『呪殺・魔境論』 鎌田東二 集英社

 「政治的テロ」に関する考察は笠井潔が『テロルの現象学』(ちくま学芸文庫)においてほぼやり尽くしていると思う。犯人がテロの実行に至るまでの心境はこの本により大体理解したつもりだった。しかし1995年にオウム真理教によって起こされた「宗教的テロ」に直面したときには、何故おこったのかが全く理解することが出来なかった。つまり物証や犯行におよんだ経緯など外部的な検証は幾らでも理解が深められるのだが、犯行に至った心情が全く想像できなかったということ。
 いや正確にいえば、マインドコントロールによる信者達の心については理解できていると思う。オウム教団内におけるグルと信者の間の絶対的な関係や、立てこもり犯と人質の間に発生するとされる「ストックホルム症候群」など、心理的な点からも納得できる。さっぱり解らないのは麻原彰晃の心理、彼が陥った“心の闇”である。「犯人の心の中の闇は本人にしか分かりません」とはニュースキャスターの常套文句だが、そんな逃げ口上ではなく誰かがきちんと説明をしてくれないものかと常々考えていた。

 本書はおどろおどろしいタイトルだが内容はいたって真面目。気鋭の宗教学者・鎌田東二がオウム真理教と酒鬼薔薇聖斗の事件の衝撃を正面から真摯に受け止め、それらが引き起こされるに至った原因を彼らの心の内側(信仰)に踏み込んで考察しようと試みた本であり、本屋で見かけた時はまさに「こういうのを待っていた」という感じですかさず購入した。しかしよりによって鎌田東二がこんな本を書いていたとは知らなかった。著述家としては充分に自分の守備範囲であり、まさかこんな身近に該当者がいたとは自分の目はなんという節穴だろう。
 鎌田東二は「魔術的文体をもつ」と評された3人のうちの1人であり(あとの2人は中沢新一と松岡正剛)、いわゆる宗教学の「最終兵器(笑)」のような人物。(この表現は“凄い”という意味もあるが言動が“危険”という意味も半分くらいある。)著作を読むと「鬼は実在する」とか「心に思ったことは物理的な影響を周囲に与える」とか、かなり“ぶっ飛んだ”文章が真剣に書いてあるので初めて読むと面喰うが、これはまあ岡本太郎や梅原猛の場合と同様に、彼一流のレトリックとして好意的に見ておくべきだろう。その部分さえ目をつぶればあとは結構良いことが書いてあるわけだから。

 本書によれば、宗教テロを理解する上でのキーワードは「呪い」である。他者を呪うということは最終的に死に至らしめること、すなわち「呪殺」であり、その心の有り様(心境)が「魔境」なのだとか。
 著者は35歳のときに深刻な精神的危機を経験~克服したとのことで、その心身状態は確かに「魔境」としか言いようのないものであったらしい。それを長期間の不眠による幻覚症状であるとか統合失調だとか、一般的に知られている言葉で置き換えて理解した気になることは幾らでも可能だろう。しかしどんな名前を付けられようとも本人にとっては、それらが外部から圧倒的な力で自分の中に侵入してくる悪魔のようなモノであることには変わりがない。
 その時鎌田は、すがりつくような気持ちで参加した富士登山で、日の出を迎えた時に感じた神秘体験によって辛うじて助かったとのこと。そして麻原彰晃も酒鬼薔薇聖斗も鎌田が経験したのと同じ「魔」に取り込まれ、彼らは遂にそこから出てくることが出来なかったのだと断ずる。すなわち鎌田東二にとっては、オウム事件も酒鬼薔薇事件も乗り越えなくてはならない思想的課題であったのだという。
 それでは「魔/魔境」とは一体何なのか? 著者はドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』や村上春樹『海辺のカフカ』など古今東西の文学を引き合いに出しつつ、また鈴木大拙や平田篤胤ら先達の思想を(偏向部分については批判しつつも参考にできる部分は)貪欲に取り込むことで、勇躍「魔」に切り込んでいく。

 先に結論を述べてしまおう。「魔」とは宗教を考える上で避けて通れない表裏一体のリスクであるとのこと。死や病苦といった苦しみから逃れ安らかな心境に至ることが、信仰を持つことの理由/目的であるとすれば、“霊的”なステージを高くして「悟り」を得ることは、ある意味で最終的なゴールであるとも言える。ただし(『空の思想史』の感想でも述べたように)「悟り」の状態はあくまでも一瞬であって、大事なのはそこから現実世界に帰還したのちに森羅万象の絶対肯定に向かうことである、というのが仏教の(そしてとりわけ密教の)重要な教えとなっている。それを勘違いして「悟り」に至る階梯に絶対的な価値を見てしまう時、生まれてくる心の状態こそが「魔」なのであろう。一度「魔」に巣食われてしまった心は、もはやいくら信仰を深めようが決して平安を得ることは出来ない。また「魔」を否定しようとして行を積めば積むほど逆に増長や慢心を呼び込む隙を生み、いつの間にか心の中に「魔性」が巣食ってしまうという恐ろしいこの矛盾。(ちなみにこの状態を妖怪として表したのがすなわち「天狗」なのだとか。)
 いったん「魔」に取り込まれてしまった人間は、自分の中の「魔」に決して気付きはしない。そして常に自分以外の人間が「魔」を持っているがごとく錯覚する。特に師匠と弟子の関係がきわめて重要視されるような宗教において、師匠が『自分はついに解脱(悟りを得る)に至った』と述べた場合、弟子は師匠が「魔」に魅入られてしまったのか、それとも本当に解脱できたのか果たして正しく見極めることが出来るのであろうか?
 著者曰く、神道には昔から神の言うことが正しいか正しくないかを人間が見極めるために「審神(さにわ)」という方法が存在するのだとか。しかしそれでも見極めは非常に難しいだろう。それではどうすればよいのか?
 鎌田によれば、大切なのは「修行」によって達成した体験や境地といったものの「価値」を、自ら二重否定し続けていくことであり、それがいわゆる「菩薩道」なのだという。ちなみに菩薩とは『自ら菩提を求めつつ衆生済度に挺身する“利他行”の実践者』のこと。他者への愛(=慈悲)の実践をおこなう、つまり痛みや苦しみを共にしてあるがままに受け止め「智慧」によって浄化する者、それが菩薩。この菩薩の「慈悲」と「智慧」こそが「魔」に魅入られない重要なキーワードなのだと著者は言う。

