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2020年5月の読了本

『哲学とは何か』竹田青嗣 NHKブックス
一般的にイメージされるようないわゆる「入門書」ではない。著者はフッサールの現象学をスタートとして、プラトン、ホッブス、ルソー、ニーチェにカント、ヘーゲルからハイデガーといった思想家たちの系譜を辿りつつ、あらゆる人間が幸福に暮らせることを実現するための「原理」を追求してきた。その成果は『欲望論』の第1巻、第2巻として著されているが、本書は著者がその先へと進むにあたって、哲学が人にとってどのような役割を果たしてきたのか、そしてどのような役割を果たし得るのかをいま一度振り返ってみたものである。ポストモダン批判からいま流行りの新・実存主義の分析まできっちりやっていて、アップデートを欠かさないのがすごい。こちらは「へえー、ふうー」と感心しながらただ読むばかりである。
あまりにも射程が広いのでどうしても駆け足になってしまうところがあるし、また様々な思想に対する著者独自の解釈も散りばめられているため、この人の本を初めて読む人はちょっと面食らうかも知れない。(自分はこの人の『現象学入門』にはじまる各種哲学入門書を読んできたので、とても馴染みがあった。)とは言え、著者の論旨はとても分かりやすい。「存在の謎」「認識の謎」「言語の謎」という哲学の重要問題を正面突破しようとする試みである。ホッブスの「万人の万人に対する戦争」状態を克服するためには強力な権力と力が必要であるという考え、そして少数の支配者による絶対支配を排するための、ルソーによる「互いに他者の自由と尊厳を認め合い、対等の権限で社会を営む契約を結ぶ」という「社会契約」を「原理」として置く。その上で、何が各人にとって望ましい事なのかを認め合うために必要不可欠な「普遍認識」について、分析哲学からポストモダン思想などを一刀両断にしつつ、結局のところニーチェとフッサールによってその最終解決は示されていることを述べる。そこから対象を「社会」へと広げる足掛かりはヘーゲルの「(自由の)相互承認」である。(このあたりの流れは『人間的自由の条件』を読むと理解しやすいと思う)
著者がカギとするのは、フッサールが構想した「本質学」である。これは例えば人間の生にとって「不安」や「死」がどのような普遍的意味(本質)を持つかを考えるもの。そのために考えだされた方法が現象学であり「本質観取」であった。残念ながらフッサール自身は理念を示しただけで終わったが、本書ではその究極目標である「社会の本質学」へと話を進めていく。「社会の本質学」はその前提としてまず第一に、「現代社会が生み出す人間的矛盾の中心がどこにあるかについての普遍的な探求でなければなら」ず、また第二に「この矛盾がいかなる方法で克服できるかについての普遍的な探求でなければならない」とのこと。また、その解決法として神の存在を持ち出しては哲学の敗北である。
最終章では『欲望論』第3巻で書かれるであろう、その構想が示されて終わる。かなり熱のこもった内容に、読んでいるこちらも思わず熱くなってしまった。(第3巻が出る前に、積んである『欲望論』を読まなくては。)

『献灯使』多和田葉子 講談社文庫
東日本大震災後を題材にした、かなり歯応えのある文芸作品集。本書の約五分の三を占める中篇の表題作と四つの短篇からなる。共通する設定としては、地震で原子力発電所が倒壊して放射能で汚染され、社会制度が崩れ去った日本というものがありそうなのだが、個々の作品が本当に同じ繋がりをもっているかは定かでない。最後の「動物たちのバベル」は戯曲の形をなしていて、まるで筒井康隆『幻想の未来』のような突き抜けた印象すらある。笙野頼子や倉田由美子らにも共通する幻想味と辛辣さを感じたが、幻想小説というよりは海外の優れたSF小説に似た雰囲気がある。土着的な感性で読ませるものとは違っていた。
本書は割と薄めの本なのに読み終わるのに結構時間がかかった。その理由は設定をきちんと説明せず、読者が読み解くことで徐々に開示されていくから…というだけではない。入念に選ばれたひとつひとつの言葉には多重的な意味が持たされ、作品がメタ構造になっているのも大きな理由であろう。帯にあるようにたしかにある種の「デストピア文学の傑作」ではあるのだが、それだけではない様々な面白味を感じる作品集である。

