『首無の如き祟るもの』 三津田信三 講談社文庫

 大正から昭和初期までの「ちょっと前の時代」を舞台にしたミステリは、金田一耕助シリーズ(横溝正史)、京極堂シリーズ(京極夏彦)、朱雀十五シリーズ(藤木稟)など、数えてみると案外と多い。本書もそのひとつで、刀城言耶(とうじょうげんや)という名前の探偵が登場する、ホラータッチのミステリのシリーズの1冊。シリーズといっても自分が読んだのはレビューで評判が高かった本作が初めてであり、他の作品がどんな風だか良く知らない。でもこれに限って言えば自分好みの話で面白かった。
 ざっくりと中身を紹介すると、首無しの怨霊にまつわる言い伝えの残る山村で、戦中・戦後の2回に渡り奇怪な連続殺人事件が起こるという話。死体は何故かどれも首を切断されていて、怨霊の言い伝えとの関連も暗示されるが、結局は迷宮入りとなってしまう。そして数十年の時を経て関係者も離散してしまった頃、ふとしたことから記憶の封印を解かれて…。
 「ホラー」と銘打っているだけあり、最後まで合理的な説明がなされないままとなる怪異も少しは登場するが、あくまでも作品の雰囲気作りのための小道具的な扱いで、全体のトーンはあくまでもミステリーが主体。雰囲気は「ホラー」というよりは「テラー」もしくは「サスペンス」に近いかも。
 最後はリドルストーリー(*)になっているので、「なるほど、そういうことだったのか」というカタルシスはそれほどない。余韻を残して終わる結末なので、モヤモヤした感じが好きかどうかという、読み手の好みによって評価が分かれるかも知れない。(ミステリ本篇の謎ときは決してアンフェアではないし、自分としては悪くないと思う。)

   *…話の中で示された謎にわざと結末をつけず、答えが無いままで終わる物語のこと。
     本書では殺人事件そのものには決着が付くが、さらに新しい謎を読者に示して
     物語が終わる。

 話題を少し変える。都筑道夫がエッセイの中で「なめくじ長屋(名探偵“砂絵の先生”が登場する本格推理の短篇シリーズ)」について、本格モノの舞台に江戸時代を選んだ理由を述べていた(**)。それによると「現代を舞台にすると、指紋照合など科学的な捜査を考慮しなければいけなくなる。不思議な事件の理由として神隠しなどが素直に信じられた時代を舞台にした方が、純粋にミステリの面白さだけを追求できる。」ということのようだ。一方で現在活躍中の作家に目を向けると、“嵐の山荘(お約束!)”に閉じ込められた状況でおこる殺人事件だとか、日常生活で起こるちょっと不思議な出来事の推理(=“日常の謎”という専門用語まである)だとか、設定に工夫を凝らして警察が介入しない(又は出来ない)舞台を何とかして拵えている。

  **…きちんと原文に当たるのが面倒で、うろ覚えで書いたから不正確。こんな感じの
     話だったなアという程度なので悪しからず。

 冒頭で述べたような作品群が大正から昭和初期に舞台をとってあるのも、最初は同じような理由なのかと思っていた。しかし読んでみるとどうやら違うようだ。朱雀シリーズは日本が右傾化を進めていくキナ臭い時代なのでちょっと毛色が違うかもしれないが、残りの金田一と京極堂、そして本書を含む刀城言耶シリーズはいずれも時代背景として戦後の混乱期を選んでいる。それらを読んでとりあえず思いついた理由は次の2つ。
  (1)世の中が落ち着く前で社会も混乱していて、突拍子もない事件が起きやすい。
  (2)多くの人が亡くなった激動の時代なので、事件の遠因になる出来事が発生しやすい。
 でも自分で書きながら「それだけじゃないな」という気もしている。「あの時代」を選んだことで、何とも言えない“味”が作品に生まれているのも事実だ。山田風太郎の『幻燈辻馬車』を始めとする「明治モノ」が傑作なのと同じで、維新や敗戦など国がひっくり返るほどの激動の時代なればこそ、物語の舞台としてある種の「魅力」を備えていると考えた方が良いのかも知れない。

 話が発散してしまった、本書に話題を戻そう。横溝作品との相違点について比較をしてみる。
日本ミステリ史上に燦然と輝く傑作『獄門島』とはじめとして、横溝正史の原作小説は岡山など古くからの因習が残る地域の風土をうまく作品に取り込みながらも、その中身は思いのほか現代の推理小説の骨格をしっかりと維持している。それに対して映画/テレビで「金田一もの」と称される一連の映像作品は、小説以上に土俗的且つおどろおどろしい雰囲気を前面に打ち出していて、(それはそれで評価はできるのだが、)原作とかなり違う物になってしまっている。本書はホラーミステリと銘打たれているように、探偵役がやたら民俗学に詳しいところなど(京極堂などと一部かぶりながらも)独自の世界を作り出していて、設定や舞台は横溝に近いものを使いながらも、作品全体の雰囲気は前述の「映像版の金田一もの」から受ける印象により近いといえるだろう。
 具体的にいえば、横溝の『獄門島』『悪魔の手毬唄』などの作品においては、地方の因習や言い伝えを使った見立て殺人が行われるが、登場人物は全員がその犯罪が「見立て」であることを自覚している。いわば近代的意識の持ち主が登場人物像であって、それを背景としてフェアな推理合戦が行われる。それに対して本作では、“因習そのもの”が陰惨な犯罪の発生原因と不可分であり、前近代的な意識が根強く残った世界といえる。
 
 金田一モノで原作(小説)と映像版のどちらが好きか?によって多少は好みが割れるかも知れないが、映像版が嫌いでない人なら読んでもおそらく損は無い作品だと思う。
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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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