2018年1月の読了本

2018年初めての月は11冊だった。これを多いとみるか少ないとみるかは、これから読める量によって決まる。まあ何はともあれ今年も充実した「お気らく読書ライフ」を送りたいものであるね。

『美術愛好家の陳列室』ジョルジュ・ペレック 水声社
素封家のドイツ系アメリカ人にして美術蒐集家であったヘルマン・ラフケのコレクションの中から、『美術愛好家の陳列室』と名付けられた絵画を中心に様々な絵画について、その内容をただひたすら語り尽くす。絵の来歴などやたら細かいのだが、有名な画家や作品の間に全くの架空の画家が紛れ込んでいて、入れ子になった虚構が迷路のようだ。以前読んだミハル・アイヴァスの『黄金時代』に出てきた、註釈に註釈が付いて個々に掘り下げられた細部が突然結びついたりする不思議な本を思い出した。絵画を題材にして書かれたレムの『虚数』といってもいいか。
ラストで明かされる「真実」は物語としてはきわめて親切なのだが、それがこの本の読者にとって本当に「親切」なのか、それとも却って「不親切」なのかはわからない。いずれにせよこの本の作者が信頼できない語り手/騙り手であることは間違いないのだから。

『わたしの物語』セサル・アイラ 松籟社
セサル自身を語り手とする「自伝的」小説。歪んだ鏡に映った中勘助『銀の匙』とでも言うべきか、あるいは一人称による今村夏子『こちらあみ子』とでも言うべきか。不協和音と不穏が流れ続ける物語は衝撃的なラストへと帰着する。世の中にはこんな話もあるのかと驚いた。

『猪・鹿・狸』早川孝太郎 角川ソフィア文庫
著者は柳田國男や折口信夫らとの知遇もあった人物。寡聞にして知らなかったのだが、民俗学の古典的著作だそうだ。内容は愛知県は奥三河地方の山里で人々に聞いた動物との関わりをまとめたもの。原著は大正15年刊だが、もうすでにその頃には失われつつあった貴重な伝承が収録されていて読む者を飽きさせない。猪・鹿・狸はいずれも狩猟の対象であるため、どうしても狩りの話が多めだが、あちこちに話が脱線するので結果的に当時の風俗全般の貴重な記録になっている。中でも狸は人を化かすだけあって摩訶不思議な話が多くて楽しめた。さらに巻末には附録として「鳥の話」も収録されていて、なおのことお買い得感がある。(「鳥の話」は本編とは違い、著者が子どもの頃に出会った数々の鳥についての思い出話。憧憬は常に哀しみとともにあるが、それは失われてしまったものに対する想いだからなのだろうか。記憶のヴェールに包まれてこそ思い出は儚くも輝くのだ。)

『ホロホロチョウのよる』ミロコマチコ 四月と十月文庫
画家で絵本作家でもある著者が初めて書いたエッセイ集。子ども時代の思い出や今に至る活動の記録、折々の気持ちなどが綴られている。自由奔放な作風そのままの素直な文章を読んでいると、まるで心が晴れ渡ってくるようで気持ちがいい。こういう本との出会いは「ネットでぽちり」ではなく実際に本を眺めながら歩くことでしか得られないものではないか。読めてよかった。世界がまたひとつ広がった。

『屍人荘の殺人』今村昌弘 東京創元社
驚くような設定でクローズドサークルを構築した本格ミステリ。設定自体は評価(好み)が分かれるかもしれないが、ミステリとしてはいたってフェアなつくりをしており、突拍子もない設定を上手く使っていて好感が持てる。(『卍の殺人』や『ハサミ男』など良くできた作品を読んだ時と同じ感触を得た。)題名からしてもっと仰々しい感じかと思っていたのだが、出だしは《猫丸先輩シリーズ》みたいに軽くて読みやすい。このように良い味での「軽さ」がこの人の持ち味なのだとすれば、へんに読者受けを狙わず好きに書いてもらいたい気がする。きっと本書のように面白くなるはず。

『謎』パスカル・キニャール 水声社
キニャール・コレクションの一冊。その起源を民話や伝承まで遡る「物語(コント)」をモチーフに著書が綴った6つの作品集。冒頭の「失われた声」から、表現することの意味について自らの考えを述べたエッセイを付す「謎」まで、圧倒されて言葉がない。
特定の作り手がいない「物語(コント)」では語ることが即ち意味をなす。伝統的な意匠で語られる話を読み進むうち、物語ることそのものへと思いは広がってゆく。重層的で豊潤な読書体験はこの著者ならではの稀有なものだ。巻末の解説と訳者あとがきも、作品の文学的背景を解いてくれて有難い。特に気に入ったのは「失われた声」「舌の先まで出かかった名前」「死色の顔をした子ども」といったところだが、表題作の「謎」も悪くない。フィクションとエッセイの境が無くいきなり著者本人が顔を出すのは、幸田露伴の「幻談」のようでもある。
ちなみにキニャールは自分の頭の中でヴァーノン・リーやイサク・ディネーセン、石川淳やレオ・ペルッツなどと凡そ同じひきだしにしまわれている感じがする。自分でもどういうくくりなのかよく分からないが。

『虚ろなる十月の夜に』ロジャー・ゼラズニイ 竹書房文庫
ゼラズニイが怪奇小説や映画に出てくる怪物たちを題材にして書き上げた最後の単独長篇作。物語が進むにつれて徐々に明らかになってゆく設定、洒落た会話、そしてあっけなく終わるラストなど、どこをとってもまごう事なきゼラズニイ作品だった。
語り手は「ジャック」の相棒となるスナッフという名の犬。10月最後の日に行われる、ある「儀式」へ参加する者を助ける使い魔だ。他にも猫やフクロウ、蛇など色々な動物達が、儀式への参加者のパートナーとして互いに牽制したり協力したりを繰り返す。本書は同じ作者の《真世界シリーズ》やムアコックの《永遠のチャンピオンシリーズ》がSFであるのと同じレベルでSFといえる。(解りにくい喩えだがご勘弁/笑) まあファンタジーと言おうが怪奇小説と言おうが、面白ければどんなレッテルを貼ろうが別に構わないのだけれど。
本書を読んでつくづく思ったのだが、ゼラズニイはスタイルの人だ。何を書くか、ではなくてどう書くか。漫画家なら石ノ森章太郎みたいな感じだと思う。(思えば石ノ森氏のコマ割りは天才的であった。)この本に出てくる「使い魔」はどれも魅力的なのだが、二匹の使い魔が水晶の宮殿を訪れる場面がとても好かった。ゼラズニイの本では、こういった物語の本筋には直接関係のない細部が好きだったりする。

『悠々として急げ』開高健 角川文庫
強がりで孤独な文学者が学者や企業家など11名のユニークな面々と繰り広げる放談集。残念だったのは自分が知っているのがグラフィックデザイナー福田繁雄氏だけだったということ。他の人もきっと当時は有名だったのだろう。言葉の端々に1977年という時代を感じた。
少し中身に触れると、例えば「人を食った人たち」という対談では、中国を中心に「人を喰った」エピソードが次から次へと紹介される。開高健は艶談とかスカトロとかこういう話になると生き生きして大変面白い。食人の理由は、飢餓もしくは相手への憎しみ、あるいは呪術的な意味で相手の力を自らに取り込みたいからが殆どだが、中国では楽しみのために食人をしたと歴史書に書いてあるとのこと。(でもまあヨーロッパでもジル・ド・レやエリザベート・バートリなどがいるから残酷さではさほど変わるものではない。)
この人は対談集が多い印象があるが、対談のイメージが強い作家・文化人では、そのあとは立花隆、今は佐藤優あたりが思い浮かぶ。本書を今読むと、言葉の端々に「男女」の性や役割に囚われすぎる発言があるのだが、おそらくこれは時代背景だけではないだろう。今この本を読んで感じるのは、氏がいかにステロタイプな性的役割や価値観に囚われていたかということ。感性豊かな人だけに、無意識にせよ随分と生きにくかったのではないかと思う。(『輝ける闇』や『夏の間』にもそれが見え隠れする。)男とはどう生きるべきか、女はどうあるべきか。強固にも見えるそういった社会的規範もまた時代とともに変化していくものなのだ。開高健が開高健である所以である。(同様に立花は「知」、佐藤は「倫理」への拘りがみえると思う。)おもえばその昔は、文化人が「時の人」と対談を行う様子が中間小説誌や大衆誌などによく掲載されていたような気がする。ちょうど今ぐらいの時季だと「新春対談」とか銘打ったりして。そんな古い対談をこうして今読んでみると、人権意識の欠如やパワハラ、セクハラ的な発言が目につくことがままある。文学的には価値が低そうな、いわゆる埋め草的な対談を集めた古い対談集を読んでいると、おそらく今後も文庫や電子書籍で復刊される可能性は少ないのではないかと思える。逆に言えば、資料的な価値を見出せる人、あるいはその時代の空気を読むことに愉しみを感じる人は、昔の対談集を見つけたら買っておいて損はないのかも知れない。昔は「文化人」と呼ばれる人さえ、平気でこんな発言をしていたのかと、驚けることうけあいだ。対談は小説以上に時事的な意味合いが強いものなのだ。

『魔法にかかった男』ディーノ・ブッッァーティ 東宣出版
独特の魅力を持つ作家の二十の作品を集めたオリジナル集。信仰と罪、死と悲しみ、幻想と恐怖が入り交じる。表題作の他には「チェーヴェレ」「リゴレット」「エレブス自動車整備工場」「勝利」などが特に気に入った。素晴らしい。畳み掛けるような不条理が好い。同じ著者の『神を見た犬』を思い出す。ラストの作品を除いて殆どが短篇というよりショートショートに近い長さだが、ことごとく切れ味が鋭い。不安というより不気味、幻想的でありながら茫洋ではなくリアル。そしてその上で繰り広げられる「恐れ」が面白い。