『タコの知性』池田譲(朝日新書)
著者は北大水産学部で学び、今は琉球大学で教鞭をとる生物学者。イカやタコといった頭足類が専門で、社会性やコミュニケーションについて研究をしている方のようだ。本書ではタコに関する基礎的な知識から、彼らの学習能力の高さや、視覚を中心とした感覚世界、さらに厭世的で孤独を好むと思われていたタコにおける社会性の研究など、これまで知ることのなかったタコの奥深さが記されている。鏡を使った鏡像自己認知実験など、さすがイカと並んで「海の霊長類」と呼ばれる頭足類だけはある。(ただしこの辺りの研究は、まだ結論が出たわけではないようだ。)
ひところ話題になった『タコの心身問題』の著者ゴドフリー=スミス氏によるシドニーダコの研究など、世界の最新研究にも触れられていて、「タコ学」の入門編として興味深く読むことができた。こんどたこ焼きを食べる時にはタコの心身問題についても考えてみたい。(ちょっと大げさ)

『モモ』ミヒャエル・エンデ 岩波少年文庫
ドイツの児童文学者エンデの代表作。はるか昔に映画を観てたいそう面白かった覚えがあるのだが、原作を読むのは初めて。実はエンデは『はてしない物語』ぐらいしか読んだ事が無く、本書も「なにを今さら」という気持ちが無くもなかったのだが、やはり読んでみてよかった。(このところ〈ナルニア国物語〉や〈赤毛のアン〉シリーズなど、そういうのが多い。)
話は不思議な力をもつ孤児の少女モモが、時間泥棒「灰色の男たち」から大好きな街の人々を救うという、ジュブナイルのお手本のような内容。映画でストーリー自体は知っていたので、映画とは違う原作ならではの部分を味わうように心がけた。昔の印象よりも、時間を奪われた大人たちの悲哀に身につまされたのと、灰色の男たちがさほど憎らしくなかったのが意外だった。(そういえばカヴェーリンの『ヴェルリオーカ』と読み比べするのもいいかもしれない。)
『はてしない物語』もそうだったが、エンデの物語は筋の運び方がゆったりしていて、子どもが読むには少しボリュームがあるように思う。普段、本を読まない人達にこそ読んでもらいたいと思うが、そういう人にはハードルが高い気もして、なかなか難しいものである。

『クラバート』オトフリート・プロイスラー 偕成社
『大どろぼうホッツェンプロッツ』のシリーズなどで有名なドイツの児童文学者により書かれたファンタジー。ポーランドやチェコとの国境近くに位置するドイツのラウジッツ地方を舞台にして、スラブ系の少数民族ヴェンド人に伝わる昔話をベースに書かれた魔法使いの物語。浮浪者だった少年クラバートが一人前の職人(と魔法使い)になるまでの修行の様子と、親方との最後の対決が描かれているのだが、17〜18世紀における粉挽き職人の徒弟制度や当時の風習、食生活などが克明に記されていてとてもリアルに感じられる。
通奏低音のようにずっと死の予兆が流れていて、天沢退二郎『光車よ、まわれ!』やブラッドベリ『何かが道をやってくる』といったトラウマ級のダーク・ファンタジーを連想させるが、それも昔話が持つ残酷さや暴力性から来ているものとして納得がいった。よく練られた物語であると思う。阿部謹也の『ハーメルンの笛吹き男』や『中世の星の下で』、小池寿子『死者たちの回廊』といった中世ヨーロッパ研究の著作が昔から好きなので、本書もたいそう気に入った。

『キッド・ピストルズの最低の帰還』山口雅也 光文社文庫
〈パンク・マザーグースの事件簿〉の第四短篇集で、今回が初の文庫化。前作『キッド・ピストルズの慢心』の頃に書かれた作品2篇と、その後10年以上の間を置いて書かれた作品3篇を収録する。(書籍としては実に13年ぶりの刊行となる)山口作品はその自由奔放な設定が、逆にミステリのパズルとしての面白さを照射している感じが好きなのだが、このシリーズは特にその「遊び」の部分が強く出ているようで気に入っている。本作はたぶん単行本で刊行された時に買い漏らしていたようで、初めて読むものばかりだったので、前作までとはまた違った楽しみ方ができた。特に気に入ったのは「誰が駒鳥(コック・ロビン)を殺そうが」と「教祖と七人の女房と七袋の中の猫」の二篇。次作『キッド・ピストルズの醜態』がひとまずシリーズ最後の作品となってしまうので、大事に読みたい。

『完全な真空』スタニスワフ・レム 河出文庫
国書刊行会から1989年に出版された本の文庫化。「クラクフの賢人」スタニスワフ・レムによる架空の書評集であり、このところ虚構成分が足りていなかったので数十年ぶりに読み返した。すこぶる面白かった。中身は様々なジャンルの16の架空の本を取り上げ、それに関する書評の体裁を借りてパロディやエッセイや思考実験を書き綴ったもの。振れ幅が広くて、改めて読むと学生時代には正直持て余し気味だったところも見えてきて恥ずかしいが、そんなこちらの思惑とは関係なくレムおじさん終始ノリノリである。
特に気に入ったのは『ギガメシュ』『親衛隊少将ルイ十六世』と、後半に連続して収録されている『誤謬としての文化』『生の不可能性について/予知の不可能性について』『我は僕ならずや』の三作。ほんと学生時代にはいったい何を読んでたんだろうと思う。メタフィクションなどと気構えず、気楽に愉しめる一冊だった。

