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2019年10月の読了本

今月は読書の秋だというのにあまり読めなかった。次月はどうだろうか。

『夢見る人の物語』ロード・ダンセイニ 河出文庫
「ウェレランの剣」「夢見る人の物語」という二つの短篇集を合わせたもの。著者の「夢の国」を題材としたものを中心に、前者は十二、後者は十六の都合二十八篇の掌編を収録している。四人の訳者を代表して中野善夫氏の書いたあとがきにもあるように、沙漠の中に輝く麗しの都メムリナや時の中に滅びし驚異の都バブルクンド、ベスムーラといった魅惑的な夢の都市が数多く登場しては、今や訪れること叶わぬ郷愁と忘却の彼方に消え去る。妖精が舞い魔法使いが微睡み、次々と幻想が生まれては消えてゆく。時代がかった表現の仰々しさも、いかにもこの著者らしくてむしろ好ましく、現実に疲れた時に何度も立ち返りたくなる世界である。見たことがない世界なのに心惹かれるのは、大人になって失ってしまったものを思い出させるからであるか。年取ってから読んだ方が沁みるかも知れない。
ところでダンセイニの作品には架空の都市がよく出てくる。きっと架空の都市を描くのが好きなのだろうと思う。そもそも幻視小説には架空の都市(都、街)が出てくるものが多い気がする。『マルコポーロの見えない都市』や『方形の円』など。幻想小説における架空の都市とは、ちょうどいい大きさと強度をもった異世界なのかも知れない。屋敷程度の大きさでは小さ過ぎるし、かといって世界まるごと幻視するのは重たい。ムアコック『メルニボネの皇子』では滅びゆく王国が、ミハル・アイヴァス『もうひとつの街』では現実世界と違うもうひとつのプラハが描かれ、同じく『黄金時代』では島国がまるごと創造された。(国ではなく島であればルイス『ドーン・トレッダー号の航海』をはじめ ファンタジーには山ほど出てくる。)館から街ぐらいのサイズ感だと幻想よりむしろ怪奇小説の舞台として扱いやすいかも知れない。例えばブラックウッド「古い魔術」やラブクラフト「インスマウスの影」みたいに。
閑話休題。本書の収録作はどれも好いのだが、とりわけ好みを挙げるとすれば「ウェレランの剣」「妖精族のむすめ」「サクノスを除いては破るあたわざる堅砦」「潮が満ちては引く場所で」「乞食の一団」、そして「カルカソンヌ」あたりだろうか。(選びきれなくて結構たくさんあげてしまった。)稲垣足穂と同じで、偏愛されるタイプであり、批評よりは好悪で語られる作家ではなかろうか。
「人は七十余年を時と戦わねばならぬが、時は最初の三十年ほどは弱く与しやすい相手にすぎぬ」(ダンセイニ「カルカソンヌ」より)
時に想いを馳せつつひとまずは本を閉じよう。