『悪について』エーリッヒ・フロム ちくま学芸文庫
新フロイト派の流れをくむ思想家により、ナチスに代表される「悪」がいかにして人の心の中に生まれるかが考察される。人はいかにして、生きることの喜びを否定し自己撞着と退行に陥ることから「自由」になれるのか。誠実な答がある。今の日本に蔓延する病は無知とルサンチマンではないかという気がする。今読めて良かったと心から思う。

『四角い卵』サキ 白水uブックス
『クローヴィス物語』『けだものと超けだもの』『平和の玩具』と続いた、この叢書におけるサキの作品集の最後となる一冊。初期作品を含む落ち穂拾い的な面もあって、「クローヴィスもの」など定番のユニーク小説ばかりでなく政治風刺など珍しいものまで収録され、バラエティにとんだ作品集になっている。全体の雰囲気としては諧謔や滑稽というよりは皮肉と風刺で、スパイスが結構効いている。巻末のJ.W.ランバートによる評伝が素晴らしい。サキを「はぐれヴィクトリア時代人」と称して、人となりをT.E.ロレンスに比しているところなど、なんかもう、すごく分かる気がする。特に気に入った話を選ぶとするなら寓話である「聖者と小鬼」「エデンの園」あたりだろうか。
ちなみに「毒作家」といえばサキの他にはビアス、筒井康隆、ゴーリーなどが頭に浮かぶ。ストレスが溜まってるとこういった作家の「毒」がよく効くのだが「毒をもって毒を制す」という感じなのだろうか。(なおこの場合の「毒」とは作風に冷笑を含んでいるものを指す。ヴォネガットは毒というよりは「漢方」だし、オーウェルは笑いが無いので外した。スウィフトやバージェスは「毒作家」に入れて良いかも知れない。)

My Choice/2017年印象に残った本

昨年は「2017年こそ落ち着いて好きな本が読める年でありたい」と書いたのだが、結局のところ今年もなんだか慌ただしくばたばたしているうちに一年が終わってしまった気がする。それでも123冊読んだので98冊だった昨年よりはましだが。
では毎年恒例としているように、今年読んだ本の中から「印象に残った本」を挙げてみよう。小説を追いかけるのが精いっぱいで学術系の本が読めていないのがつらい。

<新刊部門> ―今年出版された本―
『増補 モスクが語るイスラム史』羽田正 ちくま学芸文庫
東はイランから西はスペインまでを対象に、7〜18世紀の大モスクの様式を通じてイスラム世界の変遷を紹介した本。イスラムの歴史を建築で繙くのはこれまで知らなかった視点で大変に面白く読めた。新たに追加された補章も大変良い。22年前に中公新書から出て品切れとなったままの本を、こうして復刊してくれるのはとても有難い。(すぐに学芸文庫自体が品切れになってしまうのが難点だが。/笑)著者は本書について「もう古い本なので今更」と言いつつ新たに補章を追加してくれていて、その後出た関連本を紹介してくれているのも好感が持てる。しかしなかなかどうして、補章を除いても今読んで充分に面白い内容だと思う。

『夫のちんぽが入らない』こだま 扶桑社
今話題の本。衝撃的な題名もさることながら、中身もなかなかに重い。複雑な家庭関係に育った一人の女性がやがて小学校の教師となり、心と身体を病んで苦しみつつも夫との「平穏な」生活を掴むまでの壮絶な記で、以前読んだ卯月妙子氏の漫画『人間仮免中』を思い出した。これはすごい。

『黄色い雨』フリオ・リャマサーレス 河出文庫
孤独と老いと哀切、そして崩壊の予兆に満ちた物語。黄色とは腐敗の色。打ち捨てられた村と一人残った老人の記憶を静かに覆い隠してゆく色だ。黄色い雨とは、はらはらと舞い散るポプラの枯葉ではあるのだが、それと同時に苦しみや別離や苦い記憶そのものであったりもするのだろう。優しく雨ぞ降りしきる。全てが忘却の彼方に消え去るまで。滅びゆくことが避けられぬアイニェーリェ村はまるで『百年の孤独』のマコンドのようにも思えたりするのだが、実はマコンドなのは村ではなく語り手である「私」自身。全てが崩れ去り塵と化すことが不可避であるとき、そこに現れるのは息子が家を出るとき死に絶えた自分の心であり、そして出会うのは内宇宙なのだ。全篇を通じて暗く救いのない話なのだが、読んでいると様々なものが頭を駆け巡り飽きさせない。語り手である老人の迷妄が進むにつれて死者たちが甦ってくるあたりは、いわゆる典型的な魔術的リアリズムでもあるのだが、本書では死者をみて普通に怖がっているのがおもしろい。彼と最後まで運命を共にする雌犬も一緒になって怯えているので現実の出来事であるともとれる。(ところでストーリーとは関係ないのだが、老人が飼っている「雌犬」が、名前すら付けてもらえてないのに、性別は明確なのが面白い。スペイン語だからだろうか。)文庫版のボーナストラックとして本編のほかにグラビンスキの『動きの悪魔』を思わせる「遮断機のない踏切」と、「不滅の小説」という二つの掌編も収録されたお得な一冊だった。

『世界のすべての朝は』パスカル・キニャール 伽鹿舎
17世紀フランスに実在した音楽家サント・コロンブの生涯を静かな筆致で描く。彼の二人の娘と弟子マラン・マレ、亡き妻との邂逅を通じて示されるのは、言葉で語りえぬものと高みへと至る想い。(などと言うとそれもまた違うのであるが。)イサク・ディネセン(カレン・ブリクセン)の諸作にも通じる捉えどころのなさと深みがあるが、読んでいる間はただただ心地よい。読んだあと、つい何かを語りたくなってくる作品だが、本作についてはあれこれ言わぬのが良さそうだ。(本書は長らく絶版になっていたのを九州の出版社が新たな装丁で復刊したもの。こういう本が復刊されるのはとてもありがたい。)

『ハイン 地の果ての祭典』アン・チャップマン 新評論
20世紀初頭まで南米パタゴニアに暮した原住民族セルクナム族。彼らが伝えていた男子の成人儀式「ハイン」の様子とその宇宙観について、人類学者でもあった神父グシンデの貴重な写真と記録を基にして著者がまとめた本。
儀式の中心となるのは成人男性が演じる様々な精霊たち。精霊は天を表すものと地から湧き出るものの二種類に分かれており、いずれも赤・白・黒の三色に塗り分けられた身体と奇怪な仮面で表現される。精霊の異様な姿と不思議な儀式の描写に魅了される。白人の入植と麻疹の流行で彼らの社会は今はもう崩壊してしまっており、儀式でもあり演劇でもあったハインの記録をこうして残す事ができたのは良かった。
彼らの社会は極端な男性権力型で、それを正当化するために伝えられていた神話がまたすごい。遥かな昔、彼らの社会は今とは逆で女性シャーマン「月」が支配する極端な母権制であり男たちが革命により勝ち取ったとされる。(まるで映画『猿の惑星』をみているようだ。)男たちの一斉蜂起で女の世界が一夜にして滅び、後に残ったのは秘密結社により受け継がれるミソジニーと男性支配の構図。まあこのような文化が今に受け継がれなくて良かったのかもしれないが、本で読んでいる分には大変に興味深い。異様な精霊たちの姿と相まってまるで物語を読んでいるような感覚に陥いってゆく。いろんな意味ですごい。全編に流れる雰囲気は何となく『悲しき熱帯』を思わせたが、著者がレヴィ=ストロースの薫陶を受けた事とは多分関係ないだろう。文化人類学好きなら絶対愉しめる一冊だ。

『バッタを倒しにアフリカへ』前野ウルド浩太郎 光文社新書
ファーブルに憧れて昆虫の研究者となった著者が単身モーリタニアへと乗り込み、サバクトビバッタの研究に没頭した3年間の思い出を綴った笑いあり涙ありの熱血ノンフィクション。砂漠、異文化、昆虫ときたら面白くないわけがない。フィールドワークの楽しさに満ちた一冊となっている。
また同時に、将来がみえず不安に満ちたポスドクが徒手空拳で異国の地に乗り込み、現地の人々と一緒になって逆境を跳ね返して夢を叶えるという、ある種の“ビルドゥングスロマン”にもなっている。つらい生活を楽しみ、"無収入"になってもその深刻でも明るさを忘れない姿がとても好い。昆虫版の『ルワンダ中央銀行総裁日記』とでも言えば雰囲気が伝わるだろうか。(トーンはもっと能天気だが/笑。なにしろ1ページ目からしてすでに面白い。バッタの研究者なのにバッタアレルギーで、バッタに触られるとじんましんが出るとか。)
専門分野のサバクトビバッタ以外にもゴミムシダマシやマメハンミョウ、毒バッタなど面白い生態の昆虫が出てくるので、虫の写真さえ大丈夫だったらノンフィクション好きの人には超おすすめの一冊だ。

