『アレント入門』中山元 ちくま新書

このところ国内外ともにキナ臭い状況が続いている。以前から「暴力」の意味について興味があったのだが、ハンナ・アレントにはまさに『暴力について』という著作があり、いちど読んでみようかと迷っていた。しかしアレントは全くの不案内。そのような著作を初めて手に取ろうとする場合、いきなり高いハードカバーでは外れた時のダメージが大きいので(笑)、まず概要をざっくり頭に入れることにした。ほんとうはこういった解説書ではなく本人の著作を直接読むのが一番なのはわかっているのだが、どこから手を付けて良いかすら判らない時はまず視座を頭に入れておきたいのだ。
前置きが長くなってしまったが、そんなわけで本書について。本書はハンナ・アレントの思想を著作の時系列、すなわち『全体主義の起源』『人間の条件』『イェルサレムのアイヒマン』、そして連続講義「道徳哲学のいくつかの問題」に沿って俯瞰していくものだ。ハイデガーとの関係やユダヤという彼女の出自から出発し、やがて到達し得た独自の道徳哲学を解説する。(本書を読んでみて、『暴力について』それより『人間の条件』や『責任と判断』といった辺りの著作を先に読んだ方がいい気がしてきた。)
中身についても軽くふれておこう。端的にいえばアレントは「なぜナチスに代表される全体主義が発生し」、そして「それを食い止めるには何をすれば良いのか」を考察した人といえる。そして彼女は人々が社会的に「孤立」の状態に置かれていることこそが全体主義の温床となると指摘し、対抗するには「公的な領域」を作り出す事と、その中で人々のまなざしの下に行動することが重要であると説いた。それが示されているのが冒頭に挙げた『全体主義の起源』および『人間の条件』というわけだ。
本書によれば、アレントは人間の行為を「労働」「仕事」「活動」の三つに分けて定義し直しているそうだ。最初の「労働(labor)」とは個人の生命維持に必要な行為であり、次の「仕事(work)」は世界に何らかの"作品"を残し人々の間に"世界"を構築する行為。そして最後の「活動(action)」は、人と人との間に交流を生み出す行為であるとのこと。全体主義に深く関わりがあるのは、これらの行為のうち最後の「活動」であり、具体的な事例としては古代ギリシアのポリスにおける「民会」が引き合いに出されている。
古代ギリシアにおいて民会すなわち「公の場」で発言するのは、自由な市民として他の市民を説得しようという意思の表れ。発言する者はその行為によって、自らがどんな存在なのか周囲に暴露する危険を引き受ける覚悟を持つ。また他者に意志を示すということは、すなわち他者から反論される危険性を引き受けることでもある。(インターネットのブログやSNSをみていると、現在は自分の主張はしても前述のような「危険」を引き受けようとはしない人もけっこう多い気がする。SNSはまるで私的空間のような親密さで見ず知らずの人とも気軽にコミュニケーションを取れるのは良いのだがまた一方で暴走の危険も孕む。自分の世界を大事にするのであれば、あえて他者の視線をもっと意識するべきなのかもしれない。)

閑話休題。しかしアレントによれば、そのようにして危険を冒しながらも公の場で発言することが、すなわち他者と異なるその人自身の「他者との差異性」を明らかにする方法に他ならない。そして先に述べたように、「公的な領域」を通じて人同士が交流することこそが、全体主義に絡め取られないために必要な行為なのだ。(*)

   *…ただ、アレントが「公的な領域」と「私的な領域」の区別を強調しすぎているような
      ところが、若干気にはなった。カレントが私的領域と呼ぶ家庭といえども、家族と
      いう自分以外の人間との関係性が生じるなら権力は発生するわけで、ある種の
      「公的空間」と呼んでも差し支えないのではなかろうか。そのうち積まれたままに
      なっている『人間の条件』を直接読んで確認してみたい。

次はアイヒマン裁判の傍聴記である『イェルサレムのアイヒマン』。この本で彼女はナチスの「良き歯車」であろうとしたアイヒマンの裁判を傍聴してレポートにしたためる。彼女はアイヒマンの「恐ろしいほどにノーマル」な印象が与える「悪の凡庸さ」に衝撃を受け、そして深い思索の末にアイヒマンに彼女なりの「死刑判決」を下すのだそうだ。
それは単にアイヒマンが非人道的な行為に加担したからでも、犠牲者があまりに多いからでもない。彼女が「死刑判決」を下したのは、彼が「この地球に誰が住み誰が住んではならないかを決定する権利を持つかのように」振る舞い、その行為を実行したからなのだという。そのような人物だからこそ、地球上で誰からも「ともに天を戴く」ことを望まれないであろう――ということこそがその理由なのだ。(このあたりのアレントの批判は問題の核心を突いている感じがする。)
自分が思うに、これは他国の人々や透析患者へ暴言を吐く人たちにも通じる批判であるまいか。そしてアレントが生涯を通して追究した「思考する力は人が悪を為すことを防ぐことができるのか、という問いは現代に生きる我々にこそ問われなければならないものではないかという気がする。ふうむ、重たいテーマだ。

<追記>
キリスト教徒やユダヤ教徒、そしてイスラム教徒といったいわゆる“啓典の民”にとっては、神の定めた戒めを破ることがすなわち罪になるのだろうと思う。いっぽうで自分も含め宗教に対して不信心な一般的日本人にとってはそうではない。我々にとって神の戒めの代わりになる価値観は、昔は「世間体」というものだったと思われる。しかし地域のコミュニティや大家族制が崩壊した今となっては、「世間体」なるものはほぼ死語に等しくなってしまった。そしてSNSでは代用となる価値観を提供するにはあまりに狭くまた弱い。結果、よく「ぶれる」のだ。
かつて「神が死んだ」時代に、それに代わるものを哲学で打ち立てようとしたのがニーチェだったと思うのだけれど、ポピュリズムと同様、全体主義の道具としていいように使われてしまった。哲学は困難な時代に人々の救済にとって強力な武器になると思うのだけど、色々な理由でそれが受け入れられない人はいる。遥かな昔それを支えていたのが信仰だったのだろう。だからこそ鎌倉の戦乱の世に、悟りを開くための修行をする力も時間もない衆生のため、法然や親鸞らが南無阿弥陀仏を唱えたのだ。
しかし信仰すら確固たるものを与えられない時代においては、カルト化もせず普遍的な救済を与えるのは大変な困難を伴う。してみると未来の哲学や社会学や政治学の使命は、信仰に代わるものを生み出すことなのかもしれない。そしてそうでなければ、本来の目的を果たすことが出来ないのではあるまいか―― とまあ、そんなことを考えてみたりもするのだ。
読まなきゃね、アレント。
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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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