもあるように全篇を通じてシカゴの歴史になっているのも好い。
ちなみに本書がなぜ単なる後味の悪い話でなく上質の怪奇小説になっているかというと、語り手が死んだ子供たち自身だということの影響が大きい気がする。怖いのは死ぬまでのことで、彼らはすでに死後の安息を得ているのだ。「すでに終わったこと」であれば、額縁に入った絵のように眺めることができる。現実はつらく哀しいが過去は甘くて苦い。だからこそ怪奇と幻想はいつも過去を語るのだろう。
おまけついで。S・キングのホラーを読んでいると段々つらくなっていくのは、きっと過去じゃなく常に現在を書いているからなのかもしれない。終わった話ではなく現在進行形の恐怖だからこそあの迫力が出るし面白くなるのだけれど、その代わりたくさん読むと胃にもたれてくる。食傷気味になるのだ。(もちろんキング作品の優劣の話ではなくて単なる好みの話。)もしかして「現在形」というのは、モダンホラーが「モダン」たる所以なのかも。またゴシック・ホラーと違って物語としての額縁が無いところなどは、実話怪談と共通するものがあるのかも知れない。考え出したら結構面白そうな話になりそうな気がする。

『江戸化物草子』アダム・カバット編 角川ソフィア文庫
十返舎一九の『妖怪一年草(ばけものひととせぐさ)』や『化物の娵入(よめいり)』などの作品を中心に、江戸時代の草双紙を翻刻とともに全五篇収録。山口昌男や辻惟雄、宮田登に小松和彦といった錚々たるメンバーによる解説も大変読み応えあり。取り上げられている話自体はたわいもないものなのだが、解説で小松和彦氏も書かれていたように、文化史や社会学的な視点でみてみると、がぜん面白くなってくる。そして「化物(妖怪)」がどのような社会的役回りだったのかを見ることで、当時の社会風俗が陰画のように眼前に立ち現れてくるのだ。

『社会学の根本概念』マックス・ヴェーバー 岩波文庫
最晩年の著者が社会学の様々な概念についてまとめた未完成の論文。複数の人間同士の相互関係を「社会的関係」とし、それにまつわる行為/秩序/闘争(淘汰)/団体/権力といった諸概念について定義を試みている。未完のまま途絶しているだけに内容には粗密があり、無味乾燥な用語の羅列や考察が不充分な部分も散見される。しかし読んでいるうち、ヴェーバーが社会学の枠組みで取り組もうとした課題の輪郭が徐々に見えてくる気がする。本書を読む限りでは社会学とは社会をいくつかの要素に分解し、それらの関係性を明らかにしようとするものといえるだろうか。ただ、各々の関係性が顕在化した部分についてのみ考察の対象としている感じもして、それらの関係性の根本原因に興味がある自分としては、少し食い足りない感じがしないでもない。(しかしヴェーバーが本書を書いた目的からしても、著者の意見に同意できるか否かはまた別の問題として考えるべきだろう。

『アレント入門』中山元 ちくま新書

このところ国内外ともにキナ臭い状況が続いている。以前から「暴力」の意味について興味があったのだが、ハンナ・アレントにはまさに『暴力について』という著作があり、いちど読んでみようかと迷っていた。しかしアレントは全くの不案内。そのような著作を初めて手に取ろうとする場合、いきなり高いハードカバーでは外れた時のダメージが大きいので(笑)、まず概要をざっくり頭に入れることにした。ほんとうはこういった解説書ではなく本人の著作を直接読むのが一番なのはわかっているのだが、どこから手を付けて良いかすら判らない時はまず視座を頭に入れておきたいのだ。
前置きが長くなってしまったが、そんなわけで本書について。本書はハンナ・アレントの思想を著作の時系列、すなわち『全体主義の起源』『人間の条件』『イェルサレムのアイヒマン』、そして連続講義「道徳哲学のいくつかの問題」に沿って俯瞰していくものだ。ハイデガーとの関係やユダヤという彼女の出自から出発し、やがて到達し得た独自の道徳哲学を解説する。(本書を読んでみて、『暴力について』それより『人間の条件』や『責任と判断』といった辺りの著作を先に読んだ方がいい気がしてきた。)
中身についても軽くふれておこう。端的にいえばアレントは「なぜナチスに代表される全体主義が発生し」、そして「それを食い止めるには何をすれば良いのか」を考察した人といえる。そして彼女は人々が社会的に「孤立」の状態に置かれていることこそが全体主義の温床となると指摘し、対抗するには「公的な領域」を作り出す事と、その中で人々のまなざしの下に行動することが重要であると説いた。それが示されているのが冒頭に挙げた『全体主義の起源』および『人間の条件』というわけだ。
本書によれば、アレントは人間の行為を「労働」「仕事」「活動」の三つに分けて定義し直しているそうだ。最初の「労働(labor)」とは個人の生命維持に必要な行為であり、次の「仕事(work)」は世界に何らかの"作品"を残し人々の間に"世界"を構築する行為。そして最後の「活動(action)」は、人と人との間に交流を生み出す行為であるとのこと。全体主義に深く関わりがあるのは、これらの行為のうち最後の「活動」であり、具体的な事例としては古代ギリシアのポリスにおける「民会」が引き合いに出されている。
古代ギリシアにおいて民会すなわち「公の場」で発言するのは、自由な市民として他の市民を説得しようという意思の表れ。発言する者はその行為によって、自らがどんな存在なのか周囲に暴露する危険を引き受ける覚悟を持つ。また他者に意志を示すということは、すなわち他者から反論される危険性を引き受けることでもある。(インターネットのブログやSNSをみていると、現在は自分の主張はしても前述のような「危険」を引き受けようとはしない人もけっこう多い気がする。SNSはまるで私的空間のような親密さで見ず知らずの人とも気軽にコミュニケーションを取れるのは良いのだがまた一方で暴走の危険も孕む。自分の世界を大事にするのであれば、あえて他者の視線をもっと意識するべきなのかもしれない。)