『ヒドゥン・オーサーズ』西崎憲/編 惑星と口笛ブックス
ついにでた電子書籍オリジナルの叢書〈覚醒と口笛ブックス〉の第一弾。同じく西崎氏の編集で書肆侃侃房から出ている文芸誌『たべるのがおそい』と同様に、小説だけでなく詩や短歌などジャンルミックスの作品集となっていのだが、こちらの方がより「尖がって」いるような気がする。たとえば冒頭の作品は、我々の住む世界とは全く繋がりのない(因果律も異なる)世界でまったく異質な人々が紡ぐ物語。もしも我々自身と共通するものがあるとすれば、それは 唯一彼らが感じる情動ぐらいなものなのだ。こんな調子で最初から最後まで、読んだことがないような作品が続く。従来の商業枠には収まりきれない作品を収録したショーケース的作品集といえるだろう。
特に好みだった作品は、大滝瓶太「二十一世紀の作者不明」、斎藤見咲子「マジのきらめき」、大原鮎美「月光庭園」、野村日魚子「夜はともだちビスケット」、ノリ・ケンゾウ「お昼時、睡眠薬」、伴名練「聖戦譜」、岡田幸生「『無伴奏』抄」、深沢レナ「芋虫・病室・空気猿」、深堀骨「人喰い身の上相談」あたりだろうか。

『花の命はノー・フューチャー』ブレイディみかこ ちくま文庫
イギリスの港町ブライトンで労働者階級の連合いと暮らす著者による強くて痛快なエッセイ。氏が語るのは「逆境」が世代を越えて受け継がれるクラスタで暮らすということ。センチメンタルな気持ちなど吹き飛ばして生きる姿はパンク。読んでいて気持ちがいい。
「『そんなに未来に希望が持てないのなら、生きる甲斐がないじゃないか』と言われることがよくある」
「最後には各人が自業自得の十字架にかかって惨死するだけの人生」
「それでも(中略)生きようとするからこそ、人間の生には意味がある。そういう意味だったら、わたしもまだ信じられる気がする」
それにしてもシモーヌ・ド・ボーヴォワールに雨宮まみ、こだまに笙野頼子、そしてチママンダ・ンゴズィ・アディーチェにブレイディみかこと、読むと無性に何かを語りたくなる本の著者がきまって女性というのは、きっと何か意味があるという気がする。

《アイアマンガー三部作》『堆塵館』『穢れの町』『肺都』エドワード・ケアリー 東京創元社
ロンドンの郊外に広がるゴミの山、。そしてその彼方にそびえ建つのはアイアマンガー一族の巨大な屋敷「堆塵館」。あらゆるごみを統べるアイアマンガーの血に秘められた秘密は、赤毛の少女ルーシーが館を訪れた時に大きなうねりとなって動き出す……。久しぶりに「物語」の面白さを堪能できた気がする。登場人物たちがことごとくどこかおかしいところとか、物の声が聞こえる主人公クロッドだとか、なんだかもう堪らない。著者による挿し絵も味があってとても好い。少年向けに書かれた物語らしいが、こういうのを読みたい大人だって多いんじゃないか。というより物語を読むわくわくを忘れた大人にこそ読んでもらいたいと思う。一巻『堆塵館』を読んだところ前評判どおりの大傑作で、「えっ、ここで終わるの?!」というラストも前評判通り(笑)。
二作目の『穢れの町』では舞台が堆塵館から「穢れの町」ことロンドンはフォーリッチンガム区へと移り、クロッドとルーシーの奇想天外な冒険が続いてゆく。そして最終巻『肺都』ではヴィクトリア朝のイギリスを舞台にアイアマンガー一族とロンドンの存亡を賭けた闘いがいよいよ幕を開ける。翻弄されるクロッドとルーシーの二人の運命もさることながら、何処に着地するかまったく予想もつかないジェットコースターノベル《アイアマンガー三部作》の完結編として見事な締め括りだった。
どことなくシェイクスピアの四大悲劇『リア王』『マクベス』『ハムレット』『ロミオとジュリエット』を思わせるようなエッセンスが散りばめられているようにも見える。人を信用しない老いた王の乱心が国を滅ぼすとか、森ならぬ(ゴミの)山が動くとか、あるいは二転三転する運命が翻弄する恋人たちの悲劇だとか、なんとなくモチーフが似ているような気がしてならない。あと、とても上手いと思ったのが人名や地名といった「名前」の言いかえ。最初は単なる言葉遊びぐらいに思ったのだが、LONDONをわざとLUNGDONと読み違えるくだりで連想したのは『稲生物怪録(いのうもののけろく)』のことだった。豪傑・稲生平太郎と妖怪のおよそ1か月におよぶ壮絶な戦いを描いた物語『稲生物怪録』の最後には、とうとう妖怪の親玉である山本五郎左衛門が現れて名乗りを上げるのだが、そのときに「ヤマモト」ではなく「サンモト」と名乗るのだ。わざと音読みにして発音を違うものにしてしまうのは、読み替えることで違う意味を持たせためでありまさしく呪術の一種に他ならない。そう思ったとき、かつてアイアマンガー一族は自分たちの生き残りを賭けてゴミの王となる道を自ら選んだであろうことを確信し、だからこそ不浄やゴミに関して人外の力を持つことが出来たのだろうと納得した。そしてまた、新しい時代の二人の若者がその歴史を変えていくというのが素晴らしい。今年読んだ中でも出色の出来。

『主の変容病院・挑発』スタニスワフ・レム 国書刊行会
ナチス占領時代のポーランドで精神病院に勤務する若い医師を主人公とした初期作品と、架空の書評やエッセイとも一読判別がつかないメタフィクショナルな四篇を収録。哲学・倫理的な重いテーマをめぐる思索として、全てが響きあう。関口時正氏による翻訳は細部にまで配慮が行き届いているし、訳者後記での言葉の解釈に関する逡巡や本国での出版事情もとても面白い。また沼野充義氏による解説「レムは一人でそのすべてである」もレム文学の大まかな俯瞰や最晩年のレムの様子が描写されていて胸熱く大満足の一冊だった。まさにレク・コレクションの最後を飾るにふさわしい作品だったと思う。
後半に収録されたメタフィクション『挑発』は、ナチスによるユダヤ人大虐殺をはじめ歴史上の虐殺を考察した架空の本『ジェノサイド』の書評で幕を開けるのだが、これがとにかくすごい。
「神を殺すことができないドイツ人は、神に《選ばれたる民》を殺してその地位を奪い、血なまぐさいin effigie〔肖像による〕退位の式の後、自らを歴史によって選ばれたる者と宣言しようとしたのだ。」 とか、
あるいは
「殺戮は《反・贖罪》行為であり、それによってドイツ人は《神との契約》から解放されたのだった。しかしその解放は完全なものであるべきで、つまりそれが神の保護下から反対の徴の保護下に移ることと等しくなってはならないのだった。殺戮は悪魔的な悪に捧げる行為となってはならず(後略)」などなど。
やはりレムはすごい……。
続く「『人類の一分間』は地球上の全人類が一分間の間にしていることを統計学的に示した架空の本で、『ジェノサイド』もこちらも、本物を是非読んでみたくなる。出来ることなら第二期レム・コレクションが開始されて、未訳の長篇『地には平和を』や『技術大全』などが訳されると嬉しいのだが。

『火の書』グラビンスキ 国書刊行会
ポーランドで平行進化を遂げた唯一無二の幻想作家による作品集の第3弾。(レムといいグラビンスキといい、ポーランド作家おそるべしである。)『動きの悪魔』では鉄道、『狂気の巡礼』では心理をテーマとした著者が、本作では火に関する幻想と神秘をテーマに物語を綴っている。(さらに自作に関するエッセイとインタビューも収録されていてお買い得。)収録作で特に気に入ったのは「白いメガネザル」「ゲブルたち」「有毒ガス」あたりの作品。冒頭の「赤いマグダ」も切れ味鋭く、珍しく読後感爽やかな「花火師」も愉しい。またエッセイ「私の仕事場から」も『動きの悪魔』の面白さを増してくれる。いつも良いお仕事をしてくださる芝田文乃氏には感謝したい。既刊本の売れ行きが良くて『サラマンドラ』や『バフォメットの影』『チャンダウラ王』といった長篇作品も訳されるといいが。

<既刊部門> ―古本・絶版とりまぜて今年自分が読んだ本―
『分裂病の少女の手記』M・セシュエー みすず書房
複雑な家庭環境に育ち18歳で統合失調症となった女性について克明に記録した本。前半には発症から心理療法による快復までの過程を内面から描写した当人の手記を、そして後半には彼女の主治医であった著者セシュエーによる解釈を収録する。解釈の方は今の目から見るといささか古い感じがしないでもないが、何と言っても手記が圧巻だ。後半のセシュエーによる解釈に「外部の情景と彼女の内的世界との間には限界がなくなっている。自我はもはや独立した主体ではなく、外部の対象にとけ込んでしまっている」とあるが、まさしくこれはJ・G・バラードが描いた内宇宙そのものに違いない。(但しバラードの場合はその状態をある種のユートピアとして描いているわけだが。)また日常生活に突然異様な感覚が侵入してくる恐怖は、実話怪談の精神病理や或いはアンナ・カヴァンの『アサイラム・ピース』や『ジュリアとバスーカ』といった作品にも通じるものがあるだろう。
少女の快復は口の中に一片の林檎を頬張ったときから始まる。それまで彼女にとってなんら意味を成さなかった世界の全てが再び「現実」へと回帰するシーンは読んでいて感動すら覚える。「これこそはそれよ、これこそはそれよ」「これこそはそれ、あの現実よ」というのは、まさしく心からの叫びに違いない。(実際には快復の兆しを見せてからも、守られているという安心感と見捨てられたという絶望感から一進一退を繰り返し、寛解にこぎつけるにはまだ何年もかかるわけだが。)最後になるが、付録にある「ルネの生活歴及び病歴」は短文ながら、少女のこれまで過ごして来た家庭環境が判ってつらい。こういう人は健康になって幸せにならなければいけないと思うよ。いやほんと。

