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2019年11月の読了本

今月は読書の秋&芸術の秋に相応しく色々と楽しい経験ができた。京都府福知山市にある古書と喫茶の店MOZICA(モジカ)を初めて訪れることが出来たし、糸あやつり人形版の『高丘親王航海記』を観てきたりと充実の月だった。年末進行で忙しくなるが、心には余裕をもって暮らしていきたいものである。

『昏き目の暗殺者(下)』マーガレット・アトウッド ハヤカワepi文庫
先月は上巻だけだったので全体を通した感想は今月書くことにする。
年老いた女性が語る、百年余りに亘る一族の歴史を軸に、彼女の過去と現在、彼女の夭折した妹が遺した『昏き目の暗殺者』という一冊の本、そして当時の新聞や雑誌の記事によって、複層的に奏でられる物語。「昏き目(盲目)の暗殺者」とは何を意味するのか読みながらずっと考えていたのだが、訳者あとがきを読んで納得。触れるものすべての命を見境なく奪ってゆく暴力装置として、ある種の社会階級や価値観や世相をみた時、この長い長い年月は、万華鏡のようにいくつもの様相を見せつつ一人の女性による贖罪と救済の物語として幕を閉じる。(そしてまた朧げながら新たな希望も示しつつ。)
「妹のローラはなぜ死んだのか?」あるいは「なぜ夫のリチャードまで相次いで?」といった、いわゆるミステリとしての"謎"や、作中作である「昏き目の暗殺者」の中に出てくる作中作(つまり作中作中作)のパルプSFも魅力に満ちていて、一冊で幾通りも愉しめる作品だった。決して読みやすいわけではないが、下巻の途中あたりからページをめくる手が止まらなくなる。(面倒なことに「つらい」と「面白い」は両立するのだ。)そして上巻の冒頭にある家系図に示された謎を長い手記とともに追体験していき、言葉が人を殺すこともあれば人を救うこともあるという余韻に浸りつつ本を閉じる。読書の愉しみに溢れた好い物語だった。

『怪獣生物学入門』倉谷滋 インターナショナル新書
理化学研に勤める現役の形態進化生物学者である著者が、様々な怪獣に対する生物学的な考察とともに、彼等への愛を熱く語った本。生物学的な内容はたしかに「入門」かも知れないが、選ばれた題材は中級、説明なく振られるネタに関しては特撮・怪獣として上級のレベルだと思う。そのため観ていない映画の怪獣については、ちょっとついていけない感も無きにしもあらず(笑)。しかしその熱い語り口は特撮ファンなら一読の価値はあるのではないだろうか。とんでもなくマイナーなネタが殆ど説明無しに挿入されるのが熱い。そのパワーには、『究極超人あ〜る』のR・田中一郎の生みの親である成原博士を連想してしまった。(とまあ、こんな感じでネタがどんどん投入される。たとえば説明なしに突然、諸星大二郎の漫画<栞と紙魚子>シリーズにでてくる「段先生の奥さん」などと書かれても、解らない人が多いのではなかろうか。)
取り上げられる怪獣は、ゴジラやキングギドラと言った王道から『ゴジラvsビオランテ』のビオランテ、平成版ガメラ、マタンゴにドゴラ、エリマキ怪獣ジラースに漫画版『寄生獣』などなど多種多様。そして最後は『ウルトラQ』の「1/8計画」でしめるというマニアぶりである。はじめの辺りではまだ科学的考察が4割ぐらいをしめているが、最後になると単に特撮エッセイと化しているのもなんだか可笑しい。ここまでくるといっそ爽快である。読む人を選ぶかも知れないが、この手の話が好きな人にはぜひお薦めしたい。

『特別ではない一日』 柏書房
小説・翻訳・音楽・編集・短歌など多彩な分野で活躍する西崎憲氏のプロデュースによる短文集〈kaze no tanbun〉シリーズの第一弾。17人の文章家による「特別ではない一日」をテーマにした短文が、カッコいい装丁の中に詰まっている。創作なのかエッセイなのかはたまた詩なのか判然としない作品が多いが、それらが合わさって不思議な「風」を吹かせているようだ。西崎氏はいつも見たことのない、それでいて気持ちのいい光景を見せてくれるが、今回もまた良きものであった。敢えて特に気に入ったものをあげるとすれば、岸本佐知子「年金生活」、勝山海百合「リモナイア」、皆川博子「昨日の肉は今日の豆」、上田岳弘「修羅と」、西崎憲「オリアリー夫人」あたりが、山尾悠子「短文性について Ⅰ/Ⅱ」も柴崎友香「日壇公園」も日和聡子「お迎え」も、あるいは谷崎由衣「北京の夏の離宮の春」も水原涼「Yさんのこと」この本には欠かせないものだし、円城塔「for Smullyan」「店開き」や小山田浩子「カメ」、滝口悠生「半ドンでパン」、高山羽根子「日々と旅」、岡屋出海「午前中の鯱」の不思議なムードも藤野可織「誕生」のただならぬ空気も捨てがたい。要するにどれもがこの作品集の中で独自の価値を主張しているのだ。とてもユニークで満足のいく読後感を味わうことができる本だった。こういう本がたくさん出てくれると、これからの読書生活がとても豊かなものになるに違いない。楽しみなシリーズがまた増えた。