『事物のしるし』ジョルジョ・アガンベン ちくま学芸文庫
ミシェル・フーコーの「パラダイム」「しるし」「哲学的考古学」という三つのキーワードに依拠しつつ、自らの探究の方法について語った本。なかでも圧巻は第二章「しるしの理論」。パラケルススからヤーコプ・ベーメ、秘跡の霊印の神学的教義やカバラー、はてはエミール・バンヴェニスト「言語の記号学」やフロイトまで援用しながら、自在に「しるし」なる重要な概念に接近してゆく。
少し中身にふれていこう。たとえば第一章「パラダイムとはなにか」では、フーコーとクーンの「パラダイム」という言葉に対する態度の違いから、はるかアリストテレスやプラトンまで遡って考察している。最後にはアガンベン自身の著作における「パラダイム」の意味・特徴を示しており、それは帰納的(個別から普遍)でも演繹的(普遍から個別)でもなく、アナロジー的な認識のかたち。個別の範例から個別の範例へと直接進み、両極的なアナロジーで一般と個別の二元論的な論理を置き換えるものなのだそう。理解は出来るが、実践はなかなか難しいかもしれない。看話禅みたいなものかも知れない。
続く第二章「しるしの理論」では、存在の本質を啓示によって明らかにする「しるし」の意味を考察する。コゴメグサの葉にある眼状の斑点は「眼」を喚起させる記号であるとともに、この植物が眼病の特効薬としてはたらくことを示す「しるし」でもある。あるいはカトリックの秘跡も単に聖なる記号ではなくそのまま「効力」でもある。十七世紀イギリスの哲学者ハーバートは、「超越的」ということ、つまり「存在する」という事実それ自体によってあらゆる存在者に関係づけられる〈事物〉〈真〉〈善〉〈一〉といった言葉(述語)を、「しるし」として読み取った。即ち「しるし」はただそれが与えられてあるという純粋な事実により言語に結び付けられることとなる。アガンベンのいう「しるし」というのは、本邦でいうところの「言霊」に近いのかもしれない。それも今風のスピリチュアルな意味ではなく、「神の発した言葉は自ずから実現する力を持つ」といった本来の使われ方での「言霊」という言葉に。そして本章に見られるのは、存在論、そして言葉と「しるし」について考察するとき、神学を避けては通れないということなのかも知れないとも思う。
第三章「哲学的考古学」では、これまでの議論を下敷きにして文献等で遡れる「歴史」とそれ以前の「先史」の違い(歴史的分裂)、そして先史を考える際に遵守すべきことについて考察してゆく。例えば法と宗教が分かれる前の「原初的な渾然」。その時あったであろう「先法」は単純に最古の法ではなく、宗教より前にあったものが単純にプリミティブな宗教ではないということ。「宗教」や「法」といった用語そのものを避け、「x(エックス)なるもの」を想定する試み。これらはまさしくフーコーが『知の考古学』で述べたエピステーメーを詳らかにしてゆく取り組みである。
割と薄い本だが、『知の考古学』や『ピエール・リヴィエール』といった著作で馴染んだ方法論を通じて、人文学全般へと広げていく手際が広々として見晴らしがよく、読んでいてとても気持ちがよかった。

『ひみつのしつもん』岸本佐知子 筑摩書房
妄想だったり他の人と違う見方だったり、はたまた自己嫌悪だったり爆笑だったり。まさに「奇妙な味」のエッセイ集。この人のエッセイを初めて読んだのは白水uブックスの『気になる部分』だったが、それ以来大ファンになってしまった。これからまた折にふれて何度も読み返すのだろう。しかしどうしたらこんな発想が出てくるのだろうか? 著者が翻訳する作品の選書と同じで、自分とは目の付け所が全然違う感じがする。

『トルネイド・アレイ』ウイリアム・S・バロウズ 思潮社
バロウズの1989年の作品集を作家の清水アリカ氏が訳し、現代美術家の大竹伸朗氏による装画を施したもの。さらに美術評論家の椹木野衣(さわらぎ のい)氏による上記3名に関する評論を付する。掌編というか物語の1シーンを切り取ったバラエティに富み読みながらひりひりするほどの暴力性と批評性を持った七つの創作が並ぶ。文学というより「文字で書かれた現代美術」という視点でなされる解説も新鮮だった。個人的にツボだったのは「感謝祭 一九八六年十一月二十八日」。「堕天使(オチコボレ)」も悪くない。

