『知覚の呪縛』 渡辺哲夫 ちくま学芸文庫

 何気なく読み始めたが、とんでもない「猛毒」を持った本だった。「猛毒」という表現がきつ過ぎるというなら「劇薬」でも良いが、どっちにしても脆弱な自己意識では一撃のもとに粉砕されそう。内省してしっかりと自分の基盤をもたない人が生半可な気持ちで臨むと「自分」を足元から掬われる、そんな感じ。精神病に関する本を読んだ時はいつも似たようが感触はあるものだが、今回はとくにそれが強く、盤石だと思っていた自分のすぐ足元の土台がこれほど脆弱なものだったのだということを、いやと言う程に思い知らされた。(読んだ者を精神的に不安定にさせるほど強烈な「毒」を持つ本は、もしかすると岸田秀の『ものぐさ精神分析』(中公文庫)以来かもしれない。ただしこちらの方が毒性ははるかに強い。)
 かつて「精神分裂病」と呼ばれていた病がある。(今では「統合失調症」と名を変えているが、呼び方を変えることにどれほどの意味があるかは不勉強なので分からない。)本書は10年間の長きに亘って、ある重篤患者の治療に向き合ってきた医師が書いた思索の記録である。患者本人の外面的な様子だけでなく、本人の内面的な苦しみにまで大きく踏み込んだ本書の内容は、当事者もしくは関係者の人にとって、とても“お気らく”などと言えるようなものでないことは充分に承知している。このような本を“面白い”といっては不謹慎とのそしりを受けそうだが、好奇心の赴くままに手に取った読書の記録と思ってご容赦頂きたい。むしろ深刻な問題であればこそ、一歩引いたところから見つめ直すという意味で、敢えて「気楽に」構える効用もあるのかも知れない、とでも思って頂ければ幸甚である。

 「生きている実感」がない。“生きがい”とかそんな高尚なものではなく、ただ普通に息をしたり歩いたり話したり、今この場に自分が居るというただそれだけの実感すらない。不幸にもそんな状態に陥ってしまった人が世の中には存在する。傍から見ていると支離滅裂な言動ばかりが目についてしまい、過去には動物並みの扱いしか受けられなかった人すらいた。著者は精神科の臨床医師として、長年このような病をもった人に接してきた人物である。その経験の中でもかなり重症なひとりの患者に対して真摯に向き合った結果、その人の奇矯な行動は決して本人の心が「壊れたり」、「分裂してしまった」わけではなく、本人なりのある「論理」に従ったものであることに気付いたという。
 治療法を探るためにその「論理」を追求する過程において、果たして普通の人が感じている“生”の実感とはいったい何なのか?という哲学的な問いにも、逃げることなく真正面から向き合うことになっていく。ここに吐露されているのはひとりの医師としての、「患者への誠実さ」に対する告白と言っても良い。
 自分は精神医学について詳しい知識を持っている訳でもないし、克明かつ圧倒的なリアリティをもって描写される本書に対しては、生半可な論評は差し控えるべきだろう。ここからは本書の内容を極力書いてある通りに(且つなるべく平易に)まとめられるよう努めたい。