『書き換えられた聖書』バート・D・アーマン ちくま学芸文庫
様々な観点から新約聖書の膨大な写本の相違点と特徴を比較分析し、それらが複製される過程でなされた改竄内容とそのオリジナルの文章を明らかにする学問「本文批評」。本書はその研究者が一般読者向けに書き下ろした解説書で、まるで推理小説を読むような面白さに満ちている。「改竄」は決して悪意に基づくものではなく、写本を行った者たちがついミスをしたり、あるいは善意で文意を分かりやすくする為に行ったものだったりする。初期キリスト教において異なる教義が自らの正統性を主張しあった時代に、聖書の解釈が相手に都合よく読まれることを防ぐため、一部の言葉を省略したり、あるいは言葉を補ったりということもある。(このあたりの「正統」と「異端」の攻防は、小田内隆『異端者たちの中世ヨーロッパ』を思い出した。)
本書の白眉は第4章「改竄を見抜くーその方法と発見」および第5章「覆される解釈」であり、そこに示された三百年にも亘る「本文批評」の研究者たちの努力と英知には脱帽するばかりである。例えば古代ギリシア語で書かれた聖書のテキストは、句読点も大文字と小文字の区別も単語と単語の間のスペースも存在しない「連続書法」で書かれているとのこと。仮に"godisnowhere"という句がある場合には、"God is now here"にも"God is nowhere"にも読めてしまうわけだ。そこで様々な写本のなかから異なる言葉を抜き出し、テキストの依拠した過去の写本の素性や単語の頻出度合い、他の部位で著者が用いる単語の意味合いなどを総合的に判断して、どれが最もオリジナル(もしくは最も古い写本)に近いものかを同定していくのだが、それにかかる手間と知識は大変なものであることが容易に想像できる。
解説の筒井賢治氏からは内容に対していくつか厳しい指摘もされてはいるが、「聖書」という西洋文化の根幹に対してさえ懐疑の目を向けるその姿勢と、そしてその過程で見えてくる新たな世界の面白さや研究のわくわくを伝えてくれるという点で、大変に優れた本と言えるだろう。読み応えのある人文系の本を探している人にはぜひおすすめしたいと思う。本書を読んで、新約聖書を読み返したくなってしまった。(今度は訳にも注意しながら。)

『掃除婦のための手引き書』ルシア・ベルリン 講談社
不世出の作家による24の掌編を収録した作品集。ちょっと早いが今年のベスト級が出たかなという感じ。キレッキレの文章にほれぼれしながら読んでいくうち、説明なく共通の人物が登場する事に気付いて訳者あとがきに目を通した。すると作品は作者の実体験に基づくとあってびっくり。実体験だと物語の価値がさらに高まるというものではないが、本書の場合は意味が少し違ってくると思う。これほど小説のように激しい人生を送った人がいたというのにも驚いたが、それがこのように研ぎ澄まされた文章になったというのにも驚く。人生のある一瞬をこんな風に切り取って言葉に出来るものなのかとも思った。
生きていく間につらいことは様々あれど、それに傷つく人もいれば立ち向かう人もいる。そして忘れ去る人もいれば素晴らしい文章に織り上げる人もいる。そこに描かれるのは家族であり友人であり恋人であり子どもたちである。生であり死であり怒りであり静謐である。特に後半、「苦しみの殿堂」から「ソー・ロング」「ママ」「沈黙」「あとちょっとだけ」と続くあたりは圧巻。「さあ土曜日だ」だけは唯一の創作らしい創作といえるものだが、それも含めて最後の「巣に帰る」まで通して読むと、まるでひとつの人生の始まりから終焉まで立ち会ったかのような、僅か十数ページとは思えないほどの充足感と余韻に浸ることができた。
なお、悲惨な内容の物語が多いのではあるが、なぜかブレイディみかこ氏の本のような明るい読後感を持てるのがおもしろい。これはアンナ・カヴァンやジェイムズ・ティプトリーjrとは違うところだ。むしろ驚きという点ではセサル・アイラ『わたしの物語』を、そして辛辣のなかのユーモアという点では今村夏子の『こちらあみ子』や『星の子』に近い感触を持った。いずれ唯一無二系の作品に違いない。そしてつらい時こそユーモアは大事である。