以下、個々の作品について順にふれていく。
まず冒頭に選ばれている作品が「レム『完全な真空』」というのが洒落ている。収録作品の紹介を兼ねつつ、架空の書評集である本作に関する架空の書評となっていて、いきなりご機嫌。
続く「コスカ『ロビンソン物語』」ではデフォー『ロビンソン・クルーソー』を元にして「発狂」と妄想を描いている。あまりにJ.G.バラードっぽくて驚いてしまった。なるほど妄想を突き詰めると内宇宙になってしまうわけか。
「ハナハン『ギガメシュ』」ではジョイス『ユリシーズ』をも凌ぐ、古今東西の書物や音楽など凡ゆる文化を盛り込んだメタフィクションを、架空の書評で取り上げる。本当にこんな本があったら空恐ろしいし、読みこなすことなどとうてい出来そうもないが、レムの頭の中にだけあることが分かっているので"安心して"愉しむことが出来る。泰平ヨンシリーズよりひねくれていない。(実は虚構の力は筒井康隆よりレムの方がはるかに強烈ではないかとかねがね思っていたのだ。)「メリル『性爆発』」はありと凡ゆるものがセックスを基準としたものに置き換えられた世界と、その終焉を描いたSF小説。マクルーハンが出てきて「メディア」ではなく「性」とその消費を主張するあたり、時代を感じさせるが笑える。〈泰平ヨン〉にありそうな話だ。
「ツェラーマン『親衛隊少将ルイ十六世』」はアルゼンチン奥地に虚偽で塗り固められたブルボン王朝を興した、元ナチス親衛隊の少将の話。ガルシア=マルケスやレオ・ペルッツが書いてもおかしくないような話だが、ドイツ語をフランス語だと強弁し、お互いを実在のブルボン王朝の人名で呼び合うところなど、殆どギャグに近い。物語を書くことの軛から離れるとレムの筆がここまで自由になれるのを知って驚きである。(筒井康隆が『残像に口紅を』で、かなりの文字が消えた状態になって初めて、親に関する思いのたけを書き記すことが出来たのを連想した。)
「マリオ『とどのつまりは何も無し』」は一種の「反小説(アンチロマン)論」になっていて、ロラン・バルトを茶化しつつ、ロブ=グリエをとことん突き詰めたような「反小説」の作法を夢想する。筒井康隆『虚人たち』とも通底する自覚された虚構性がユニーク。思考実験ではあるものの決して小難しいものではなく、全編ユーモアに溢れている。本当にこんな小説があっても面白くないしきっと読まないので、架空の書評で読めるのがちょうどいい塩梅だと思う。
「フェルセンゲルト『逆黙示録』」と「スパランツァーニ『白痴』」は割と普通の印象だった。レムの書評はかなり独特の(偏屈といってもいい)文学観が面白いのだが、いわゆる文学に関してはレムは評論めいたものより実作の方がいい気がする。
『あなたにも本が作れます』はもはや書籍ですらない。ディアゴスティーニか学研『大人の科学』のような商品の顛末を書いたコントである。こういうのは軽い気晴らしか箸休め的な感じでいい。
「ムラチェ『イサカのオデュッセウス』」も「第一級の天才」を探す軽い読み物で、普通に面白い。
「スーラ『てめえ』」は面白いアイデアなのだが、残念ながら筒井康隆が「読者罵倒」で実作してしたものを読んでしまったのでインパクトはだいぶ小さかった。
「ウェインライト『ビーイング株式会社』」も、最近ビジネス関係でよく聞かれる「モノ消費からコト消費へ」というのに似ていて、時代がレムに追いついてしまった感がある。(もちろん一部分だけだが。)
「クロッパー『誤謬としての文化』」は哲学エッセイ。そのまま自分の名前で発表しても面白い内容を、あえて「文化は偶然から生まれた誤謬である」という思想家の主張と、さらにその主張は誤りであって、誤謬ではあるが生存に必要な必然であったもの(そして科学に取って代わられるもの)であるという別の思想家の主張として、架空の書評にまとめ上げるという、ひねくれ方が大変に面白い。
「コウスカ『生の不可能性について/予知の不可能性について』」も同様に科学と哲学の間の思考実験である。これは傑作。コウスカ教授なる人物がこの世に生まれる可能性を巡って、確率と偶然に関する摩訶不思議な議論が繰り広げられる。
「ドブ『我は僕ならずや』」もすごい。コンピュータ上に無限に広がる純数学的宇宙と、そこに暮らすパーソノイドなる人工生命体を創りだす実験の記録であり、イーガンの「ワンの絨毯」や『ディアスポラ』を連想させる設定から、やがてパーソノイドたちによる神学論争へと話が進む。まさに驚異と科学と哲学をつないでゆく思弁小説である。
最後に収録された『新しい宇宙創造説』はノーベル賞記念講演のテキストという体裁で、B.J.ベイリーを彷彿とさせるとんでも宇宙論が開陳される。『天の声』や『捜査』を連想させるところもあり、まさしく「書かれなかったSF小説」なのではないかと思ったりもした。