『「カッコいい」とは何か』平野啓一郎 講談社現代新書
ひと言で言えば、本書に描かれるのは1960年代以降の日本で多用されるようになった「カッコいい」という言葉の意味をめぐる旅である。まずはこの言葉が人口に膾炙した経緯、すなわち直接的な語源である「格好が良い」から掘り下げ、次はジャズやロックといった音楽がもたらした「しびれる」体感や、「カッコ悪い」こととの比較を行う。ナチスの制服をファッションとして「カッコいい」とみるのはどういうことか?といった、「外観」とその「実質」との乖離についての考察をする章もある。ちなみにナチス制服デザインを手がけたのは有名なファッションブランドのヒューゴ・ボス。彼は経営難で倒産寸前だったが、ナチスに入党して制服の大量発注を受け、業績が飛躍的に回復したそうだ。どこかの国の出版業界でみたような構図である。著者によれば「カッコいい」存在は「しびれる」ような興奮をもたらすが、その生理的反応自体に倫理性はないとのこと。従って、「カッコいい」対象の選択は個人の自由であるが、しかし少なくとも社会的には一定の制限が設けられることはやむを得ないだろうというのが結論である。至極納得できる。
「クール」と「ヒップ」、「ヒップ」と「スクエア」の違いについての記述では当時の感覚が引用されているが、それによれば作家ではカフカやプルーストはヒップで、ヘンリーミラーやヘミングウェイ、サガンはスクエアとされていたらしい。画家ならピカソやレジェが前者でウォーホールやジャスパー・ジョーンズは後者とのこと。このあたりの感覚はさっぱり解らない。こういったものは時代を経て人々の意識がかわると理解できなくなるものなのかも知れない。
「ダンディズム」の章ではボー・ブランメルやオスカー・ワイルドや三島由紀夫(!)を引き合いにしてダンディとは何かや「男の美学」まで考察している。
このように本書はまさしく「カッコいい」に対して時代やジャンルを超えた考察を加えた労作であり、個々の題材に対する詳細な分析はとても面白い。ただ、最終的に九鬼周造『「いき」の構造』のようにひとつの定義に収斂していくわけではない。これはおそらく「カッコいい」が今も現役で使われ続けており、その意味もある種の理想への憧憬と多様な価値観との間で揺れ動いているからではないだろうか。「カッコいい」を考えることは即ち生き方を考えることであるのだとも気付かされた。とても興味深い旅であった。

マーガレット・アトウッド『昏き目の暗殺者(上)』(ハヤカワepi文庫)
一人の老女による、一族の繁栄と没落、そして妹が遺した一冊の小説についての物語。予備知識無しに読み始めたのだが、続けて読むと密度の高い文章にくらくらしてくる。下巻は今月中に読み終われなかったので、感想は次月にまとめて記載としたい。

<番外編>
『JOKER』(映画)
話題になっていたので観てきた。噂に違わず傑作だった。クライマックスのシーンでCREAMの「WHITEROOM」が流れたときには背中がぞくっとした。要するにJOKERとは「道化の王」である。ヒエラルキーの最底辺の者が頂点の者と入れ替わるカーニバルの夜……。
「これが人生だ」
ジョーカーはまさしく我々なのだ。

(以下、映画の内容に触れるので未見の方はご注意ください。)

ツイッターの感想では『タクシードライバー』を連想したという声がよく聴かれたが、それはもちろんとして、音楽や全編に流れるやるせない感じ、あるいは現実と妄想の境がおぼろげになるところや救いの無さなど、自分としては『未来世紀ブラジル』に共通するところがあると感じた。そういえば最後のシーンは、もしも『未来世紀ブラジル』と同じとすると、それまでの全部がアーサーの妄想だったという見方もできるかもしれない。本作を「バットマンの敵役の誕生を描いたDC映画のひとつ」ではなく単独作品であるとみれば、そういった解釈も可能だろう。(そうなるといよいよ救いは無いわけだが。)
あのシーンを映画の時系列どおり暴動の夜以降に再逮捕されたジョーカー(『羊たちの沈黙』のハンニバル・レクターみたいな感じ)ととるか、それともアーサーが社会復帰して道化師の仕事に就く前に入院していた時の出来事ととるかで、映画の印象はまったく変わってくる。いちどしか観ていないので違っていたら申し訳ないが、市のカウンセリングを受けているシーンで、彼が以前病院で暴行したような会話があったはずだ。もし後者であるとするとアーサーは最初から「壊れて」いて、薬で症状を抑えていただけどいう解釈にもなる。(その場合、アーサーは猫を飼えば良かったかもしれない。)また前者のように時系列通りだとしても、その後病院から脱走してジョーカーがバットマンの敵になると考えてもいいし、全ての物語がアーサーの妄想で、これからも一生を院内で過ごすと考えることもできる。
ラストのシーンでは全ての解釈が重なっている。別にどの解釈でも構わないし、むしろ分からないのが値打ちとも言える。映像的にも文学的な価値も高い作品だと思う。
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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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