『ヒューマニズム考』渡辺一夫 講談社文芸文庫
フランス・ルネサンス文学の泰斗により1964年に書かれたヒューマニズム(人文主義)についてのエッセイ。「ヒューマニズム」あるいは「ユマニスム(仏語)」が持つ意味と、現代でも生き続けるその意義を、フランス文学関係の人物や作品に拠って考察する。「ヒューマニズム(ユマニスム)」という言葉はルネサンス期に見られた一つの顕著な傾向・思潮に後世の史学者が名付けたものなのだそうで、「もっと人間らしい学芸」が求められる際に対比されたのは神学であった。それは議論のための議論になってしまったキリスト教哲学への批判から起こったものなのだ。本書で取り上げられるのは、宗教改革の嵐吹き荒れる15〜16世紀ヨーロッパのエラスムスとルター、ラブレーとカルヴァン、そしてモンテーニュら。そもそもきっかけは権力抗争や教義の解釈に明けくれる当時のカトリック教会に対して「それはキリスト(=信仰)となんの関係があるのか」という問いを突きつけたプロテスタントだったが、その後、狂気に満ちた粛清や血で血を洗う抗争の中、自分達もまた「それは人間であることとなんの関係があるのか」という問いを突きつけられる。狂気と無知と痴愚によってそのような行為を繰り返す社会に対して、小さな声ではあるが絶対主義の愚かしさについての疑問を表明し続けたのがエラスムスでありラブレーだったのだと著者はいう。そして新大陸発見に際して、ヨーロッパ絶対主義・キリスト教絶対主義を土着民に押し付けようとする者たちに疑問を投げかけたのはモンテーニュであったのだと。
これらヒューマニズム(ユマニスム)の系譜は仰々しい思想体系といったものではなく、あくまでも「ごく平凡な人間らしい心がまえ」であるという本書の結論は、最後まで読んできた者にはしごく納得できる結論といえるのではないだろうか。自分自身の信念や望みに対して常に「警戒」を怠らず、懐疑の念をもって接することは、ポピュリズムの嵐が吹き荒れる今こそ、改めて振り返るべき意見であるに違いない。性別や国籍、社会的地位や年収、主義主張に政治的スタンス、趣味・性向などありとあらゆる「違い」についても、まず「それは人間であることとなんの関係があるのか」と問われるべきなのだ。良き本であった。やはり渡辺一夫氏はすばらしい。

『文庫本は何冊積んだら倒れるか』堀井憲一郎 本の雑誌社
本の雑誌に連載された〈ホリイのゆるーく調査〉を書籍化したもの。ゆるいのは調査対象についてなのかと思ったら、調査方法も報告の仕方も極めてゆるいものであった。各社の文庫本をそれぞれ何冊積んだら倒れるか?とか『坊ちゃん』の文庫本の栞は何ページに挟んであるかとか、正直どうでもいいようなこと(失礼)が50も詰まっていて、お得なんだか時間がもったいないんだかよく分からない(笑)。でも15年の間に新潮文庫から落とされた作家の調査や、筒井康隆の文庫の古書価、岩波文庫[緑]の欠番の作家は誰か?なんてのは、結構楽しく読んでしまって、それがまたちょっと悔しかったりもする。
こういう脱力系の本は例えば横田順彌のハチャハチャSF〈荒熊雪之丞シリーズ〉みたいなもので、何年かして無性に読み返したくなったり、そしてまたその時には手に入らなかったりするので要注意なのだ。本書は最近読んだ中でも最右翼の脱力本であった。

『ジャーゲン』ジェイムズ・ブランチ・キャベル 国書刊行会
元詩人、今はしがない質屋の親父であるジャーゲンがひょんなことで悪魔を庇い、お礼に口うるさい妻リーサを消されてしまう。ジャーゲンは周囲の説得により嫌々ながら冒険の旅に出て、妻を返してもらうために創造主コシチェイを探して神々の住まう世界を遍歴し、行く先々で夢のような逢瀬を繰り広げる……。とまあ、概要を話そうとすればこんな感じになってしまうのだが、こんな内容紹介では著者に失礼であろう。その魅力を1/10も紹介できていないと思う。本書は読みこむほどに味が出る、それほどの傑作だった。
確かに半ば過ぎ迄はそのような流れで話が進む。しかしそれは『ドン・キホーテ』を単に「騎士道物語にかぶれた男が従者とともに繰り広げる珍道中」とでも紹介するようなもので、『ドン・キホーテ〈後篇〉』のメタフィクション的展開やラストの悲しさと奥深さを全て無視するようなものであると思う。
まさに本書の第29章「ホルヴェンディルのナンセンスについて」以降の展開は、単なる恋の鞘当てや中年男の夢のような恋の遍歴から遥か彼方へと読者を連れ去っていく。ラストの見事なまでの「美しさ」も含め、まさしく副題の「正義の喜劇」と呼ぶに相応しい作品だった。ツイッターで本書をムアコックの〈エルリック・サーガ〉にたとえた人もいたようだが、その例に習えばジャーゲンとは数多の世界に転生して戦い続ける「永遠のチャンピオン」であり、彼が追い求める理想の女性とは永遠の安らぎの都タネローンなのかも知れない。
古今東西の神話や〈マニュエル伝〉の無数のエピソードが説明なく散りばめられ、訳註と見比べながら読み進めるもよし、全編を貫くユーモアにニヤリとしながらファンタジーのパロディとして読むのもよし、重層的な愉しみかたが出来る作品だと思う。訳者の中野善夫氏には「よくぞ訳してくれました」とお礼を申し上げたい。
そしてこの後に刊行が予定されている<マニュエル伝>シリーズの『イヴのことを少し』と『土の人形(ひとがた)』の2冊を読むのが大変楽しみになった。

『里山奇談 あわいの歳時記』coco/日高トモキチ/玉川数 角川書店
人と自然が付かず離れずほどよい距離で暮らす里山。山歩きを趣味とする著者らが、あちこちで耳にした奇しい話や不思議な記憶を書きとめたシリーズの第3弾。妙に気を衒わず淡々と語られるエピソードは、時に怖く、時にしんみりとさせ、そして時に懐かしい。いつの間にか失われてしまった畏怖の心がこの中には息づいているが、それは子供の頃の記憶だったり、あるいは山の中で素の自然と向き合っているうちに培われたものであるのかも知れない。自然と向き合う暮らしをしていると、一生のうちに一つや二つは不思議な体験をするものなのだ。このシリーズはこれまで出た三冊とも読んだことになるが、これからも続いて欲しいと思う。なんともいえない恐ろしさを感じるものとしては「速くて黒い影」や「ランドセル」「群れ」あたりが、そして独特の不思議な交流が心に残るものとしては「ヤマンボウサマ」「おしらさま」「故郷の夜」「おいぬ好かれ」「玉かんざし」などが好かった。

『沙漠の伏魔殿』大阪圭吉 盛林堂ミステリアス文庫
惜しくも大平洋戦争で散った推理作家の、単行本未収録作品を発掘・収録するシリーズの第3巻。今回もミステリーっぽいものから軽めのコント、秘境冒険物に時代小説までバラエティに富んでいる。時局を反映して軍事小説の色が濃いものが多いが、それもまた味わい深い。なかでは表題作と「人外神秘境」が読み応えがあった。無事に戦地から帰ってきて戦後も小説を書き続けていたら、はたしてどんな作品を残してくれたのだろうか。
作家紹介や作品解題、発行者による「あとがきにかえて」など資料的価値も高く、よいシリーズである。(それにしても著者の出身が愛知県は新城市だったとは知らなかった。)
あ、そうそう。このシリーズはYOUCHANさんの装丁がとてもすてきで気に入っているのだが、本書の表紙イラストにある三人の「支那服」を着た娘さんが格好良くて、本編も同じように大活躍するのだろうと思ったら全然違っていた。その点だけちょっと残念である(笑)。

『スキュデリー嬢』ホフマン 岩波文庫
ルイ十四世の治世のパリを舞台に、市民を震撼させた強盗殺人事件の真相と、それにまつわる異常心理、芸術と頽廃、愛情と憎しみの相反などを描いた中篇小説。以前、光文社古典新訳文庫の『黄金の壺/マドモワゼル・ド・スキュデリ』で読んでいたのをすっかり忘れていて、途中から憶えのある展開になって気がついた。骨子はサスペンスというか探偵小説といっても良く、ホフマンに対して持っていたイメージとはだいぶ違うものである。たとえばレ・ファニュの『吸血鬼カーミラ』しか読んだことが無い人が、いきなり『ドラゴン・ヴォランの部屋』を読んだみたいな感じ。(我ながら分かりにくい喩えであるね。)
いかにもホフマンらしい偏執的な人物は宝石職人のカルディラックぐらいで、その他の登場人物すべてフランス人であることもあってか、からりとした明朗な人物ばかりだったのもおもしろい。週末の夜を締めくくるものとして、いい感じの一冊だった。