 本書で取り上げられている患者は、イニシャルをとって仮に「Sさん」と呼ばれている女性である。正確には精神分裂病(統合失調症)の場合は自我が壊れてしまっているので、普通の意味で「Sさん」と呼べるような人格は存在しないというヘビーな話題がいきなり冒頭で語られるともに、「実存」に関する考察がしばらく続くが、今回の趣旨とは外れるのでここでは省くことにする。
 Sさんは一日じゅう同じ場所で円弧を描いてぐるぐる回りながら、ぶつぶつと呪文らしきことをつぶやいている。普通なら「精神病なのだから行動にちゃんとした意味はない」と考えて外面からの理解に留めることが、(自らの精神衛生上からも)妥当な判断だろう。しかし著者は敢えて患者の内面に踏み込むことで、患者と同じ位置に立って世界を理解しようとする。その結果見えてきたのは、患者の中に構築されている、「論理的な整合性がとれつつも平衡を逸している」精神世界だった。
 Sさんにとって、この世界は「現実」ではない。全てが偽物の「ワラ地球」であるという。「本当の世界(理想の世界)」から落っこちて「偽物の世界(今いる世界)」に閉じ込められてしまったSさんは、全てが偽物の「ワラ地球」で周りを「ワラ人間たち」に取り囲まれながら暮らしている(と感じている)。そして何とかして本当の世界である「オトチ(お土地?)」に“帰りたい”ともがき苦しんでいる。彼女が一日じゅうやっていた謎の行為は、実は自分の行動で「ワラ地球」を「オトチ」に変え、少しでも「オトチ」を増やそうとする彼女なりの(はかない)試みだったのだ。
 彼女の行動を観察したり本人との会話を通じて、デタラメどころか極めて整合性が取れた「論理」の存在に著者は気が付く。そして「ワラ地球」から脱出しようともがく彼女の行動は、さらに自分自身を追いこんでしまう「デッドエンド」に至ることに…。以下、(詳細は省くが)これらの考察が数章に亘って繰り広げられるさまは、まるでミステリを読んでいるような感さえあって知的興奮をさそうものであった。
 このまま放置しても病状が自然に改善していくことはあり得ない。そこで著者は治療の可能性を探るため、症状の原因となっている要素に深く分け入っていく。その結果行き着いたのは『①自我が肉体と同一化してしまう“肉体自我”とよばれる現象』と、『②自我の確立に必要不可欠な“他人”が存在していない荒廃した精神世界』の2つであった。
 ここは分かりにくいところなので言葉を少し補足する。
 普通の人は、思春期ごろに精神的な統合体である「自我」が確立する。それによって「自分」という存在や、自分の「肉体」を客観的に見つめることが可能になり、第2次性徴による劇的な変化を乗り切ることもできる訳だ。ところが(なぜだか原因は分からないが)ごく稀に「自我」が希薄になって力が弱まり、「肉体」と一体化してしまうことが起こる(らしい)。そうなると自我は外界にむき出しとなって自分を守ることができず、やがてバラバラに分裂して消滅していく。たぶんその間、本人にとっては生きながら体を引き裂かれるような苦しみが続くのだろう。
 本来なら「肉体」と独立した統合的な存在となるはずの「自我」。それは結局のところ周囲の人や環境との関係で培われるもので、いわゆる「他人」の存在を鏡(土台)として初めて確立されるものである。「自我」の力が弱まり「肉体」に癒着していくということは、すなわち「自我」の確立に不可欠な「他人」の認識に不都合が生じていると考えられる。自力で何の助けもなく「自我」に成るのは人間には不可能なことであり、それが出来るのは「神」に他ならない。(*)

   *…もしくは他人が存在しないままに自我を作り上げたのは「狂った神」なのだろうか?
     (神学的な話題になると収拾がつかなくなるのでこれくらいで止めておこう。)

 著者はこれらの考察に基づいて、Sさんの治療のために、全てが偽物の「ワラ地球」において唯一の、確固たる「他人」になろうと決意する。その結果、彼女の治療が成功したかどうかは、何をもって「治癒(寛解?)」と見なすかにも依るので何とも言えないが、少なくとも生きていく上でのいわれなき苦しみは和らいだようではある。

 「実存」でも「現象学」でも「力への意思」でもどんな呼び方でも良いが、結局のところは冒頭にも書いたように「生の実感」こそが一番重要ということ。哲学・思想も精神医学・心理学も、全てはそのための手段であればこそ重要なのだと思う。そしてその先に現れてくるのは、「倫理」という言葉で表されるものであるような気がしてならない。(話が抽象的で分かりにくいものになってしまった。)

<追記>
 根拠があるわけではなく単なる直観ではあるが「環境」とか「福祉」、そして「ユニバーサルデザイン」とかいうものを突き詰めた先にあるのも、同じく「倫理」の世界ではないだろうか。
 もしそれが正しいとすれば、そこで必要になるのは絶対的/数値的な基準なんていうものではなくて、きっと我々ひとりひとりの個人的な内省であるはず。表面だけを軽く触る程度ならともかく、中途半端な覚悟で深く入り込むときっと大火傷することになるだろう。しかし行政やメーカーという大きな組織の歯車である自分は、はたして納得できるような成果を出すことが出来るのだろうか? そして自分たちはどこまで意識を高く持てるのだろうか? ―まあ頑張るしかないんだけど。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

最新記事
カテゴリ
プロフィール

舞狂小鬼

Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

最新トラックバック
FC2カウンター
最新コメント
リンク
月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR