『知恵の樹』 H.マトゥラーナ/F.バレーラ ちくま学芸文庫

 自然科学の分野で有名な「オートポイエーシス(自己創出)理論」が初めて披露された本。
 こう書くと小難しいことが書いてあるように思えるかもしれないが、実際には和訳の文体もとっつき易くて決して難しいものではない。(ただし原文の意味を移しかえることは出来ても、日本語の文としてどうかと言われれば、答えを躊躇せざるを得ないのが辛いところではある。/笑) 文体や内容も含めて、良い意味でも悪い意味でもかなり刺激的で面白い本だった。
 一般の学術書とあまりに雰囲気が違うので訳者あとがきを読んだところ、元は“ネオアカデミズム”がブーム全盛だった80~90年代にかけて一世を風靡した朝日出版社から出ていた本だということが判明した。道理でいかにも朝日出版社らしい軽さと難しさが混在している。言われてみれば妙に軽い訳文の文体も、当時流行った「スキゾ」「越境」「逃走」といった言葉をいかにも彷彿とさせるもので納得。好きだなあ、こういうの。(笑)

 話を戻そう。自然科学、とりわけ生命に関する分野では、ドーキンスで有名になった「利己的遺伝子理論」やラブロックによる「ガイア理論」などのように、証明は出来ないけれど世界を理解する上で重要な考え方というのが幾つか存在する。本書でマラトゥーナとバレーラにより初めて提唱された「オートポイエーシス(自己創出)理論」もそのひとつである。(これらは自然科学のルールに則って実験で検証できるものではない。したがって「仮説」と呼ばれることもあるが、検証は永久に不可能なので、むしろ「科学哲学」と言うべきなのかも。)

 それでは「オートポイエーシス(自己創出)」とは何だろうか? それを説明するには、彼らが何のためにこの理論を考えたのか?から始めるのが早い。すなわち『オートポイエーシスは何をするために考え出された概念か?』ということ。
 ひとことで言ってしまえば、それは『生物と無生物の違いを特徴づけるものは何か?』である。だからこそ前に福岡伸二の『生物と無生物のあいだ』という本が話題になった時に、「オートポイエーシス理論の単なる焼き直しじゃないか」という批判があったのだと思う。(でもそんなことを言っているヒマがあったら、本書と『生物と無生物…』を読み比べて、両者の違いを沢山見つける方がよほど建設的で面白いと思うのだけどなあ。) 
 ―と言いながら当の本を探してみると、とっくに売り払ってしまっていた。(笑) でもそれならそれで仕方ない、なんせ“お気らく読書”なんだから。また読みたくなったら古本屋で買ってくるだけのことだし。
 というわけで、うろ覚えなのでちょっと自信はないが、確か福岡は“動的平衡”というキーワードを使って、生命システムが自律的に自己保持する様子を説明していたように思う。さっきのような文句を言っている人は、その動的平衡と自律性(オートポイエーシスを構成する一部のアイデア)が同じ概念だと言いたいのだと思うが、本書で最初に著者らがはっきりと述べているように自律性自体は生物に限った話ではない。また動的平衡の話題はあくまで『生物と無生物…』の一部に過ぎないのであって、福岡が言わんとする趣旨は本書の目的とは違っている気がする。

 閑話休題。(なんだか今回はいつもに増して脱線が多い気がする。)
 オートポイエーシスは生物と無生物の間の線引きをするために考え出された概念であって、
その特徴をすごく乱暴にまとめるとつぎのようになる。
  a)自分と同じ組織を自分自身で作り出し続けることができる
  b)自分の周りの環境との相互作用を通じて、自分自身と環境を変化させることで
    最適化を行う
 少し分かりにくいので補足すると、a)は生物が“工場の工業製品”だとすれば“工作機械”にあたるものは存在せず、製品自身が他の製品をつくるということ。b)は環境が変われば死なないように工夫をするし、逆に自分にとって都合のいいように環境にも働きかけをするということ。「アフォーダンス」にもちょっと似ているが、「環境が生物に対して与える」ばかりの関係でなく、相互というところがミソ。
これら2つの特徴をもつ有機的な組織体こそがすなわち生物である、というのが「オートポイエーシス理論」の骨子になっている。
 もっともここまで端的に言い切ってしまうと、知能研究における「チューリングテスト(*)」のようになってしまうなあ。他にも(以前ニュースにもなったように、)部品を組み立てて自分の複製を作るロボットならどうか?とか、レムの『砂漠の惑星』にでてきた小片の集合体による“機械生命”はどうか?とか、この定義を掻い潜ろうとする質問が新たに出てきそうだけど、話が発散しすぎるので今回は取り敢えず触れずにおく。

    *…アラン・チューリングによって提唱された検証法。対象物が単なる「オートマトン
      (自動人形)」なのか、それとも真に「知性」を持っているのか(=思考している
      のかどうか)を客観的に判定するためのテスト方式。

 本書の前半までは生物学に関してごく当たり前のことが書いてあって、それを上記のa)b)の定義で読み替えていく作業が延々つづく。具体的には次のような流れである。
  ・第2章:単細胞の生命維持
  ・第3章:細胞の増殖(単細胞生物であれば“生殖”)
  ・第4章:多細胞生物の生命維持(単細胞の相互作用)
       /複数の生物同士のやりとり(メタ細胞体の相互作用)
  ・第5章:“種”の成立
 先述のa)b)2つの定義がミクロ(=細胞レベル)な生命維持に対して成り立つのは充分理解できるとして、著者らのアイデアの凄いところはそれをもっと高次な段階まで適用したこと。上記の流れを見れば、章を追うごとに徐々にこのルールが適用される規模が大きくなっているのが分かると思う。
 定義の適用範囲を“種”のレベルまでもっていくのも大した力技だと思うが、実は本書の凄さは第6章から始まる後半部分にある。著者らはこの概念の適用範囲をさらに高次のレベルまで拡大していくのだ。そしてこの考えひとつで「生物の社会行動」から「精神活動(言語)」の発生まで全て説明しようという壮大なチャレンジを行っていく。新たな章の冒頭では「いくらなんでもそれは無茶だろう!」というテーマが出るが、最後には彼らの理屈に何となく納得してその章を読み終える。次の章に進むと更にステージが上がった難問へのチャレンジが待っているという段取りである。
 そしてラストの第10章に至り、ついに「倫理観の発生」を説明するところまで達してしまう。
「細胞はなぜ生きているのか」から「なぜ人を殺してはいけないか?」まで論理的に証明できる「オートポイエーシス理論」まさに恐るべし。(笑)
 音楽に喩えるならば、同じ旋律が繰り返されるたびに徐々に盛り上がっていくその様子は、まるでラベルのボレロを聴いているよう。

 ところで表題の「知恵の樹」とは、旧約聖書でアダムとイブが楽園から追放される原因となった樹のこと。一口食べれば知恵が身に付き、もう二度と元の幸福な状態には戻れないという意味で、著者らが本書の内容ををなぞらえて付けた名前である。本書で述べられていることは確かに凄いとは思うが、でもそんなに大袈裟にいう程のもんじゃないと思う。(笑)
 我々の思想に影響を与えるほどのパラダイム転換が発生する場合、通常は「世界が現在成り立っている仕組み(=How)」に関するものが多い。だからこそ世界の仕組みがひっくり返るほどの衝撃を受けるのだ。しかし本書でマトゥラーナたちが述べているのは、「世界の仕組みが過去になぜどうやって出来上がってきたか(=Why)」である。それがわかったとしても結局のところ(第10章の倫理以外は)現実の生活の在り方に直接影響するものではないと思う。そして倫理についてはわざわざオートポイエーシス理論に頼らなくても、星の数ほどの哲学思想が過去から思索を繰り広げているというわけだ。
 大言壮語ぎみなところはちょっと『ドン・キホーテ』を連想してしまうところもあるが、本書の主張自体はとても大事なことだと思う。著者たちがもつ型破りなスタイルと愛すべきキャラは、もしかしたらチリ出身ということでラテン気質にも関係があるのかも知れない?

<追記>
 オートポイエーシス理論の中には「相互作用」という考え方がある。ここからは「情報」の概念について次のような重要な考えが導き出されるが、本書の目的ではないので軽く触れられているだけ。もったいないのでメモしておく。
  ・コミュニケーションによって受け渡しされる「情報」という客観的な存在はない。
  ・2つのカップリング(≒生物)間において、互いの構造(自己組織)を相互作用によって
   最適化しているだけ。
  ・相互作用は原理上どうしても撹乱を伴うので、コミュニケーションには常に曖昧さが
   付きまとう。
  ・テキスト(コミュニケーションの相手や世界)を「誤読」する可能性も発生する。

 ―このあたりの論理の運び方はまるで現象学の本を読んでいるかのようだった。
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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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