糸あやつり人形芝居『高丘親王航海記』
今月は特別編として、11月3日に愛知県芸術劇場・小ホールで観てきたITOプロジェクトによるについても感想をあげておこう。これは澁澤龍彦が晩年に書いた幻想小説の傑作を糸あやつりで演じようというとんでもない企画。澁澤のファンとしては見逃せない反面、人形ではどうしても人による演技に比べて粗雑になる部分があったりして、原作が持つ繊細な幻想味が、限られた空間でどれだけ表現出来るのだろうかと不安もあった。しかし杞憂だった。まずざっくりした感想を述べると、人形でしか表現出来ないものが加わって面白いぐあいに変容していて良かった。とても丁寧に作り込まれており、ときどき操演が手間取ってしまうところも含めて、ライブ感覚で楽しむことができた。
実をいうと、子供向けのものを除いては所謂人形劇を観たのは初めてだったのだが、人形を使うことでしか表現し得ないものがあるのだと感じた。あくまで個人的な意見だが、この物語を人形で演じることのメリットは二つあると思われた。ひとつめは原作のあちこちに見え隠れする、そこはかとないユーモアというか稚気のようなものを、人形の誇張されたユーモラスな造型やぎこちない動きが、上手く(というか寧ろ逆に、だからこそ)直感的に表現できる点。二つめは人形のもつ無機質で不気味な空気感や、省略され抽象化された形状が、原作の幻想的な味わいを観る側が(勝手に)想像できる余地を生み出す点。文字情報だけに頼るしかない小説と違って、人形劇の舞台は音楽や台詞回し、光や音の演出など選択肢の幅がそれこそ無限にあるわげで、そういった意味でも小説と映画の関係に近いのかも知れない。
人形の造形は自分なりの乏しいイメージでたとえるなら、『プリンプリン物語』の雰囲気に近いかも。リアルというより、ちょっとユーモラスでちょっと不気味。とくに驃国で出会った犬頭人や蜜人はとてもシュールで、人形ならではのものだったと思う。ラストに出てくる虎の人形もそうで、まるでタイガー立石の漫画のような奇妙な姿はたいへん気に入った。
家に帰ってから原作を引っ張り出して見比べていたのだが、省略されていた話は「蘭房」の章ぐらいであり、あとは多少の差はあってもひと通り物語の中に組み込んであったようだ。ところどころ順番を替えたり象徴化したりといった力技はあるにせよ、わずか2時間の中に放り込むのは並大抵の技量ではない。受けた印象は原作とはまったく違ったのだが、これはこれで好かった。まあ澁澤龍彦の『高丘親王航海記』という小説を用いた別物として愉しむのが一番いいのだろう。「みーこ(皇子/御子)、みーこ、みーこ」と鳴きながら飛翔する迦陵頻伽のエピソードまでお見事であり、素直に感心してしまった。
ひとつ付け加えるなら、澁澤龍彦の『高丘親王航海記』で絶対に映像や舞台では真似できないものがある。それはところどころに顔を出す作者の衒学趣味的ともいえる解説。幸田露伴の「幻談」におけるケイズ(黒鯛の異名)や継竿に関する随筆とも解説とも云えぬ文章にも似ている。
本作の脚本・演出を手がけた天野天街氏のプロフィールや、氏が主宰されている名古屋の演劇集団「少年王者館」についてネットの記事を読んでみると、ITOプロジェクト版『高丘親王航海記』で使われた演出手法、たとえば複数の台詞を重ねて多層的な意味を持たせて場を転換したり、役者のいる舞台に絵や文字の映像を投射するやり方は、「少年王者館」の舞台ではお馴染みの演出だったようだ。コラージュを駆使したポスターのテイストも全く同じで、もともと少年王者館が好きな人は、その延長上で楽しんだのかも知れない。インタビューによれば氏は稲垣足穂の作品が持つセピア色の「宇宙的郷愁」や鈴木翁二などかつてのガロの漫画が好きとのこと。そこからあっけらかんとした澁澤龍彦の小説世界へと向かい、以前天野氏が手がけた野外劇版や今回の人形劇につながっていくのだなあと納得した。天野氏のアイデアをもとに人形を実際に作ったのは、今回の公演を実施するにあたって天野氏に演出を依頼したITOプロジェクトの山田俊彦氏。今回の前に組んでやった『平太郎化物日記』(原作は『稲生物怪録』)の映像も見たが、いずれも糸あやつりの限界に挑戦するような動きで、この人形というジャンルもなかなか奥深い世界が広がっているようだ。
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Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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