『クラッシュ』 J・G・バラード 創元SF文庫

 最初に断わっておくが、今回のテーマは『バラード作品を“景観”というキーワードで切る』である。したがってバラードを読んでいるのが前提で書かれているところもあるため、読んでいない人には分かりにくい点があると思う。予めご承知置き頂きたい。
(と威勢よく啖呵を切ってはみたものの、果たしてうまく切れてくれるかどうか?)

 オギュスタン・ベルクのひそみに倣って「空間」が内包する概念を整理すると、次の3つに分類できる。
  1)精神的な領域(心理・言語など)
  2)社会的な領域(社会的な活動や組織など)
  3)物質的な領域(光景・景観など)
 またエドワード・レルフに倣えば次の3つの要素として捉えることもできる。
  a)物質的要素(自然や都市の景観)
  b)そこで行われる人間の活動(外面的な行動など)
  c)ある人にとって上記の2つの要素が持つ意味/象徴(内面的なもの)
 いずれにしても「空間」ないし「景観」という概念を、物理的側面と個人の精神的側面、そして集団による社会的側面という3つの観点から捉えることができそうである。今回バラードの諸作品を「切る」にあたっては、このあたりを手掛かりにして考えてみたい。

 作者のバラードは『クラッシュ』の序文において、「テクノロジカル・ランドスケープ」という言葉を用いて、本作品における新しい文学的な取り組みについて説明している。(最近では「テクノスケープ(産業景観・人工景観)」という言葉も広まっているようだが。)
 「テクノロジカル…」と「テクノ…」のどちらの言葉を用いるにせよ、それが意味するのは、「自然には存在せず人間の技術によって初めて生み出された景観」ということだろう。バラードは1962年に発表したエッセイ「内宇宙への道はどれか?」において、SFという小説ジャンルが今後探求すべきは「外宇宙(アウタースペース)」ではなくて「内宇宙(インナースペース)」だと主張し、ニューウェーブ運動の開始を高らかに宣言した。そして「内宇宙」とは「“外的世界(=現実)”と“内的世界(=人間精神)”が出会い融合する場」であると定義した。これはすなわちベルクやエルフにおける「空間」ないし「景観」とほぼ同義であるといえるだろう。
 人間の技術によって、地球上で未だかつて誰も経験したことのない人工の景観が出現したとき、人間の精神はそれをどのように受容し、どのような変貌を遂げるのか? これが当初からバラードが一貫して追求したテーマではなかったろうか。

 彼のデビュー作である短篇「プリマ・ベラドンナ」は、砂漠にある架空のリゾート地“ヴァーミリオン・サンズ”を舞台にしており、やがてその他の作品とともに作品集『ヴァーミリオン・サンズ』(ハヤカワ文庫)としてまとめられた。(*) その収録作である2つの短篇「スクリーンゲーム」と「ステラヴィスタの千の夢」において、早くも「景観と精神の関係」が取り上げられており、後の彼の作品で花開くテーマの萌芽がみられる。

   *…『ヴァーミリオン・サンズ』収録作:
     「コーラルDの雲の彫刻師」「プリマ・ベラドンナ」「スクリーンゲーム」
     「歌う彫刻」「希望の海、復讐の帆」「ヴィーナスはほほえむ」
     「風にさよならをいおう」「スターズのスタジオ5号」「ステラヴィスタの千の夢」

 やがてバラードの人気は“破滅3部作”(『沈んだ世界』『燃える世界』『結晶世界』)において一気に爆発する。これらは破滅的な自然環境が訪れた未来の地球を舞台に、極限状況における人間心理を描いた作品ではあるが、「景観と精神の関係」の考察については若干後退しているようだ。主人公たちの「アイデンティティ(=自我)」が外的世界(環境)とどのような関係を持つか?というより、それらの境界が徐々に溶けて曖昧になっており、先述の「“外的世界”と“内的世界”が出会い融合する」という点を忠実に描こうとしているように思える。

 しかし続いて発表された“テクノロジー3部作”(『クラッシュ』『コンクリートの島』『ハイ・ライズ』)では、自然環境から人工的な景観に対する関心が一気に花開く。前の“破滅3部作”と最も違っているのは、前3作がいずれも人間による制御が効かない自然環境だったのに対して、本3作の舞台は人間が自らの力で周囲に働きかけて作り上げる人工的な「空間」であるということ。
 先述したようにベルクやレルフらの知見によれば、「空間」とは物理的なもの以外に精神的空間、社会的空間という3つの意味が重ねあって構成される。人の心と環境が出会う場こそが「空間」であり、そこでの相互作用を通じて、人は自らが好む景観を作り上げると同時にそこに住まうことで、集団に独自の精神文化が作られていく。そして当時新しく出現したハイウェイや超高層ビルという物理的空間の存在が、精神的空間にどのような影響を与えることになるか?について、思索を繰り広げる。
 再度くりかえすが、バラードがマニフェスト「内宇宙への道はどれか?」で提唱した「内宇宙」とは、すなわちここで言う「空間」に他ならない。とすればバラードを読み解くカギは、まさしく彼が62年に掲げた初期エッセイにおいて、すでに示されていたのだ。

 『クラッシュ』の詳しい話に移る前に、もう少し“テクノロジー3部作”の他の作品について触れておこう。
 3部作の1冊目『クラッシュ』が発表されたのは1973年。そして翌年に発表されたのが『コンクリートの島(コンクリート・アイランド)』(NW-SF社⇒太田出版)である。本作では新たな人工景観として、高速道路の高架が作り出すエアポケットのような空間が示される。主人公は事故によりその奇妙な空間に落ち込んでしまい、ケガで脱出できずにいるうちに精神の変容を遂げていく。まるで安部公房の『砂の女』を連想させるようなシチュエーションである。本作では『クラッシュ』よりも物理的な景観に焦点が当てられているが、この新しい景観が何を意味するのか登場人物にも(そして読者にも)充分に認識されているとは言い難い。いわば新しい空間が持つ新しい価値の「予感」に満ちたものといえよう。
 次いで1975年に発表されたのが、3部作の最後を飾る『ハイ・ライズ』(ハヤカワ文庫)である。ここに登場する景観は「超高層のアパート群」である。“超高層”という空間は住民たちの深層心理を徐々にむき出しにして、やがてアパートの中に神話的な世界が出現していく。この『ハイ・ライズ』において人工景観の影響は個人意識のレベルから集団意識へと、つまり人類に共通する普遍的モデルへと拡張され、「景観と精神の関係」を巡る考察はひとまず完了する。
 ちなみにその後の作品においてバラードの関心は「精神的空間」から「社会的空間」に移っていったようである。『殺す』『コカインナイト』『スーパー・カンヌ』などといった後期の長篇群は、その文脈で捉えると分かりやすいと思う。

 それではいよいよ『クラッシュ』における人工景観について詳しく述べる。
本書はテクノロジー3部作の1作目でもあり、他のバラード作品に比べて「景観と精神の関係」を示すモチーフが、一番はっきりした形で提示されている。(この後の作品においてはモチーフが様々に姿を変えて再演されることになる。)
 作者による序文によれば、本書は自動車事故をテーマに書かれた“ポルノグラフィ”であるという。たしかに書いてある内容を見れば、自動車事故に憑かれたヴォーンという男と、それに翻弄されつつも惹かれる主人公(これも男)たちによるセックス描写のオンパレードである。これを今までの流れで捉えるとすれば、以下のようになるだろう。
  a)物質的要素=高速道路(ハイウェィ)、空港
  b)社会的要素=自動車による高速移動と事故による一瞬の破滅、飛行機による飛行体験
  c)精神的要素=肉体と機械の暴力的な結合と性的な象徴
 すなわち高速道路や空港と言った巨大な人工物が作る景観だけでなく、ヴォーンが幻視する様々な交通事故死のバリエーションもまた、人工の景観を構成する要素なのである。基本のモチーフは高速道路と自動車(高速移動)であるが、他にも空港や飛行機(飛行)といった、後のバラード作品で繰り返されるシンボルも本作において(一部ではあるが)既に登場している。ヴォーンはバイク事故をおこしたことで“新しい景観”による洗礼を受け、もう2度と日常的な世界に戻れなくなってしまった者である。最終的には自動車事故による破滅/昇天を迎えることでしか、彼には救いの道は無い。(**)
 ラストでは道路から空中へと自動車ごとダイブすることで、「高速移動」と「飛行」という2つの体験(シンボル)が融合されるとともに、ヴォーンの個人的体験が見事に昇華され精神(内宇宙)と現実(外宇宙)の合一が達成されることになる。事故を追い求めるその姿は崇高にも見え、自動車事故がまるで「ヌミノーゼ体験」であるかのような錯覚さえ覚える。ここに至ってついに、新しい景観における啓示は宗教体験と等しくなっている。

  **…バラードの作品においては、これらの新しい景観により出現した「精神的な価値」
     に囚われてしまった者たちが、トリックスターのように入れ替わり立ち替わり
     主人公の前に現れて、“地獄めぐり”の案内役を務めるのが典型的なパターンに
     なっている。

 最後に少し補足を。
 テクノロジー(技術)とは、今までなかった人工物を作り出す手段であり、その結果が新しい景観の出現であることは繰り返し述べた。本作ではその象徴として高速道路や自動車事故が用いられている訳だが、作中では他にもレザージャケットやビニールシートなど当時の新素材が「人工」を象徴するものとして、補完的に使われ効果を挙げている。また、ダッシュボード/ラジエータ・グリル/ギア/ハンドル/計器パネルなどの自動車パーツも同様である。これらの「人工物」によって事故の際に被害者の胸や足などに刻印された痕に関する描写が執拗に繰り返されるが、これらは新たな時代の到来をしめすスティグマ(聖痕)として扱われているようである。

 以上、『バラード作品を“景観”というキーワードで切る』という試みにトライしてみたが、果たして上手く切れただろうか? 本当はバラードをきちんと読み解くためには、諸作品に通底するもう一つの重要なキーワード「パラノイア」についても考えないといけないのだが、これはまたいつか別の機会に。

<追記>
 先述のように『クラッシュ』の発表は1973年であるが、その元になった短篇「衝突!」(工作舎刊『残虐行為展覧会』に収録)は更に早くて1968年に発表されている。イーフー・トゥアンやエドワード・レルフ、オギュスタン・ベルクらによって地理学に「空間」「場所」といった新しい風が吹いたのは70年代半ばから後半である。(たとえば『トポフィリア』の刊行は1974年、『場所の現象学』は1977年。)
 そうであれば、これらの概念が同時発生的に起こったのでない限り、バラードは「景観」から「精神」へと至るアプローチを彼らに先駆けて独自に考え出したことになる。それが本当ならまさに「予言者」バラードの面目躍如といったところだろう。
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