 ひるがえって麻原彰晃の場合はどうであったか。
 著者は麻原彰晃の初期の著作である『超能力「秘密」の開発法』という本を執拗に分析する。そして麻原の著作は(彼が以前入信していた阿含宗の教祖・桐山靖雄にも共通することであるが)、記述が極めて即物的且つ具体的なレベルに終始していることに気付く。『超能力「秘密」の…』に書かれているのは、空中浮遊や幽体離脱といった超能力を得るための修行方法(=手段)だけであり、その力がそもそも何のために必要なことなのか(=目的)は全く説明がされていないのだ。「空中に浮かぶ」といった具体的な成果を期待する修行であれば、到達の度合いに応じて絶対的な評価を期待されるであろうし、そこからは「魔」の境地に陥るまであと僅かだろう。
 麻原彰晃が初公判(1996.4)の意見陳述で述べたところによれば、オウム真理教においてはさらに“聖無頓着”と呼ばれる境地を求める修行が推奨されていたのだという。それは「想像力」をゼロにする修行だそうで、麻原にとっては尊師への無条件の服従をしやすくさせるという意味でしごく便利なものだったろう。けれども想像力を欠くことに依る狭量さ/他者への非寛容さは破滅へと直結している。他者の苦しみや悩みに共感できず、自分勝手な思い込みや解釈により実行される行動は、連合赤軍による浅間山荘事件を例にとるまでもなく「地獄」を招き寄せるだけである。それを強要されるということは「スピリチュアル・アビューズ/精神的・霊的虐待」(by藤田庄市)に他ならない。

 古来、様々な宗教においては、修行する者が目指すべき理想を明確にするため、神の形を具象化(観想)するという方法を開発してきた。そして理想の象徴としての「神」を希求しつつ、同時にあくまでも自分とは別のものとして意識することで、自分を客観視して“負のフィードバック”をかけ、それにより精神の安定を保ち続けるという安全弁が準備されていた。しかし麻原彰晃や酒鬼薔薇においては各々「シヴァ神(ヒンズー教の神)」もしくは「モバイドオキ神(独自で考え出した神)」という神を、自らと一体のものとして認識してしまっていた。こうなると“正のフィードバック”により認識のズレが増幅されるばかりであり、もはや歯止めが効かなくなる。後は精神的に崩壊して自滅するか、もしくは治療を受けて“リセット”するしか方法はない。(ちなみに前者が麻原彰晃におこったことであり、後者が酒鬼薔薇聖斗に施されたことであろう。)
 「魔」に魅入られたものは他者との間に正常な関係を保つことは出来ない、自らが恣意的に想定した理想(神)を絶対視してしまっているのだから。矛盾が生じた場合には、それを解消するには他者の抹殺しか方法はない、すなわち「呪殺」である。他者の排除を目的として行われるそれが不特定多数に対して行使された時、テロが発生する...。これが宗教によるテロのメカニズムである。

 そもそも宗教とは生きることでの“苦しみ”を和らげるために用いられるもの。明らかな病気であれば精神科や心理療法にかかることも一つの手だが、例えば虚弱体質の人はトレーニングジムに通ったり漢方薬を飲んで体質改善する方が良い場合もあるだろう。しかし仮に正しい薬であっても、専門家の助言によらず生半可な知識でデタラメに服用すると(効き目がなくてお金を損する程度ならまだマシで、)ヘタをすれば体を壊したり生命にもかかわることがある。ましてや興味本位で通信販売の粗悪品に手を出したりすれば唯では済まないのは、薬に限らず宗教でも同じということだろう。

<追記>
 自分は思想としての宗教には興味があるが、宗教の実践には全く興味が無い。個人的な信仰の価値は認めるが、それが集団化してドグマ(教義)と化した段階で、大事なものが抜け落ちてしまう気がして許せなかった。しかし信仰を深めること自体にこれだけの高いリスクがあるとするなら、それを回避する仕組みを伝承するシステムとして、宗教にもそれなりの価値があるのかも知れない。
 まあいずれにしても自分には興味がなく、死ぬ間際にでもならなければ信心などという殊勝な心掛けは生まれそうにないけど。それに死にかけであれば、万が一「魔」に魅入られたとしても誰にも迷惑をかける恐れはないだろうし。(笑)
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

最新記事
カテゴリ
プロフィール

舞狂小鬼

Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

最新トラックバック
FC2カウンター
最新コメント
リンク
月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR