『フロイト思想を読む』 竹田青嗣/山竹伸二 NHKブックス

 本書は竹田青嗣/山竹伸二のコンビによる、現象学の立場からみたフロイト思想の総決算である。書店で見かけたときには正直いって「いまさらフロイトなんて」という気がしていたのだが、今までも竹田には『プラトン入門』などで良い意味で驚かされたので、ここはひとつ竹田を信じて(笑)素直な気持ちで読んでみた。
 序章で著者自らも書いているように、人間の本質を何でもかんでも「性的欲望」に求める点については、やはり今の目から見るとフロイトは時代遅れの感が否めない。このように彼が主張した理論について、納得できなかったり的外れなところは時代とともに淘汰されていくのもある意味やむを得ないだろう。しかしそのアイデアの中には、エッセンスを一般化/昇華することで、今後も充分に通用する重要な思想と成り得るものが存在するため、それらが時代遅れの部分と一緒になって消えていくのは忍びないという、著者らの主張には素直に賛同することができた。

 考察の大きな流れとしては、フロイトの著作を年代順に眺めて、述べられている思想/仮説を現代の視点で検証する方法が採られている。その結果「古い」とされている部分としては、人間の心的エネルギーの本質を(一部ではなく)全て「性的欲望」に起因するとしてしまう点や、精神病や神経症が発症する原因を幼児期に刷り込まれた「道徳」と「性的欲望」の葛藤(だけ)に求めている点などが挙げられている。またフロイトが『自然科学と同様の手法によって(いつかは)自説の「正しさ」が客観的に検証される』と考えた点については、竹田らは『社会科学や人文科学については、確からしさを客観的に検証するのは原理的に不可能』と結論付けている。

 それでは逆にフロイト思想の「良いところ」とは何か?
 それは著者らによれば、人間の意思決定に作用する「無意識」という概念を初めて提唱した点であるという。そしてそれこそが「認識の限界」という、まさに現代思想にも通じる命題のさきがけとなったのだとも。またフロイトが主張する「道徳」と「性的欲望」の葛藤は少し言い過ぎにしても、心の中で色々な欲求がぶつかりあって葛藤することは誰にでもあり、それが人間の喜びや苦しみの源泉になっているのは間違いではなく、それを初めて指摘したのはフロイトの業績だと述べられている。

 第2章以降では、竹田が現象学的な観点から人間存在について、そして山竹が自我や無意識に関するフロイトの理論の中身を詳しく分析しているが、細かいところは省く。要するに重要なのは、理性や論理な判断を司る「意識」とは別に、快・不快などの感受性(=エロス的/幻想的身体性)が心の本質「無意識(*)」として存在し、それは通常は認識されないまま「意識」に影響を与えているというのをフロイトが初めて指摘したということ。

   *…意識に上らない心の領域のこと。けっして「意識が無い」わけではない。

 現象学分析によれば、人間には「身体的な快」と「(周囲との)関係的な快」を求める欲望に加えて、「自己価値(の承認)」を求める欲望という3つのレベルに分けることが出来る(=マズローの欲求段階説みたいなもの)。身体および関係的な快はフロイト思想においては未分化であり「エス」と呼ばれている。最後の「自己価値」はフロイトにおける「超自我」のことと同義。身体および関係的な快を求める無意識「エス」に対し、道徳的な観点から内的ルール(規範)による牽制を加える無意識である。欲望だけでなく倫理規範(=共同幻想、自己ルール)もまた「無意識」の内にあるというのは、後期フロイトが発見した卓見であった。

 心の成長において「自己価値(超自我)」とは子供の頃の親との関係から与えられるものであり、家庭環境などによってそれが歪んでいると形成される内的なルールも歪んでしまう。やがて成長するにつれて学校など集団生活を通じて社会との関係が出来、「自己価値」は少しずつ補正され良いものへとブラッシュアップされていくが、そこでの軋轢のレベルよっては精神的な負担が大きくなったり、場合によっては神経症の直接原因になったりもする。

 以上がフロイトの思想的な面についての再評価だが、それではフロイト学説は治療理論としてはもはや役に立たないものなのだろうか? 竹田はこれについても最後の第6章で考察を加えて再評価をおこなっているが、フロイトの「汎性欲説」が正しいという意味ではなく、乱暴な言い方をすれば「イワシの頭も信心から」という意味においてである。(笑)ただしそれはフロイトに限らず、ユングやフロムなどの心理療法理論の全体にいえることだと竹田は言う。
 どのような学説であろうが、クライアントがそれを納得して治療を受けることで最終的に「自己了解(納得/腑に落ちること)」に至ることさえ出来れば、たとえフロイトだろうがユングだろうが治るものは治るというのが彼の主張。その根拠として竹田は自らの体験談および、(なんと!)レヴィ=ストロースのシャーマン治療を例に挙げて説明する。心理学などの社会/人文系の学問は自然科学とは違い、正しいか正しくないか(確からしさ)に関して客観的な検証を行うことは原理的に不可能であると先程述べた。したがって心理学において多くの学説の中からどれを優位とするかは、個人の判断に委ねられることになる。とすれば心理治療の効果もまた受ける側の判断で大きく左右されるはずである。ここに至って遂にフロイトやユングが提唱する心理療法は、世界各地の先住民社会においてシャーマンが行ってきた呪術的な医療行為と同列に扱われることになる。

 以上が本書で竹田と山竹がフロイト思想から汲みとってきたエッセンスの概略。ここまでの結論を踏まえて、最後に改めて自分なりに精神分析や心理学について考えてみたことをちょっと付け加えておく。
 客観的な論証は不可能であるが社会の構造を維持するために必要不可欠であり、「野生の思考」によって紡ぎだされて世界各地で伝えられてきたものとして、「神話」がある。人類学でいう“冷たい社会”においては、古来より社会構造の安定と個人の精神的な安定は同じものと位置づけられていた。しかし現代社会のような“熱い社会”においては社会構造と個人の自己実現はイコールではなく、個人は自らの価値を高めるために何らかの精神的な保証を必要とする。そしてその役割を果たしているのが哲学や思想(もしくは宗教)であり、うまくいかない場合のセーフティネットにあたるのが心理療法(そしてその背骨が各種の心理学説)ではないだろうか?
 言うなればフロイトやユングの思想は「現代の神話」なのだといえよう。
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