『少年十字軍』マルセル・シュウォッブ 王国社
シュウォッブは一部に熱狂的なファンを持つ作家。本書は彼の『黄金仮面の王』『二重の心』という二つの初期作品から厳選して訳出した短篇集で、ポーやダンセイニ、ヴァーノン・リーなどに共通する幻想と衒学と愉しさに溢れている。本書は家で読んだ際のシチュエーションも良くて、休日にパスタとワインの昼食を摂ったあとに、午後の風に吹かれながらリクライニングチェアで本書を読むのはまさに至福の時間だった。収録作で特に好みだったのは「黄金仮面の王」「大地炎上」「リリス」「少年十字軍」。ちなみに訳者の多田智満子氏はアルトー『ヘリオガバルス』やユルスナール『東方綺譚』など手がけられていて、格調高い訳文も好かった。

『土を喰う日々』水上勉 新潮文庫
京都の禅寺の小僧時代に鍛えた腕をもって軽井沢の地で実践する精進料理の数々。一年に亘り旬を喰らい土を食む日々を綴った名随筆。冬の芋や大根と乾物、春の山菜や筍、初夏の梅に夏の茄子や豆腐、秋の松茸やしめじに果実酒の数々と栗。これぞ喜びである。本書における著者の食に対する思いは、道元が「典座教訓」でのべた次の言葉をもって足りるだろう。
「一本の野菜を手にとりあげて仏とし、丈六尺の仏をまねいて一本の野菜となせ。これが仏の神通力である」(注:意訳)
一粒の米にも感謝の気持ちを忘れぬその姿勢は、まさに禅そのものだ。鈴木大拙の『禅学入門』にもそのまま通じるものがある。こんな面白い本とは知らず、今まで何となく敬遠していてもったいなかった。

2017年12月の読了本

『中国文学の愉しき世界』井波律子 岩波現代文庫
著者は中国文学の研究者で、『論語』や『正史 三国志』、『三国志演義』『水滸伝』などの翻訳でも知られる方。本書は90年代後半からの6年ほどの間に書かれた文章を集めた肩の凝らないエッセイ集だ。中身は四部に分かれてバラエティに富んでいる。第1部は「歴史を彩る奇人・達人」と題して『世説新語(せせつしんご)』を中心に「竹林の七賢人」や「呉中の四才」など激動の時代を生きた文人や奇人達のエピソードを紹介する。第2部の「幻想と夢の物語宇宙」では『唐宋伝奇集』から『山海経』、『列仙伝』『神仙伝』『捜神記』から『聊斎志異』まで、また本邦からは上田秋成『雨月物語』はもちろん泉鏡花「眉かくしの霊」や幸田露伴「観画談」にいたるまで様々な奇書や怪異譚の世界を解説していて、個人的には本書の中で一番好きなパートとなっている。
なお本書によれば、井波氏は妖怪研究で知られる小松和彦氏の同僚で、「怪異・怪談文化の研究」の会にもメンバーとして参加している方とのこと。なるほど、道理で話の好みが一致するわけだ。第3部は「中国文化プロムナード」として様々なテーマの気楽なエッセイを20ほど収録し、最後の第4部「本と人との出会い ―わたしの中国文学遍歴」には子供時代の思い出に始まって、吉川幸次郎氏および桑原武夫氏という両恩師との思い出や、梅原猛氏、高橋和巳氏、鶴見俊輔氏との交流を綴った私的な文章を集めてある。読んでいくうち中国文学の奥深さと面白さが伝わってきて、俄然興味が湧いてきた。

『人魚の石』田辺青蛙 徳間書店
うらぶれた山寺を継ごうと故郷に帰ってきた青年。寺に住みつく人魚と出会った日から、彼の周りには奇妙な事ばかり起こり始める。それは山に伝わる不思議な石を巡る物語の始まりでもあった……。幻想と恐怖に彩られた、他に類を見ないあやかしの連作短編集であった。著者の作品を読んだのは『あめだま』に続いて二作目なのだが、掌編集だった前作とは違い今回は続き物。はたしてどんな感じだろうかと思いながら読んでいったのだが、終わってみればいかにもこの著者らしいものであった。作中で示された謎は明確な形で解決するわけもなく、例えば『ドグラ・マグラ』のような読後感でもって静かに閉じる。この手の本は一度ハマると抜けがたいのだ。

『遊仙窟』張文成 岩波文庫
唐代伝奇小説の一篇。旅の使命を帯びた男が神仙の郷に迷い込み、女仙の歓待を受け一夜の契りを交わして別れる迄を描く。詩の応酬による恋の鞘当てがとても愉しい。詩の内容はたわいもないが、その美しさはまた別。漢詩は対訳付きだがヨーロッパの詩とちがって凡そ意味が解るので、言葉選びの美しさを直接味わうことができる。漢字文化圏に生まれてよかった。

『極楽鳥とカタツムリ』澁澤龍彦 河出文庫
著者が遺した膨大な文章の中から、哺乳類や鳥類、魚類に貝、はては昆虫から紙魚まで、ありとあらゆる種類の生物について書かれたエッセイや創作ばかりを抜き出して編集した、文庫オリジナルの一冊。儒艮(じゅごん)に獏(ばく)、象に犀、ドードーに極楽鳥など次々と出てきて愉しい。文章自体は『高丘親王航海記』『私のプリニウス』や『幻想博物誌』『ドラゴニア綺譚集』など家にある本で読めるものが大半なのだが、これだけ同一テーマが揃うとなかなか壮観である。内容自体はとっつきやすいので、これから澁澤龍彦を読む人にとっては恰好の入門書になるのではなかろうか。本書を読んでいるうち、自分にニセ科学への耐性ができたのは、もしかしたら氏の著作によってプリニウスをはじめとする昔の科学者や博物学者の出鱈目に馴染んできたからではなかろうか、などと考えてみたりした。

『水から水まで』北野勇作(惑星と口笛ブックス)
西崎憲氏が立ち上げた電子書籍のレーベル〈惑星と口笛ブックス〉の一冊。とは言っても普通の長篇や短篇集などではなく、電子書籍のメリットを最大限に活かして、50ページほどの短い作品を〈シングルカット〉と銘打って販売したもの。(もちろん本レーベルのオリジナル。)中には数ページあまりの掌篇が九つ収録されていて、いずれも著者の作品の特徴である死の気配や寂しさと相俟ったユーモアがたまらない。構成は「曲」「穴」「釜」「波」「蛇」「星」「石」という七つのテーマの作品を、冒頭と最後にある「水」という同じ題名の二作品で挟み込むもので、どの作品も極限まで絞り込んだ言葉が純化され結晶のように突き刺さってくる。氏の作品はどこがどういいと具体的に説明しづらいのだが、それがまたいいところでもある。
とりわけ好きなのは「曲」「波」と最後の「水」だがまるで落語のような「蛇」も好かった。夏目漱石の『夢十夜』や内田百閒の『冥土・旅順入城式』、あるいは稲垣足穂の『一千一秒物語』などが好きな人にはきっと合うのではないだろうか。北野氏はどちらかというと長篇より短篇向きの作風なのではないかという気がする。

『ふゆのほん』西崎憲(惑星と口笛ブックス)
「水から水まで」と同じく〈シングルカット〉のシリーズの短篇。最初のうちはどんな話か呑み込むのに時間がかかったが、作中で「参加型読書I」のイベントが始まってからは一気読みしてしまった。(これはもしかして西崎氏が以前「やりたい」と仰っていたイベントではなかろうか。)
うまく表現出来なのだが、たとえば冬の日差しのなかで窓際にみえたチンダル現象だとか、あるいは机の上に薄く積もったほこりが僅かな風で描きだす模様だとか、そんな遠くを見ていては見逃してしまう光景にふと気づいた時の感覚に似ていると思う。氏の著作の中では『飛行士と東京の雨の森』も同じタイプで、ファンタジーや奇妙な話も好きなのだが、こういったタイプのものは心に届いてくるからとりわけ好きだ。気配を愉しむ小説というか、じっと見つめると見えなくなってしまうもの、触ると変わってしまうものについて書かれたような本といっても良いかもしれない。毀れないようにそーっと読む、そんな作品だ。
本作を読んで思ったのだが、「AはBである/BはCである/だからAはCである」 みたいな本ではなくて、 「AはBである/DはEである/FはGである (=実はCについて書かれている)」 みたいな本をもっと読んでみたい。( ウルフ『ピース』やクロウリー『リトル、ビッグ』などはそういう本なのではないかと思っている。ちなみにレムの『天の声』や『ソラリス』も同じ類の本だとは思うのだが、レムの場合、真ん中には「C」は無くて、ただ空洞があるだけのような気がする。もしくは有るか無いかすら判らないか。)

『古本で見る昭和の生活』岡崎武志 ちくま文庫
明治から昭和、そして一部平成までのいわゆる「雑本」を俎上に載せて、50~60歳あたりの人々の琴線にふれる話題を提供する本。大阪万博やジャズ喫茶の話は当然として、戦前・戦中の知らない作家について書かれた文章も意外と新鮮で面白い。例えば昔は職場の飲み会に付きものだった「宴会芸」について書かれたノウハウ本『宴会・招接待のすべて』や、東京随筆で知られた木村壮八による珍しい文庫版の『南縁随筆』、当時の人気子役 松島トモ子のラジオドラマを本にした『アパートちゃん』など、昭和の香りがぷんぷんしてくる。昔は大宮が東京から半日の小旅行の地だったとか、松島トモ子の本名「奉子(ともこ)」は彼女が産まれた満州・奉天にちなんでつけられただとか、いわゆる「ムダな蘊蓄」を知ることができるのが、この手の本を読む愉しさでもある。肯定も否定もせず、ただ淡々とその時代を映す鏡としての古本。自分では絶対に買わない類の本なのでこうした紹介はありがたい。元になった文章は2005年頃の連載、単行本が2012年ということなので、話の冒頭に書かれている話題は今読むととても古く感じてしまうが、しかしそれも含めて味わうのがこの本の楽しみ方のような気がする。解説は古本屋にして直木賞作家の出久根達郎氏が書いているのだが、それもまた「いかにも」な感じがして好い。

