『悪魔祓い』 ル・クレジオ 岩波文庫

 著者ル・クレジオは2008年にノーベル文学賞を受賞したフランスの文学者。本書は著者が1967年に中米のインディオ/エンペラ族・ワウナナ族の集落に滞在した経験から、得られた知見によって書いた散文型の文学作品。もともとは美術叢書の一冊として、原始美術について述べるように依頼されたもののようだ。そのためか、(一応は)美術的な題材を扱ってはいる。ただし実際には美術とは殆ど無関係で、中身はほぼ全編が西洋文明批判に終始している。
 原著の出版は1971年とのことなので、時代背景としてはベトナム戦争や公害によって従来の西洋文明の限界が叫ばれ始めていた頃。その反動としてフラワームーブメント(ヒッピー文化)が盛んになっていた時期にも重なっている。1920年に出版された『パパラギ(*)』が、ヨーロッパで再評価されたのもちょうど同時期なので、著者の狙いもほぼ同じと考えていいだろう。

   *…サモアの酋長ツイアビが西洋文明に触れて、文明に毒されていない目でその
     いびつさを指摘するというスタイルをとった本。「パパラギ」とはサモア語で
     「白い人」という意味。実話だとばかり思っていたが、どうやらドイツ人の
     エーリッヒ・シュールマンという人が書いたフィクションだったらしい。

 先程、『パパラギ』も本書『悪魔祓い』も狙いはほぼ同じと言ったが、アプローチの仕方についても両者は良く似ていて、第三世界の文化が西洋文明へのカウンターカルチャーとして利用されている点で共通している。『パパラギ』では焦点を当てる対象が南太平洋のサモアだったのに対して、本書では中南米のジャングルに住むインディオ部族を取り上げているが、いずれもたまたま著者が数年間滞在して衝撃を受けた場所ということらしい。
 視点ははっきりしている。「物質的には恵まれていても心が貧しい現代社会」vs「無垢で素晴らしい原始社会」という見方が貫かれており、『パパラギ』が第三世界の視点で西洋文明を見るのに対して、『悪魔祓い』では西洋の視点で第三世界を見ているところが違っているくらい。

 以上で本書についてはほぼ言い尽くした感があるのだが、内容についても一応軽く触れておこう。
 構成は全部で3つの章に分かれている。ただし著者の執筆目的は学術報告ではないので、あくまで大まかな括りとして考えるべきだろう。それぞれの章の中身を大雑把にまとめてみると、それぞれ「①見る/話すという行為」、「②歌う/話す/演奏するという行為」、「③絵や彫刻などの美術」などについて書かれている。学術的に正確な「客観的事実」の記述ではなく、ル・クレジオ本人がそれらに対して感じた主観的な印象が中心で、書き方はとても「文学的」。(文学者なんだから当り前か/笑。)
 それではル・クレジオはインディオの社会に具体的には何を見たのだろうか? それを一言でまとめてみると、「原始社会においては抽象思考には一切興味がなく、あるのは現実のみ」という事になる。「ロゴス」とか「ドクサ」とか、あれこれと抽象的なものに振り回されて不幸になるくらいなら、彼らの純真無垢な生活を見習いなさいヨと言っている訳。
 例えば西洋とインディオの文化が本書でそれぞれどのように対比されているかを並べてみると次のようになる。
    <西洋>         <インディオ>
      言語    ⇔    沈黙
    音楽・歌    ⇔    自然の音の模倣・呪文
   絵画・美術    ⇔    呪術・道具

 うーん、言わんとすることも良く分かるし、スタンス自体は決して悪くは無いと思うのだが、少し違う感じがするなあ。世界はそんなに単純にスパッと切れるものではないのに、問題を少し単純化し過ぎているのではないか?
 著者はインディオ達の思考深くに踏み込もうとはせず、あくまでもそれが自分に与える印象の記述に終始している。もとより厳密な事実描写を望むわけでもないし、文学者の仕事としては充分に「あり」だと思う。ただ、一番不満に思うのは、本書の中に当のインディオ達は不在だということ。著者が「先述の比較のように感じた」のは間違いないにしても、インディオ達は本当にその通りに考えていたのだろうか? 勝手に賛美をするのは良いけれど、それは誤解に基づいたものだったということは無いのだろうか?(喩えるなら、日本人が欧米人から「ZEN(禅)」という言葉を聞いた時に感じるのと同じ、何とも言えない座りの悪さとでも言えばよいかも知れない。)

 『パパラギ』を読んだ時にも少し感じたことだが、自分の「西洋人」という立場は変えないままに、単に自分の観点から西洋文明を相対化するための手段としてだけ、これらの異文化を解釈しているような気も...。もしそうだとしたら、それって少し西洋文化特有の傲慢さが出てやしないだろうか?
 口の悪い良い方をさせてもらえば、今福龍太の『クレオール主義』に出てきた、ニューギニアの原住民集落を回るパックツアーと何が違うのかという感じすらしてしまう。自分の世界観や価値観を壊すほどの衝撃を受けたのであれば、是非とも頑張ってその体験を共有できるように表現してもらいたいし、それが出来るのが文学者としての資質ではないだろうか。
 本書とレヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』を、細かい点に立ち入って比較しても、かなり面白そうなものが出来そうだが面倒なので(笑)やめておこう。でも「文化人類学者みたいな文学者」と「文学的な文化人類学者」の対決って、想像するとちょっとワクワクするなあ。
 『悲しき…』を読んだのはかなり昔のことなので、おぼろげな記憶を辿ってみると、両者の違いは記述の正確さ以外にも色々とあった気がする。それは文学者と文化人類学者という両者の立場の違いだけでなく、何かもっと根源的なところで...。(『悲しき熱帯』という題名には、西洋文明との接触によって失われていくものへの「レクイエム(鎮魂歌)」という意味合いもあったと思うんだけど、記憶があまり定かではない。)
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