全体をみると、今ではちょっと時代遅れの感がある作品が無きにしも非ずだが、およそ50年前に書かれたことを考えると、やはりレムおそるべしである。

『月のケーキ』ジョーン・エイキン 東京創元社
子どもから大人まで愉しめるファンタジー短篇集。現実の狭間から垣間見える魔法の世界が、喪失と回復の物語を優しく彩る。帯には「ちょっぴり不気味で幻想的」とあるが、さほどの気味悪さは感じなかった。エドワード・ゴーリーの残酷さを少し緩めにして、代わりにお伽話の要素を加えたような感じとでも言えばいいだろうか。ぜんぶで13の短篇が収録されているが、ハズレがひとつもないのがすごい。どれも面白いが、特に気に入ったのは表題作「月のケーキ」と「羽根のしおり」「緑のアーチ」に「おとなりの世界」、そして「銀のコップ」のあたり。「バームキンがいちばん!」「ドラゴンのたまごをかえしたら」「ペチコートを着たヤシ」なども、ついくすりと笑ってしまう。
余談だが「オユをかけよう!」に出てくる「こおりんしゃ」というのが、原著だとなんと言うのかが気になった。「icecle」だろうか。まったく予備知識無しで読んだのだが、かなり好い本だった。

『すべては消えゆく』マンディアルグ 光文社古典新訳文庫
副題には「マンディアルグ最後の傑作集」とあり、1987年に発表された最後の長篇に掌編の「クラッシュフー」と「催眠術師」を加えたもの。実はマンディアルグをちゃんと読むのは今回が初めてで、生田耕作と澁澤龍彦が好んだシュールでエロチックで惨虐な小説がどんなものだったか、よく分かった。
全体の6分の5を占める表題作は、ひとりの男が欲と好奇心から性と死の饗宴へと巻き込まれ、はからずも通過儀礼的な体験を経て別の世界への目が開かれるというもの(で合っているのかな?)。突然起こる男と女の出会いと、マグリット『恋人たち』を思わせるような謎多きやりとりが続き、思わせぶりな対話が筒井康隆の「あのふたり様子が変」を連想させるが、後半になってがらりと変わるのに驚かされた。この終わりかたは嫌いではない。娼婦と演劇を二重写しにしたりファム・ファタルに翻弄されるという展開は、いかにも澁澤あたりが好みそうなものであった。
余談だがマンディアルグの短篇「ダイヤモンド」を翻案して澁澤龍彦が「犬狼都市」を書いたというのを解説で初めて知った。ああいう話であるのなら、『狼の太陽』『燠火』などの短篇集もいつか読んでみたい。

『謎のアジア納豆』高野秀行 新潮文庫
世界の辺境を旅していつも驚くようなルポルタージュを書く著者が、アジアに広がる納豆文化について体当たり調査をした本。副題に「そして帰ってきた〈日本納豆〉」とあるように、ぐるりと回って日本の納豆についても起源を考察する。タイ、ミャンマー、日本、ネパール、中国と各地を飛び回って納豆作りの現場に立ち会い、自分でもいくつもの納豆を自作して見えてきたのは、「納豆は藁でなくても作れる」「元々の納豆は糸を引かないものが多い」「納豆はおかずではなくうま味調味料である」といった、目から鱗がぽろぽろと落ちるような事実だった。もう少し「きちんと」書けば、講談社学術文庫から出てもおかしくないのではないかと思えるほどの情報量である。(もっとも著者の場合はこのお気楽さこそが大事な魅力なのだが。)
「世界の◯◯食べてみた」みたいな紀行文のわくわく感と、中公新書のような学術系新書の知的おもしろさのちょうど中間的な位置付けにある本といえるかも知れない。やはりこの人の本は好い。著者の他の本によくある命懸けの危険と隣り合わせのハラハラこそないが、ある意味、前野ウルド浩太郎『バッタを倒しにアフリカへ』にも匹敵するレベルの傑作ではないかとも思う。続編が出るらしいので楽しみである。
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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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