『淑やかな悪夢』シンシア・アスキス他 東京創元社
倉阪鬼一郎・南條竹則・西崎憲という三名の訳者によって編まれた英米女流作家の怪談アンソロジー。自分が知らない作家も多いのだが、各作品の最初には著者紹介が載っていてとても親切。収録作で一番怖かった(=面白かった)のは全編が狂気に彩られた「黄色い壁紙」なのだが、他にも「空地」「冷たい抱擁」「荒地道の事件」などが気に入った。自分はかねがね不条理なことや無意味なことほど恐ろしいと思っているのだが、冒頭のシンシア・アスキス「追われる女」や次のメアリ・E・ウィルキンズ-フリーマン「空地」などを読んでいると、二作ともまさにぴったりの作品という気がする。小泉八雲の『怪談』に通じるテイストがある。
また、怖さというのは笑いと紙一重だったりするわけだが、これは「人形は人間から微妙にずれたぐらいの方が極端にかけ離れているより怖さを感じる」という「不気味の谷」と言われる現象と、ある意味共通するところがあるかも知れない。読者を心底怖がらせるのは結構難しいのだ。しかし怖さばかりが怪談の魅力でもないわけで、そういった見方をした時、本書の中では「名誉の幽霊」や「証拠の性質」「故障」などもとても魅力的な作品だったと言い添えておきたい。巻末の訳者鼎談も楽しかった。

『書店不屈宣言』田口久美子 ちくま文庫
著者が長年働いてきたジュンク堂の社員へのインタビューを中心にして、日本の出版業界の置かれた厳しい現状について考えた本。徹底して「売り物としての本気」と「売り手である書店」の視点ではあるが、今の出版産業および(結果的に)出版文化を守っていくための考察が簡潔に述べられている。著者の本は『書店風雲録』『書店繁盛記』に続いて3冊目なのだが、本書がこれまでの中で最もトーンが暗くて厳しい内容だった。それはきっとこの20年の間に出版業界が辿ってきた道なのだろうと思う。しかし本書の副題が「わたしたちはへこたれない」となっているように、閉塞感を感じつつも出版文化を懸命に守ろうとする著者の気概が伝わってきてアツい。この本に「不屈宣言」とつけた意味はおそらくとても重い。
自分が思うに、背景にはまず日本の社会自体が大きな曲がり角に来ていることがあり、そこにアマゾンなど従来の商慣習をぶち壊す新興勢力が加わって今の状態があるわけで、著者の言うように旧態依然とした業界の体質を変えてそれに立ち向かうのは決して容易ではない。しかしやらなければ出版文化そのものが危ういという著者たちの危機感はおそらく間違っていないと思う。ラストのエピソードが象徴するような「本を作り/本を売り/そして本を買って読む」という一連の行為には、単なる売買とは違う意味があるのだろうという気がするのである。だからこそ著者の「宣言」にはとても共感できるのだ。消費者としての立場からではなかなか見えてこないが、どんな世界にもそれを作り支えている人々がいるのだ。
本書で述べられている問題を自分なりに層別すると、「①人口減少や高齢化、低所得化といった社会変化に伴う出版点数の減少」「②電子書籍など出版形態の変化による紙の本の減少」「③アマゾンなど通販の振興による商流の変化」といったところにまとめられるのではないかと思う。これらかいずれも書店レベルの努力でどうにか出来るようなものではないので、ある程度は書店の再編や淘汰はやむを得ないのかもしれない。個人的にはいわゆる「リアル書店」にはこれからもぜひずっと残っていってもらいたいのだが、そのためには当然ながら売上げの確保が必要で、そのためには「書籍以外の物販を増す」「書店で本を買う必然性を増す」ぐらいしか思いつかない。前者は文具など既に行われているし、後者はサイン会などのイベントやサイン本がそうなのかも知れない。
自分がリアル書店に求めるのは、本好き仲間で話題になった本や読みたい本がいつでも手に入る(つまり新刊入荷の種類とスピード)だったり、あるいは昔の本を探しに行くと棚差しになっていたり(つまりジュンク堂方式)ということ。でも書店の売り上げを伸ばすには一部の「ヘビーユーザー(本好き)」を相手にするばかりでなく、同時にあまり本を読まない人達への仕掛けも必要なのだろうと思う。
自分は古本屋めぐりも好きなのだが、最近は古書市場にも以前ほど本が出回らなくなり入手に苦労しているという話を聞いた事がある。新築の家が減ると10年後の住宅設備の買替え需要が減ってしまうのと同じで、新刊が出なければ古本だってそのうち減ってしまうのだ。何にせよつらい時代である。

『肺都』エドワード・ケアリー 東京創元社
ヴィクトリア朝のイギリスを舞台に、アイアマンガー一族とロンドンの存亡を賭けた闘いが幕を開ける。翻弄されるクロッドとルーシーの二人の運命や如何に……。 いやあ、これは傑作。《アイアマンガー三部作》の完結編として見事な締め括りだった。読んだばかりで頭の整理が出来てないが、とりあえず気がついたことを書き留めておきたい。
読んでいる間、どことなく覚えがある感じがしたのだが、ふと思いついたのがシェイクスピアの四大悲劇のこと。あちこちに『リア王』『マクベス』『ハムレット』『ロミオとジュリエット』といった作品のエッセンスが微妙に見え隠れするように思えるのは考え過ぎだろうか。人を信用しない老いた王の乱心が国を滅ぼすとか、森ならぬ(ゴミの)山が動くとか、あるいは二転三転する運命が翻弄する恋人たちの悲劇だとか、なんとなくモチーフが似ているような気がしてならない。
あと、とても上手いと思ったのが人名や地名といった「名前」の言いかえ。最初は単なる言葉遊びぐらいに思ったのだが、LONDONをわざとLUNGDONと読み違えるくだりで連想したのは『稲生物怪録(いのうもののけろく)』のことだった。豪傑・稲生平太郎と妖怪のおよそ1か月におよぶ壮絶な戦いを描いた物語『稲生物怪録』の最後には、とうとう妖怪の親玉である山本五郎左衛門が現れて名乗りを上げるのだが、そのときに「ヤマモト」ではなく「サンモト」と名乗るのだ。わざと音読みにして発音を違うものにしてしまうのは、読み替えることで違う意味を持たせためでありまさしく呪術の一種に他ならない。そう思ったとき、かつてアイアマンガー一族は自分たちの生き残りを賭けてゴミの王となる道を選んだのだと確信した。だからこそ不浄やゴミに関して人外の力を持つことが出来たのだと納得した。そしてまた、新しい時代の二人の若者がその歴史を変えていくというのが素晴らしい。いい話だった。

2017年11月の読了本

『素晴らしき洞窟探検の世界』吉田勝次 ちくま新書
著者は会社経営のかたわら20年以上に亘って本格的な洞窟探検を行ってきた実践派。実体験にもとづくものなので、一般読者にもその怖さと魅力とが充分に伝わってくる。泊りがけで入る洞窟探検の様子や生成の仕方による洞窟の違い、世界各地の珍しい洞窟など。内容も盛りだくさん。著者はかなり怖いおもいを多くしており、ひとつ間違えると命を落としていた事例もひとつふたつではない。(本人も書かれているように助かったのは運が良かったから。)自分は絶対にやりたくないことだが、それだけに自分は絶対に体験出来ない貴重な話であり面白い。「探検」とはいったいなんだろうか。考えてしまった

『労働者階級の反乱』ブレイディみかこ 光文社新書
内容は英国におけるブレグジット(EU離脱)の国民投票後の状況と、その推進役であった労働者階級の暮らしぶりを、著者が暮らす労働者階級の街ブライトンから眺めたもの。ジャスティン・ジェストやセリーナ・ドッドの著作をベースにした労働者の歴史や思想的な背景の考察も面白いが、労働者(=著者の友人たち)の生の声が載っているのが何しろ良い。あくまである立場からの見方ではあるけれども、本書を読むとサッチャーやキャメロンら歴代の首相が行ってきた政策がいかに英国民を(主に経済的に)分断してきたかがよくわかる。そしていかにそれが右傾化と排除の論理の温床になっていくのかも。これはそのまま今の日本でも起こっていることではないだろうか。
本書によれば英国における運動の動機は、トランプ旋風のような支持者たちによる排外主義的なものとは違い、政治の失敗による社会制度の疲弊を背景としてこれ以上移民が増えて生活が脅かされることに対する不安であるようだ。むしろアメリカにおけるトランプ旋風と日本の自民党支持の構図が似ていてイギリスのそれとは違うような気がするのだが、日本の保守的な層(右傾化している連中とは違うマジョリティの層)はまたアメリカとは違う気もするし、正直なところよく分からない。「貧しい白人労働者階級は、同じぐらいに貧しい移民の人々に対してエリート意識のようなもの」を持つため「白人というマジョリティの中にいる下層民としての立場」が真の問題から目を逸らしてしまっている」という文章があるが、これは「日本人男性というマジョリティ」と同じ構図でもあるだろう。
ジャスティン・ジェストによる調査では、政治的喪失感(自分の政治への影響力や政治家に関心を持たれている感覚)や経済的喪失感(≒本来自分が享受できるべきものが得られていないという経済的な欠乏の感覚)が大きい人々ほど、極右政党支持に回る傾向が強いとのこと。社会的な喪失感(言語や文化などを含む)では極右支持にはならないというのが面白い。
もしもこの傾向が日本でも同じだとすれば、野党は与党に対抗するには消費税減税や撤廃を強く謳うべきではないかという気がする。困窮する人々にきちんと向き合う経済政策を提言すれば、イギリス労働党のように(あるいは立憲民主党のように)支持は増えるはずと思われる。少なくともサイレントマジョリティである無党派層からの支持は得られるのではないだろうか。
なおメイ首相による解散総選挙の際に、与党の思惑とは逆にコービン氏が率いる労働党が大躍進したのだが、その背景には保守党のダメな緊縮マニフェストに対抗して反緊縮マニフェストを労働党が打ち出しただけではないらしい。実はアメリカのバーニー・サンダース陣営(大統領候補選出選挙のときにヒラリー・クリントンを危ういところまで追いつめた人)が労働党の手助けをしたとのこと。具体的には労働党を支持するインテリな若者達に、労働者の住む地域での「ドブ板選挙」のやり方を教えた為なのだそうだ。
あまりまとまりのない感想になってしまった。著者のブレイディみかこ氏は前著『花の命はノー・フューチャー』の飾らない文章が好かったのでちょっと固めの本書も買ってみたのだが、おかげで色々と勉強になった。固めではあるがけっして読みにくくはなく、労働者階層の百年史にサブカルチャー史を絡めたりといかにも著者らしいところも見え隠れする。エスノグラフィーの手法を使って分析してみたり、この人、やはり「そちら系」の勉強した人なのかもしれない。