閑話休題。しかしアレントによれば、そのようにして危険を冒しながらも公の場で発言することが、すなわち他者と異なるその人自身の「他者との差異性」を明らかにする方法に他ならない。そして先に述べたように、「公的な領域」を通じて人同士が交流することこそが、全体主義に絡め取られないために必要な行為なのだ。(*)

   *…ただ、アレントが「公的な領域」と「私的な領域」の区別を強調しすぎているような
      ところが、若干気にはなった。カレントが私的領域と呼ぶ家庭といえども、家族と
      いう自分以外の人間との関係性が生じるなら権力は発生するわけで、ある種の
      「公的空間」と呼んでも差し支えないのではなかろうか。そのうち積まれたままに
      なっている『人間の条件』を直接読んで確認してみたい。

次はアイヒマン裁判の傍聴記である『イェルサレムのアイヒマン』。この本で彼女はナチスの「良き歯車」であろうとしたアイヒマンの裁判を傍聴してレポートにしたためる。彼女はアイヒマンの「恐ろしいほどにノーマル」な印象が与える「悪の凡庸さ」に衝撃を受け、そして深い思索の末にアイヒマンに彼女なりの「死刑判決」を下すのだそうだ。
それは単にアイヒマンが非人道的な行為に加担したからでも、犠牲者があまりに多いからでもない。彼女が「死刑判決」を下したのは、彼が「この地球に誰が住み誰が住んではならないかを決定する権利を持つかのように」振る舞い、その行為を実行したからなのだという。そのような人物だからこそ、地球上で誰からも「ともに天を戴く」ことを望まれないであろう――ということこそがその理由なのだ。(このあたりのアレントの批判は問題の核心を突いている感じがする。)
自分が思うに、これは他国の人々や透析患者へ暴言を吐く人たちにも通じる批判であるまいか。そしてアレントが生涯を通して追究した「思考する力は人が悪を為すことを防ぐことができるのか、という問いは現代に生きる我々にこそ問われなければならないものではないかという気がする。ふうむ、重たいテーマだ。

<追記>
キリスト教徒やユダヤ教徒、そしてイスラム教徒といったいわゆる“啓典の民”にとっては、神の定めた戒めを破ることがすなわち罪になるのだろうと思う。いっぽうで自分も含め宗教に対して不信心な一般的日本人にとってはそうではない。我々にとって神の戒めの代わりになる価値観は、昔は「世間体」というものだったと思われる。しかし地域のコミュニティや大家族制が崩壊した今となっては、「世間体」なるものはほぼ死語に等しくなってしまった。そしてSNSでは代用となる価値観を提供するにはあまりに狭くまた弱い。結果、よく「ぶれる」のだ。
かつて「神が死んだ」時代に、それに代わるものを哲学で打ち立てようとしたのがニーチェだったと思うのだけれど、ポピュリズムと同様、全体主義の道具としていいように使われてしまった。哲学は困難な時代に人々の救済にとって強力な武器になると思うのだけど、色々な理由でそれが受け入れられない人はいる。遥かな昔それを支えていたのが信仰だったのだろう。だからこそ鎌倉の戦乱の世に、悟りを開くための修行をする力も時間もない衆生のため、法然や親鸞らが南無阿弥陀仏を唱えたのだ。
しかし信仰すら確固たるものを与えられない時代においては、カルト化もせず普遍的な救済を与えるのは大変な困難を伴う。してみると未来の哲学や社会学や政治学の使命は、信仰に代わるものを生み出すことなのかもしれない。そしてそうでなければ、本来の目的を果たすことが出来ないのではあるまいか―― とまあ、そんなことを考えてみたりもするのだ。
読まなきゃね、アレント。
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Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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