『経済学とは何だろうか』 佐和隆光 岩波新書

 とても良い本だ。巷には数多くの「経済学」の本が溢れていて、ニュース・新聞では様々な経済政策が日々取り上げられ議論されている。しかし「経済の専門家」といわれる人々の間において、何故これほどまでにお互いの意見が食い違うのか、かねがね不思議に思っていた。「小さな政府」と「大きな政府」のどちらが良いのか?郵政は民営化すべきか否か? 市場は原則自由化すべきなのか?等々、それぞれの論者が依って立つスタンスを理解しようにも、何を読めば良いか判らずに手を付けかねていたのだが、自分のような経済の初心者が概略を理解するのにちょうど良いころ合いの本を見つけることが出来た。
 この本の趣旨は、①ヨーロッパで誕生した「経済学」という社会科学の一分野がその後、“経済学の特異点”とでもいうべき②アメリカ合衆国において変貌・発展を遂げ、最終的に③日本でどのように受容されたかまで、枝葉末節にはこだわらず大掴みで描きだそうというものである。(そしてその試みはほぼ達成できているといえる。)
 著者の考えの背景にあるのは、科学史の研究者であるクーンが考えた「パラダイム」という概念。「科学史」とは自然科学において発見された出来事や、その時代ごとで優位とされていた考え方・理論について客観的に記述しようとする学問。この手法を経済学にも適用し、(個々の経済理論の中身ではなく)時代や地域の移り変わりによってどのような考えの枠組み(=パラダイム)が優勢になっているか? について、一歩引いたところから眺めてみようというのが本書である。著者が特にこだわっているのは『その時代時代で支配的な考え方は、研究者の合意により決まる』という事と、『研究者同士による合意は検証結果に対する納得感、つまりあくまでも主観で決まる』という事。また社会科学の場合は実験による検証が不可能だというのはほぼ通説であり、したがって社会科学においては様々なパラダイムが並立して一つに収束することはなく、「正しい理論」というものも原理的に存在し得ないという考えで一貫している。

 以下、本書の記述に沿って先述した3つのステップを大まかにまとめてみる。
 まず最初のステップはヨーロッパにおける「古典派経済学」について。(学校の世界史で習ったアダム・スミスとかのアレ。) ヨーロッパでは19世紀に自然科学が、元来単数形で表現されていた“science”から複数形の“sciences”へと変化し、「世界を解き明かす<知>の体系」から「専門化した個別諸科学」へと変わった。その結果、産業革命を経て「有用科学」として大成功を収めることになった。それとほぼ時を同じくして哲学/思想の世界においても、個人と社会の関係が未分化だった状態からやがて、市場経済を“要素還元的”に把握して力学的な機構を理論的に解き明かす思考方法が考案され、今でいうところの「経済学」が確立した。具体例を挙げれば、市場価格は需要と供給の関係で決まることや、社会の富は労働者の労働によって生み出されることなどがあり、その後の経済学の基礎になる概念はすでにこの「古典派」でほぼ出揃っている。しかしまだそれらは“素朴”といっても良いくらいのものであり、「(神の)見えざる手」に任せておけば自然に理想的な形で調整がなされて公共の福祉が最大化するという、“自由主義の信奉”がこの「古典派経済学」の基本的な考え方であった。

 次いで2番目のステップで舞台はアメリカ合衆国に移る。ヨーロッパで誕生した「古典派経済学」の理論は、アメリカに伝えられたのち経済政策の思想的バックボーンとなった。しかし折しも発生した世界恐慌を前にして、「市場の動きに自由に任せる」という性善説的な対処しかしない古典派経済学は全くの無力であり、アメリカ経済は急激な悪化の一途を辿る。国家存亡の危機に際して新大統領に就任したルーズベルトは、当時まだ懐疑的な目で見られていたケインズの経済学理論を経済政策に採用し、それに基づく社会民主主義的な『ニューディール政策』を実行にうつした。『ニューディール政策』は国家が市場に対してある範囲で介入するという、世界で初めての試みだった。(ここらへん、世界史の教科書みたいな記述が続くがご勘弁/笑)
 それが直接の効果を上げたかどうかは不明だが(Wikiによると専門家の間でも意見が分かれているとある)、取り敢えずは第2次世界大戦の勃発によって国内需要が増大したこともあり、アメリカは経済危機から脱することができた。
繰り返すが、一般的に社会科学は自然科学と違って「実験による検証」は不可能。その理由は繰り返し同じ条件で実験ができないこともあるが、社会実験を行った場合に実経済に与える影響/リスクが大きすぎるため。しかしアメリカ合衆国は、元々が人為的に作られた世界でも稀有な法規国家であり、リスクの大きい社会実験が政府によって本当に実行されることになり、しかもそれが運よく(?)大成功を収めてしまった。この「成功体験」は、その後のアメリカ経済学を極めて特殊な形態へと発展させていくことになる。
 もっとも、その後「ケインズ経済学」はアメリカにおいて「古典派経済学」と合体(吸収され)、「新古典派理論」が生まれた。市場の暴走を最小限の政府介入によって抑えるという、ケインズの基本的な考えは継承されたが、経済政策に組み込まれることで極端な社会民主主義的な傾向は弱まり、「自由主義(=小さな政府、個人主義)」の傾向が再び強まっていくことになる。
 しかし「成功体験」の影響は、そのような「社会民主主義的な色合いの強弱」よりも、『経済学は現実に役立つ学問だ』という認識がアメリカ社会に定着し、その結果「経済学」が産業化していったことだろう。かくして今日では毎年数千人の職業人としての経済学者(「エコノミスト」)が専門養成機関から社会に巣立っていくという、世界でも他に類を見ない不思議な社会制度が出来あがった。ところが養成機関による育成を成り立たせるには、経済学理論の全てが数式で処理されて教科書で学べるものになっている必要がある。そのためアメリカの経済学からは、よりよい社会を実現しようという「社会思想としての経済学」のカラーが消え、代わりにまるで自然科学のように扱われることが可能なツールとなった。これが現在でも続いているアメリカ経済学の特殊事情である。