『ガストン・ルルーの恐怖夜話』創元推理文庫
『黄色い部屋の謎』や『オペラ座の怪人』で知られる仏作家による短篇集。超自然的な要素はほとんどなく、怪奇幻想よりサスペンスや犯罪小説の色が濃い。「喉切り農場」みたいというと怪奇小説が好きなひとには雰囲気が判ってもらえるだろうか。怖さの種明かしがなされるのはいかにもミステリらしくて、いずれの作品も最後の一文が効いているのが巧いとおもう。なお五篇は引退した船乗りたちが恐怖の物語を夜な夜な語り合う連作になっている。特に気に入ったのは「胸像たちの晩餐」「火の文字」の二篇。さきほど「サスペンスや犯罪小説」と書いたところなのに、本書で好きな作品に集中で唯一の怪奇幻想小説である「火の文字」を選ぶというのが自分でもなんともはや。(笑)

『金沢城のヒキガエル』奥野良之助 平凡社ライブラリー
水族館職員から金沢大学生物科へと転身した研究者である著者が、研究対象を魚からヒキガエルへと移して調べ上げたフィールドワークの記録。軽妙な語り口はのんびりしたヒキガエルの生態を語るのにぴったり。ユーモアあふれる文章で金沢城本丸跡に生息するヒキガエルたちの一年を通した暮らしぶりや繁殖のようす、そしてその一生が語られ自然科学についての優れた読み物となっている。著者の自由放埓な考え方や「利己的遺伝子と生存戦略、そして競争に基づく自然淘汰」というダーウィニズムに対する批判が面白いが、学生運動の余韻さめやらぬ1972年からおよそ10年ほどの記録なので時代背景の関係もあったのだろうか。
自然学の本で面白いものに当たると、ほんとうに嬉しい。

『レンズの下の聖徳太子』赤瀬川原平 幻戯書房
銀河叢書の中の一冊。赤瀬川/尾辻の両名義の単行本未収録作が十篇収録され、中篇の表題作をはじめとして私小説ともエッセイともつかない著者独特の世界が凝縮されている。これまで未収録ではあったが決して出来が悪いわけではなく、出版元である幻戯書房の説明によれば「初書籍化となる貴重な未発表・単行本未収録作品を中心とする」のが特徴の叢書なのだそうだ。
著者の文章の特徴は隠喩と視覚的イメージであり、間断なく繰り出される文字の羅列を読んでいるうちに、脱臼した言葉が作り出すイメージに絡みとられて身動きが取れなくなり、ページをめくりながら目だけがきょろきょろと紙面を追うようになる。後期の本では表面が柔らかなユーモアて包み込まれているので、さらりと読むと特徴が掴みにくいが、初期の作品ではそれが直に見える感じがする。芯の部分はなかなかどうして一筋縄ではいかない作家なのだと思う。そういう意味では、(読みやすさとはまた別に)本書、特に初期作品はそういった「赤瀬川原平らしさ」が解りやすい本と言えるかも知れない。最初期の作品である表題作においては、若き日の赤瀬川氏がアンデパンダン展に巨大な千円札の模写を出展すべく苦闘する様子が描かれる。若書きのざらざらした文章ながら独特の味わいはすでに現れている。 これを読んで改めて感じたのだが、氏はやはり目玉(観察)の人ではないだろうか。
どれも面白いのだが、とりわけ気に入ったのは「意味が散る」と「空罐」の二篇。前者の方は初出が現代詩手帖で、尾辻克彦名義だったとのこと。この短篇で『櫻画報』の題名の由来を初めて知った。芸術(反芸術)を追求してあらゆることの「意味ばかり追いかけて来」た赤瀬川克彦がやがて原平と名前を替え、さらに齢を重ねて尾辻克彦になり「見る人」になったのだけれど、たまに無意識のうちに意味をまとわりつかせてしまうのが面白い。
今ごろになって気がついたのだが、自分がブログやツイッターで文章を書くときに体言止めを使うのは、おそらく赤瀬川原平氏の影響ではないだろうか。
なおまだ赤瀬川原平/尾辻克彦の本を読まれたことがない方に少し補足を。氏の創作は基本的に私小説なので交友関係や過去の活動がたくさん言及される。芸術活動をしていたころの回想記や素の自分が書かれているエッセイなどをサブテキストとしていくつか読んでおくともっと楽しめると思う。『櫻画報大全』『東京ミキサー計画』『反芸術アンパン』『超芸術トマソン』『ライカ同盟』などがお薦め。

『人形愛/秘儀/甦りの家』高橋たか子 講談社文芸文庫
「玉男」「澄生」「雪生」という年下の青年との交歓を通じて魂の奥底とその先へ至る道を探る三篇の短篇を収録した小説集。人形、原型、官能、下、内在概念といったキーワードを様々に変奏させながら、キリスト教的な神秘主義と再生の探求を描く。茫洋として官能的でそれでいて虚無の気配に満ちて円環を形作る。不思議な読み心地だ。官能性以外に「もう一つの現実」としての夢も特徴的で、どことなく静謐なバロック音楽のような雰囲気もする。(もしかして川端康成に通じるものもあるのだろうか。)以下は読みながら控えた覚え書きである。
これらの作品が持つ官能性は対象(若い異性)を視ることと、且つ自らが視られることの拒否で成り立っているのではないかという気がする。それは視角の拒絶は聴覚などその他の「遠隔的な感覚」の拒絶と相まって侵襲の拒絶でもあり自らの無化につながっていて、唯一の拠り所は触覚である。いつでの作品でも言及される「人形」は、メルロ=ポンティ 言うところの「身体性」の欠如あるいはハイデガー言うところの「世界内存在」としての自己の否定を示しているのかもしれない。(それはまた幻想文学好きが好むものでもあるわけだが。)氏における「うつつの希薄化」については、一度きちんと考えてみる価値があるかも知れない。
中では最後の「甦りの家」がもっとも読み応えがあった。
雪生と名付けた若い男性との逢瀬を通じて、深い井戸のような存在の奥底へと降りてゆき「原型」をつかみ上げようとするひとりの女性の姿。彼女はその「命の闇」からの甦り(再生)を通じ、深くて高いものへ到達しようとする。ベルニーニの「聖テレジア」が出た瞬間に「こういう事か」と納得した。突然出てくる『内在概念』という本だとか高校生のころの回想に出てくるミステリアスな青年もいい。

『ハーモニー』伊藤計劃 ハヤカワ文庫
「生府」が健康を分子レベルで監視して病害のリスクから守る医療福祉社会に突入した〈大災禍〉以後の世界。そのユートピア的な世界を襲った災厄と、それを食い止めんとする上級螺旋監査官の探査行を軸に、生権力や自由意志などについて深く思索する作品。「ユートピア」は別のある人にとっては「ディストピア」であるという話もあるが、同じような意味で本書も間違いなく「ハッピーエンド」であると言えるだろう。近年の脳科学研究の成果や行動経済学の知見まで広く取り入れて衝撃的なラストまで無駄なく繋がってゆく手腕は見事だと思うが、一方でいかにもラノベ的なキャラクター造形や安直ともみえる設定、あるいはかなり強引でリアルさに欠ける筋立てとのギャップが評価(というより好悪?)を分ける作品であるとも言える。様々な先行作品のオマージュと思しきシーンが出てきたり、あるいはかなりあからさまにセリフのパロディを放り込んだりもしており、またラストの構成は小松左京『日本アパッチ族』をヒントにしているのではないかとも思えた。これらをすべてひっくるめて「伊藤計劃らしさ」と言えるのだろう。(個人的には霧慧トァンが御冷ミァハと初めて言葉を交わしたとき、ミァハが読んでいたのは『特性のない男』というのがツボだった。そんな子供いるか!/笑)

