『言語・思考・現実』 B・L・ウォーフ 講談社学術文庫

 おそらく言語学の分野において最も早い時期に、『言語は単に思考を伝えるための道具ではなく、言語こそが思考を形作る器である』ということを示した言語学者による、7つの文章を集めた本。
 例えば「エスキモーには雪の種類を説明するための単語が何十個も存在する」という話を聞いたことがあるかもしれない。それだけの単語があるということは、彼らがそれだけの雪の状態を判別できるということでもある。訳者の説明によれば、このことに初めて言及したのがウォーフの論文ということらしい。本書には研究論文の他、専門誌の為に書いたエッセイなどの文章が収録されている。更に原著(注:この本はウォーフ全集の抜粋)の編者による(非常に長い)評伝/解説も収録されていて、彼の業績に初めて触れる人間にとっては大変ありがたい一冊になっている。
 で、さっそく中身についてだが、実を言えば本書の面白さは個々の論文で述べられる実例の細部にこそあるため、要約するのはとても難しい。それでも無理を承知で、興味深かったものについて何とかまとめてみよう。

 ネイティブ・アメリカンにはホーピ族という種族がいる。彼らの言語にはなんと「時制」を表現する品詞が存在しないらしい。それではどうやって過去や未来のことを話題にするのだろうと思ったら・・・何とホーピ族には「過去」や「未来」という概念そのものが存在しない(!)というのだ。(しかもそれでいて論理的な整合性は成り立っているとのこと。)
 それでは代わりにあるのは何か?というと、それは「顕現されつつある」という尺度なのだという。なんだか良く分からないが、要するに話者自身が実際に体験したか体験していないか?という「体験の強度」のようなものらしい。『顕現度が強い』すなわち実体験(≒主観)に近いほど我々の「現在」という概念に近く、『顕現度が弱い』すなわち伝聞(≒客観)の要素が強くなるほど、我々で言う「過去」の概念に近くなる。したがって彼らにとっては、遠い街でおこった出来事は自分との関わりが薄いという点で、過去の出来事と同じ扱いになるのだ。
 また“朝~夜”や“春夏秋冬”という「ある期間のひと区切り」についても感覚が違う。ひとつのサイクル(一日、一年など)が終わり新しいサイクルの始まりに際して、彼らは我々のように「次の“新しい時間“が始まる」とは考えない。ひとつの全く同じ「時(一日、一年など)」が、繰り返して何度も訪れるというイメージであるらしい。(それでは彼らの思考からは「進化」という概念は生まれようがないということか??)
 以上、やはり完璧に要約するのは到底無理だが、雰囲気くらいは伝えることが出来ただろうか?

 本書を読んでいて、ひとつだけ残念だったことがある。ウォーフは現地語(ホーピ語、ヌートカ語など)から多くの実例を取り上げ、動詞や名詞といった品詞のレベルで現地語と英語を比較検証している。その論旨は非常に明快で説得力があるのだが、如何せん自分にとっては取り上げられたどの言語も、母国語(日本語)ではないのでいまいちピンとこないのだ。自分にとっては馴染みが薄い英語と、馴染みが“薄い”どころか今まで全く聞いたことすらないホーピ語やヌートカ語を比較されても、分かりづらいこと甚だしい。(笑)
 単語の持つ細かなニュアンスの違いが直観的に理解できないため、本文のロジックを追うのが精いっぱいで、「そうか!」と膝を打つような感じにはなれないのが本書を読んでいてじれったい部分。(その意味では決して読みやすい本ではない。)

 余談になるが、本書を読んでいるうちに中学時代のことを想い出した。ある日、英語の授業で未来形(Will be…)を習ったときのこと、日本語で未来を指し示すときは純粋に「現在から先の時間に」という意味合いが強いが、英語の“Will”には、「○○する(つもり)」という話し手の「意思」が含まれるという説明を聞いた。その時、英語の「未来」という概念に少し違和感を覚えたのだが、それがヨーロッパ社会において“人の自由意思”による未来の選択とか、彼らの歴史感には“過去からの進歩”を意識する傾向があるという事実とつながったのは、だいぶ大人になってからのことである。

 話を戻そう。繰り返しになるが「言葉(=単語、構文、文法etc.)」がないということは、すなわちその概念自体が思考として存在しないということである。違う言語を使う者の間では、そもそも思考形態、つまり世界の捉え方自体が異なっていることになる。例えば西洋哲学で「実体」の有無が問題になるのは、たまたま印欧語において文中のある位置を満たすために「実詞」が必要だったからだけなのかもしれない。また物理学で「力」があるとされているのは、印欧語では文中のある場所を満たすのに単に「動詞」が必要だった為なのかもしれない。(以上の例は本書からの引用。)
 この考え方は、世界を理解する知の枠組みがひとつではない可能性を示していると言える。
 もしもその仮定が正しいとすれば、文章に必ずしも主語を必要としない日本語と、文を成り立たせるために主語が必須の印欧語の間においても、ホーピ族と英語の関係と同じことが言えるだろう。日本語の「主語と文の主体は別物」という特徴が、独特な日本文化を形成する礎になっていて、やはり日本語でないと日本的な思考は無理ということなのだろうか? もしかしたら“無常”や“うつろい”といった世界観は、印欧語との言語的な相違によって生み出されたものなのかもしれない…などと考えるとちょっと面白い。(もちろん中国語や韓国語でも同じことが言える。)
 日本語は母音の数が少なく、しかも子音が単独では存在しないなど、世界的にみても音韻数が少ない言語であり、同音異義語が多くなる。そのため漢字を併用して視覚的に区別しないと単語の正確な意味がイメージできない、つまり世界でも珍しい「視覚優先」の言語であるという話を聞いたことがある。もしもそれが本当ならば、国語審議会などが述べる「読めるけど書けない漢字は意味がないので、当用漢字から無くして漢字の数を減らせ」だの、「パソコン時代に漢字などという時代遅れのものを使うのは止めて、全てひらがなにせよ」といった意見は、おそらく日本人の拠りどころを根柢から崩していく暴挙ということになりはしないだろうか。

 本居宣長は『古事記伝』(読んでない^_^;)において、日本古来の良き価値観である「やまとごころ」を取り戻すためには、漢字など「からごころ(漢意)」に毒された言葉を使っていては駄目だと主張した。その実践として『古事記伝』自体もすべて古くから伝わる「やまとことば」のみを使って記述したという。彼の主張が正しいかどうかはさておいて、言語が思考を規定するという考えに立てば、(本居の立場からすれば)極めて正しい対処の仕方だったといえる。比較言語学による知識もない時代に、直観でそれを見抜いたとすれば本居宣長まさにおそるべし。
 また更に時代を遡ると、仏教界のスーパースター空海も本居宣長と同様に、言葉の中にあるパワー/「言霊(ことだま)」に気付いていた。「マントラ(真言)」を日本密教の教えの根本におき、言語論である『吽字義(うんじぎ)』(これも読んでない^_^;;)などを記したのは周知の通り。
 日本は明治になって西洋から様々な技術/制度と同時に、様々な新しい言葉も導入してきた。それまで日本語に無かった概念を表現するために、従来の言葉を違う意味に転用したり、もしくは(やむなく)新しい単語を造りだすことも多かった。しかしそれによって明治以降の日本人の思考は、もはや近代以前に遡れないほど決定的な影響を受けたのだろう。今では、わずか150年ばかり前の江戸時代のことすら、外面的な知識はともかく人々の心について想像すら出来なくなってしまっている。
 話はとぶが、萌黄(もえぎ)色や浅葱(あさぎ)色など日本の「伝統色」と言われる色の種類は、なんと450色を軽く超えてしまうらしい。エスキモーと雪の喩えではないが、過去の日本人はこれだけの微妙な色の違いを見分けていたということだろう。過去の日本人が今の我々とは全く違う目で世界を見ていたのかとおもうと、不思議な気分になってくる。

 「人間の思考の形態というのは本人の意識していない絶対的なパターンの法則により支配されている」―これは本書の中に書いてあった文章の一部抜粋だが、普段何気なく使っている言語の裏側にも、気付かれないままに存在している複雑な体系があるというのを知ったのは、本書を読むことで得られた収穫だった。

<追記> 注)以下、一部の小説のネタバレがあります。
 アメリカ人作家のサミュエル・R・ディレーニイが1966年に発表した『バベル-17』という小説がある。
 題名になっている「バベル-17」とはその中に出てくる人工の言語の名前。その言語を使って思考すると、通常とは比べ物にならない程の高速思考ができる代わり、習得した者の精神に異常をきたしてしまうという「言語兵器」という設定である。
 また川又千秋の小説『幻詩狩り』には「時の黄金」という詩が出てくる。これは読んだ者を「異界」へと誘い失踪させてしまう禁断の詩篇である。物語中の描写は言葉による現実の変容を描いて秀逸。
 BBCの伝説的なバラエティ番組『モンティパイソン』の中にも、「必殺ギャグ」という(一部で?)有名なネタがある。売れないコント作家が偶然に作り出してしまったギャグで、それを読んだ者はあまりの面白さに悶絶してそのまま死んでしまうという恐ろしい(笑)もの。このギャグはやがて第2次大戦で連合軍によって兵器に転用され、ばらまかれた紙きれに書かれているギャグを目にしたものは…というものである。
 これら3つの話で共通するのは、いずれも「言語は思考を伝えるための単なる道具ではなく、言語こそが思考を形作る器である」というアイデアが根底にあって初めて成り立つ話という点だろう。以上、どうでもいい話ではあるが、面白いモノの見方のヒントをもらった気がして、本書の読了後も暫くの間、とめどなく妄想は広がり続けた。(笑)
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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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