 最後に日本における経済学にうつる。日本で経済学といえば、社会研究の一環として学者たちにより行われる思想研究の色合いが強かった。戦前にはそれでも細々とではあるが、ヨーロッパ古典派およびそこから派生したマルクス経済学の咀嚼がなされつつあり、本来ならアメリカ式の数式を用いたツールとしてよりも、社会思想としての経済学に対して親和性が強かった。しかし敗戦後の日本に対して戦勝国アメリカは、「新古典派経済学」を自然科学の装いをもつ唯一の社会科学として紹介した。(*)アメリカの経済発展と専門養成機関による「役に立つ学問(実学)」の繁栄を目の当たりにしたとき、そこに経済学の将来を感じた人々は積極的にアメリカ方式の吸収を図っていった。(**)

   *…そもそも日本では伝統的に「有用科学」「自然科学」への信頼が高かった。なぜなら
      明治維新で自然科学をヨーロッパから導入する際、新たに誕生したばかりの
      “sciences”つまり「専門化した個別諸科学」を、自然科学の本来の姿であると
      勘違いして導入し、富国強兵に邁進した経緯があるから。

  **…ただし社会構造や国民意識が異なる国に適用する過程でかなり中身が変質し、
      日本の社会システムにあった形へと作りかえられた。「新古典派経済学」が
      元に近い形で導入されたのは、小泉政権の時の竹中平蔵による経済政策だと思う。

 以上、大掴みで流れを追ってきたが、アメリカ式の「新古典派経済学」(およびそれに基づく経済政策)を日本に盲目的に導入することについては、素人的にみても2点ほど問題があると思う。
 ひとつ目は社会科学では自然科学と違ってどれも他の理論を論駁することは不可能であり、どの理論も横一列であくまでも憶測・仮説の域を超えないということ。さらにアメリカ人は何事も極端に走る国民性があるので、アメリカでいくら支持されている理論といっても、それを実際に日本で履行するのはリスクが高すぎる。小さな政府や自由化の行き着く先がエンロンの破綻やサブプライムローンによるバブル崩壊だとすれば、極端な自由主義は様々な弊害を生むおそれが高いとも言える。
 ふたつ目は、数式での処理を可能にするために、モデルを極端に簡素化・理想化している点。古典力学では物体が等速直線運動をするなど、理想的な仮想空間モデルによる現実空間の簡素化/理想化がなされるが、それは色々な因子の影響を排除して理論化しやすくするためである。ところが社会科学は現実の社会を研究する学問であり、簡素化すればするほど現実世界との乖離(=誤差)が大きくなってしまう。例えば市場経済で取引する人間が、リスクや価値を見極めたうえ、その都度もっとも正しい判断を行うと仮定してモデル化するのはどう考えてもおかしい。ゲーム理論のモデルでもそうだが、どうもアメリカで発展した社会科学は目的と手段がひっくり返って本末転倒になっている気がしてならない。

 ケインズだのフリードマンだの、はたまたミクロだのマクロだのと経済学については色々な学説や理論があるが、その優劣を判断出来るほど経済学に通じている訳ではない。ただ直観的には、(物理法則などを対象にする自然科学と違って)人為的な社会ルールを対象にしている社会科学の場合、文化や習慣が異なる社会では適用されるルールも異なるので、普遍的に通用する経済理論は無くて当然という気がする。そんな事の探求に力を注ぐよりも、むしろ各種の経済理論が成立する条件を研究する、いわゆる「メタ経済学」のようなものを考えた方が有意義なのかもしれない。

 …というように、経済学がさっぱり分からない素人が偉そうに書いてきた訳だが、少なくとも本書については経済学の素人が一読するだけで、この程度のことを考える程度にまではなれるという意味で、(冒頭でも言ったように)とても良い本だということだけは間違いないと思う。(笑)
 まあ、これから経済学の本を読むときに何を書いてあるか分かる程度には、頭の中に補助線が引けたんじゃないかナ。
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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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