『語るボルヘス』J.L.ボルヘス 岩波文庫
著者が愛してやまぬ「書物」「不死性」「エマヌエル・スヴェーデンボリ」「探偵小説」「時間」という五つのテーマについて語った講演録。他の講演やエッセイとかぶる内容もあるが概ね解りやすくかつ面白い。(ただ「探偵小説」では「モルグ街の殺人」を始めポーやティスタトンらの作品の犯人まで全部喋ってしまうので未読でネタバレが困る方は注意が必要。)それでも自分として特に興味深かったのは「書物」と「探偵小説」であり、後者で感心したのは「小説のジャンルといつものは存在するのか?」という問いとともに、ポーは探偵小説の創始者であり同時にその読者も創り出したのだと説明するくだり。これはミステリに限らずSFや幻想怪奇などジャンル小説全般にいえることではないだろうか。たしかにジャンル小説には、ある約束にもとづいた「楽しみ方」というものが存在するのだ。
「文学上のジャンルはおそらくテキストそのものよりも、テキストの読まれ方にかかわっているのではないかということです。というのも、芸術的行為というのは読者とテキストの両方が不可欠であり、この両者がひとつになってはじめて存在するからです」
かなりいい。
このようにボルヘスは興味の対象が重なるととても面白いのだが、一方「不死性」とか「永遠」についてはどうもしっくりこなかったりする。自分にとっては少し困った人なのである。(笑)

『ルーフォック・オルメスの事件簿』カミ 書肆盛林堂
フランスのユーモア作家カミの探偵小説ルーフォック・オルメス物を三篇に、横田順彌氏と編者の北原尚彦氏自身によるパスティーシュを収録した豪華短篇集。ボーナストラックとして集中で最も長い「処女華受難」を基にした絵物語も収録されている。創元推理文庫から出された『ルーフォック・オルメスの冒険』と合わせると、これで日本において出版されたオルメス物はほぼ読めるとのこと。内容はいつものカミ作品の如く脱力感と奇想と笑いが満載で大変面白かった。北原氏のパロディは秀逸だし、横田氏の作品は往年の《荒熊雪之丞シリーズ》を彷彿とさせてファンには堪らない一冊になっている。

沼野充義『スタニスワフ・レム「ソラリス」』(NHK出版)
NHKテレビの番組『100分de名著』のテキスト。4回に分けて『ソラリス』の魅力や文学的な意義、作品の背景などを要領よく解説してくれている。読んでいるうちに、まるで原作を最初から読み返したような感覚になれた。認識論、存在論、精神分析など幅広い読み方が出来る『ソラリス』は、読者自身を逆照射する作品なのだ。沼野氏によればレムの著作を貫いているものは「人間の理性の限界を見さだめようとする透徹したまなざし」と「絶対的なイデオロギーに対して懐疑的・相対主義的な見方をとること」、そして「理性の限界の外に広がる宇宙の驚異に対して自らを開いていこうとする姿勢」なのだそうだ。
本書を読んでいるうち、ミステリとSFの特徴の違いが頭に浮かんできた。ミステリとSFの比較は昔からよくされるけど、前者が科学的で後者が博物学的というのはあっただろうか?対象を要因に分けて分析するのは「科」学が得意とするところであって、世界を丸ごと理解し神の意図を読み取ろうとするのが博物学の目的である。これはミステリが求心的でSFが遠心的というのにも合致するのではないかと思うのだ。
ミステリは演繹法と見せかけて実は特権的探偵による帰納法だったりする(それが面白かったりもする)のだが、突き詰めると後期クイーン問題のような不確定性に行き着いてしまう。一方SFでは、世界そのもののカタログ化を推し進め「神(=作者)」の意図を読み取ろうとする博物学的な楽しみ方を突き詰めると、認識の問題が浮かび上がって、最終的にはレムやストルガツキーのような不可知論に行き着くことになる。両者がぐるりと回って同じところに着地するのが面白い。
そう考えるとレムが『捜査』や『枯草熱』のようなミステリを書いたのも故ないことではないのだろう。(また法月綸太郎が軽やかに『ノックス・マシン』のような傑作SFを書けるのも。) SFやミステリはガジェットや謎解きなども勿論面白いのだが、最も本質的な面白さはその辺りなのかも知れない。

『島の時間』赤瀬川原平 平凡社ライブラリー
2部構成からなる九州・沖縄の離島紀行。北の海には無い空気と時間が横溢している。第1部は博多の岩田屋デパートの会員誌に連載された文章とのことでしごくあっさりしている。珍しい風景が広がり面白いのではあるが、赤瀬川氏の本来の面白さとは少し違う気がする。即物的で描写に徹しているからだろうか。先にも書いたように氏はつねづね観察の人だと思っているのだが、ねじねじと頭の中で観念を捏ねくり回す感じが希薄だとこうも印象が違うということが判ってかえって興味深かった。一方、沖縄の亀甲墓やユタ、ノロに会いに行ったり自らのルーツを辿る書き下ろしの第2部になると、いよいよ「見る人」の本領発揮で滅法面白くなる。(ルーツを探るたびはどことなく山下洋輔『ドバラダ門』も連想させる。)赤瀬川氏の観察の面白さは常々「見立て」にあると思っているので、本書でも後半に周囲をきょろきょろ見渡しては妄想がぐるぐるし始めると俄然面白くなるのだ。解説でねじめ正一氏が書かれたように、結論など要らないまさしく「島の時間」が流れている。

2017年10月の読了本

『十二神将変』塚本邦雄 河出文庫
様々な寓意や象徴に満ちた絢爛豪華なミステリ。日本にいないはずだった男の帰国と変死は、やがてひとつのコミュニティの崩壊をもたらしてゆく。犯人はおろか探偵も判然としないまま物語は進み、それにも拘らず章を繰るごとに新たな貌を見せて飽きさせないのは見事。章が変わるたびに登場人物たちの様相ががらりと変わり、明と暗が逆になって物語がまるで万華鏡のようにまったく違って見えてくる。あるいはゆっくり回転する人形付きのジオラマを眺めているうち、角度によって違った風景が見えてくるような感じだろうか。中身は変わらぬのに見えかたでこうも違ったものになるものかと思う。幸と不幸が相対的なものであるように善と悪もまた相対的なのだ。(だからこそ実社会においては普遍的な規準が求められてきたのだろう。しかし頽廃的なものはまた同時に魅力的でもあるのだ。)
本書を読んでいると、なぜかしら中井英夫『虚無への供物』や坂口安吾『不連続殺人事件』、紀田順一郎の古書ミステリなどと同じにおいがしてくる。なんだろうと考えた結果、作品をミステリとして成り立たせるのに特に必要のない過剰さなんじゃないかという結論に至った。『黒死館殺人事件』のような衒学的なのとはまた違った(あれはあれで面白いのだが)、背景に透けて見える膨大な知識というか教養というか。 海外で言えばエーコやレムに感触が近いかもしれない。ミステリに拘らなければあるいは『南総里見八犬伝』とか。ミステリだが「Who dunit(誰が)」がメインではなく、もちろん「How dunit」でも「Why dunit」でもない。強いて言うなら何が起こったのか(What)か?を解き明かすミステリといっても良いかもしれない。たとえばガルシア=マルケスの『予告された殺人の記録』的な。

『爪びき・道陸神の戯』泉鏡花 泉鏡花記念館文庫
岩波書店の『鏡花全集』を底本に、泉鏡花のあまり知られていない佳品を紹介するシリーズの3巻目とのこと。自然主義批判によせて自らの文学が依拠するものを宣言するエッセイ「予の態度」のほか、世話物と幻想譚の見事な合体作「爪びき」など6篇が収録されていてどれもいい。中でも特に気に入ったのは先に挙げた二篇と、子どもが世界に対して感じる恐怖を幽霊に託して語る「霰ふる」あたりか。「爪びき」は底冷えするようなくだりから「観音力」による綺麗なラストに着地する。このまま岩波文庫に入っていてもいい出来と思う。残念ながら泉鏡花全集はおいそれとは買えないので、こういう本はもっと出てもらいたい。
せっかくなので「爪びき」の中から一部を引用しいてもよう。人気のないところで鳴る三味線の音にまつわる怖ろしくもせつない物語だが、その三味線の持主であるお俊が請われて三味線を弾く回想シーンからほんの少し。
「……明石潟、浜千鳥……と冴々とお俊が唄った。糸の声は渚に颯(さっ)と波を敷いて、チリチリと三つ五ツ、翼を翻して、千鳥がひらりと三味線(さみせん)を離れて飛んで、床の間を衡(つつ)と斜めに切ったと思うや、一つなだれて、庭の暗夜(やみ)を縁へ翔ける、トちらりと、薄赤に足摺れに、紺青の絹を滑らかに張る、(後略)」
瞬間に鳴る雷の音といいまるで音が聞こえてくるよう。ほんと、鏡花好きには堪らない。なおこの泉鏡花記念館文庫は、先の引用のように、鏡花独特の言い回しにルビが振ってあるのでとても読みやすいのもいい。

『放浪彗星通信』高柳誠 書肆山田
宇宙や天体をモチーフにした掌編と散文詩を集めた作品集。透徹した宇宙の彼方より訪れる天体からのメッセージの数々は美しく、徹底して情感を抑えた冷徹な文章はそれがゆえに却って新たな詩情を呼び起こす。ある年代のSF読みには懐かしい感覚でもあるだろう。読んでいてとても気分がいい。(銀林みのる氏のファンタジー『鉄塔武蔵野線』が好きな人にはわかると思うけど、高圧鉄塔の連なりの向こうには遥かなる銀河宇宙が広がっているのだ。暗闇に光る星々の輝きは、金属の骨格が支える湾曲した電線の延長線上の彼方に存在する。)
例を挙げればこんなのが好い。(「銀河の岸辺に降り注ぐ星たちへの〈悲歌〉」から抜粋)
加速度的に膨張する銀河の果てに
真っ黒な波動が打ち寄せてくる
未だ姿を見せぬなぞの惑星の
卵型を描く巨大な軌道の上に
遠く別の恒星系から渡ってきた
かすかな足あとが光っている

『メノン』プラトン 岩波文庫
テッタリアのメノンがアテナイのソクラテスのもとを訪れ、「徳は教えられうるか」という問いを投げかけたところから始まる一連の考察。ソクラテスは教えられる「知」とは異なり、正しい思わくとして神から与えられるものであると結論づける。かなり胡散臭い(笑)。いつものようにソクラテスは対話者をケムに巻きながら考察を進めて行くのだが、結論よりその過程が面白いのもまたいつものこと。なお本書においてソクラテス自身の興味は、「徳がどのようにして人に備わるか」ではなく「徳とは何であるか」にあり、そのことについて本書ではソクラテス自身による答は与えられない。当時のギリシア人がどう考えていたかは判るが。
この手の本で0注意しなければならないのは訳語の意味合いだろう。単純に「アレテー」の訳語である「徳」を日本における徳に置き換えてしまうと、肝心なところの意味を取り違えてしまう。古代ギリシアにおけるアレテーとは、本書の定義によれば「身分や年齢に合わせて分相応に生きること」であり、ギリシアの成人男性にとっては「直接民主制を通じて国政に参加する能力のこと」であったわけだから。
解説が面白かった。本書『メノン』はソクラテスの有名な「想起説」(≒不滅である人間の魂はこれまでの生で全ての知識を身につけており、「教える」とはそれを想起させることであるという考え)が、『パイドン』や『パイドロス』に先立って提示された本とのこと。想起があって初めて、善や美の本質が追究され得るものなのだとか。続きが読みたくなってきた。

『アンチクリストの誕生』レオ・ペルッツ ちくま文庫
〈幻想的歴史小説〉の名手による唯一の中短篇集がまさかの「文庫」で出た。短い掌編から長めの作品までバラエティに富んだ8篇が収録されていて、どの作品も長さに関係なくきちんとペルッツらしさを保ちつつ、しかもべらぼうに面白いのがすごい。しかも皆川博子氏による解説つきという豪華版だ。収録作では「霰弾亭」がなにしろ気に入った。『スウェーデンの騎士』が好きなので、ぐいぐい引き込まれる。もちろんどれも面白いのだが、特に好かったのは他に「主よ、われを憐れみたまえ」「月は笑う」「夜のない日」。表題作もユーモアがあってよかった。(ほとんどではないか/笑)

『太宰治の辞書』北村薫 創元推理文庫
「日常の謎」というミステリジャンルを切り開いた〈円紫さんと私〉のシリーズの十七年ぶりの続編。文庫化にあたり短篇「白い朝」と本篇の後日談を含む二つのエッセイと、米澤穂信氏の素晴らしい解説を新たに収録。(「白い朝」が収録されたのに、こんな意味があるとは知らなかった。)これは単行本を持っていても買う価値ありだと思う。たらたらと読んでいると、単行本で読んだときに芥川龍之介の「舞踏会」を読みたいと思って、そのまま忘れていたのを思い出した。そして結局「舞踏会」を読まず仕舞いになったのは、話が三島由紀夫のことに移って行ったからなんだと納得したり。まるでエッセイのように落語のようにするすると話が頭に入ってくるので、本が読めなくなったときにリハビリで読むのに良いかもしれない。
なにしろ円紫師匠と「私」が久しぶりに会うシーンが好い。このシリーズは何気ない日常の風景の中に「謎」を見つけ出す面白さが好きだったのだが、このシーンでもうひとつ大事なことを思い出した。円紫師匠と「私」の会話はいつも、年齢や性別や立場の違いを超え、敬して接する美しさに満ちているのだ。これが好い。

『日の名残り』カズオ・イシグロ ハヤカワepi文庫
「日の沈まない国」の落日の時代に名門カントリー・ハウスに仕えた執事が、過去を振り返りつつ行うドライブ旅行。今は亡き主人への尊敬と忠誠の思い出、そして自らの職業人としての品格と尊厳は、旅を通じ徐々に等身大のものへと変化する。アメリカの富豪へと売却された邸宅が象徴する古き良き時代の終焉。それと歳をとりミスをおかすようになった執事の姿は、まるで沈まんとする日差しの残滓にも似てどことなく物哀しい。しかし弱くなったとはいえまだ「名残り」はある。自らの現実を見つめることで更に前に進めるのだ。
それにしてもつらい話だよなあ。朴念仁が自らを朴念仁であることに気づいたときの惨めさ。それでも今さら取り戻せない過去にとらわれるのでなく、さらに前に進むために泣きながら歩んで行こうとする語り手。そこに待つのは平坦な道ではなく、日が沈むまで残された時間はあまりにも少ない……。文章自体はそこはかとなくユーモアも感じさせて、とても読み易い。初イシグロでした。(それにしてもこの執事はいったい誰に向かって語りかけているのか。)

『裏世界ピクニック2』宮澤伊織 ハヤカワ文庫
ネットに流布する実話怪談やフォークロアをモチーフにした異世界冒険物語の2作目。主人公たちの造作はラノベ風で自分にはあまり馴染みがないが、怪談ネタは迫真性があってぐいぐい読ませる。A&B・ストルガツキー『ストーカー』を思わせる異物も面白い。『裏世界ピクニック』の面白さは、子どもの頃にテレビで実写版の『悪魔くん』や『河童の三平』、一作目の『ゲゲゲの鬼太郎』を見ていた感覚に近いかも知れない。自分としては、面白い(怖い)ネットフォークロアのサンプルカタログみたいにして読んでいるところもある。続きに期待。

『七つの夜』J.L.ボルヘス 岩波文庫
劇場で行われた連続講演の講演集。ダンテの「神曲」や「千一夜物語」といったテキストから「カバラ」や「仏教」などの宗教・思想、そして「悪夢」に「詩」「盲目」と著者の幅広い興味の対象について縦横無尽に語られる。なにしろ創作より温かく解りやすい。どれも著者の博識と示唆が面白いのだが、特に好きなのは様々な夢の形態についての考察を行った「悪夢」や、「仏教」あたりか。(「仏教」ではちょっと怪しい知識もあるけど、概ね解りやすい説明。仏教は現世の苦しみを過去の業(カルマ)で説明しているのは面白い。とすれば、キリスト教は同じ苦しみを未来(死後)の平安に求めるのかもしれない。)
「千一夜物語」の「クロノロジー、歴史というものが存在します。しかしそれらは何よりもまず、西洋が発見したものなのです。ペルシア文学の歴史、インド哲学の歴史は存在しない。(中略)なぜなら人々は出来事の連続に興味を持たないからです」という説明には妙に感心してしまった。そうなのか。一夜ごとに話は変わっていくので全体を通してのまとまりは無いが、ラストの「盲目」はさすがにすごい。「盲目は(作者にとって)道具である」とはなかなか言えない言葉だ。ボルヘスは暗闇の中に自分のための巨大な知の迷宮を作り上げ、そして我らその闇を彷徨うのだ。

『ボルヘス怪奇譚集』J・L・ボルヘス/A・B・カサレス 晶文社
古今東西、様々な本からの断章を九十二篇集めて編んだ「短くて途方もない話」の集成。訳者は柳瀬尚紀氏。タルホのコントのような話からなんとも形容しようがない話まで色々。読んでいるうちに自分の居場所が判らなくなる。編者自身の創作ではなくあちこちからの引用なので、個々の文章は彼の作品よりも読みやすくはある。ただ不思議な掌編を繰り返し目にしているうちに蒙昧としてくるのは、いつものボルヘスの著作と同じ。良くも悪くもやはりボルヘスである。ミニバベルの図書館みたいだ。

『人間そっくり』安部公房 ハヤカワ文庫
初期安部公房の傑作中篇。何が嘘で何が真実か判らなくなるディック的な悪夢の世界が展開する。実はこのハヤカワ文庫版は40年ほど前、実家の近所の新刊書店で買ったものが落丁で読めなかったという曰く付きなのだ。(先日岐阜の古本市でめでたく再会してつい買ってしまった。)ちなみに前の落丁版は本屋に持っていったのだが、購入時に既に絶版で代わりの取り寄せが出来ず泣く泣く新潮文庫版と取り替えた。(ハヤカワ版には「鉛の卵」が併録されているが、新潮の方は表題作のみで損した気分になったことを憶えている。)やはり本作は深沢幸雄氏の印象的な装画で読みたかったので嬉しい。

『ケルト民話集』フィオナ・マクラウド ちくま文庫
19世紀末の民族独立運動「ケルティック・ルネサンス」の時代に活躍した作家による作品集。イオナの地に住む人々の「ケルト的な哀しみ」のいくばくかと彼らが背負う宿命を、ゲールの魔物たちの跋扈する昏く幻想的な物語で綴る。(実は本書で荒俣宏氏による訳者解説を読むまで、著者が男性だとはまったく知らなかった。フィオナ・マクラウドが「魔術名」って……。
収録作では「罪を喰う人」がいちばん気に入った。ここでいう「罪/Sin」とは随分と日本でいうところの「穢れ」に近いものだ。一度生まれたら誰かに移ることはあっても消えることはない。命をもってしか贖うことは出来ない。キリスト教的なモチーフだけど、もっと古い感じ。そもそも「罪」とは何なのだろうか。人が生きる上で周りに与えてしまうものが罪なら、人は罪を犯さずに生きることは出来ないのかもしれない。そして「罪を贖う」とはどういうことか、人が生きていくだけで自然に生じてしまうものを、また人が宥すことなど出来るのだろう。それができるのは神しかいないのではないのか。それとも、最も傷つきやすいものは最も神に近い存在なのだろうか。いろいろと考えが浮かぶのは、よい物語を読んだ証拠だろう。
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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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