『哲学は資本主義を変えられるか』竹田青嗣 角川ソフィア文庫

 ※今回はちょっと固めですがご容赦ください。

 前にも書いたことがあると思うけど、自分が日本の思想家の中で一番おもしろいと思うのが竹田青嗣氏なのだ。『現象学入門』(NHKブックス)を読んでその面白さに驚き、氏の著作を遡って読んだ後は、新たに思想入門書がでるたびに片っ端から買って読んだ。
 最初の頃の哲学者としての氏の活動は、「エロス」(注:エッチな言葉ではなく“生の躍動”といった本来の意味なのでお間違えなきよう。/笑)をキーワードにした、「生きる」ことへの思索が中心だった。しかしその後は、西研氏らと共に立ち上げた研究会でヘーゲルやカントの著書を原書で徹底して読み込むことで、新たな段階に進んでいる。(とかエラそうに書いているけど、実際には著書を読んで「ほえー」と感心しているばかりなのだ。/苦笑)
 今の氏の活動がどんな状況であるかを自分のつたない理解で要約してみると、「現象学や実存哲学をベースにしつつ、ヘーゲルが『精神現象学』で提唱した「自由の相互承認」という概念に基づいて、現実社会で誰もが幸福に暮らせるための哲学的な原理を構築する」といったところだろうか。
 「哲学なんて実際の生活に何も役に立たない」という意見は良く聞かれるものであるが、自分は(竹田青嗣氏と同様に)そうは思わない。哲学は原理的で根源的であるがゆえに却って、あらゆる社会生活の局面で考え方の基盤になりうるものだと思っている。ちなみに哲学が社会と関わり合うときの基本的なモデルは「公共のテーブル」というだと竹田氏は述べているが、これは当初ハンナ・アーレントにより提唱されたものだそうだ。たとえば科学が「唯一の真理」を追究するものだとすれば(*)、哲学はひとつのテーブルで議論しあい「真理」では無く「お互いの合意」を目指すもの。同じテーブルについた人々の間で、いかに納得のうえで合意を取り付けることが出来るかが大事であり、その材料を提供するのが哲学の社会との関わり方なのだ。なお、このあたりの思索については、柄谷行人氏の著作である『トランスクリティーク』(岩波現代文庫)を批判的に考察しつつ、建設的な提案を行った『人間的自由の条件』(講談社学術文庫)に詳しい。ご興味がある方はどうぞ。

   *…科学哲学におけるクーンのパラダイム論を引き合いにだすまでもなく、
     科学で扱われるのが「唯一の真理」ではないことは承知しているが、
     ここではあくまでも便宜的にそう書かせてもらった。なので深くは突っ込
     まないで頂きたい。(笑)

 前置きが長くなった。本書『哲学は資本主義を変えられるか』は当初『人間の未来』という題名でちくま新書から出た本を改題したもので、ヘーゲル哲学を再考した前著『人間的自由の条件』への批判に応えるため議論をさらに深掘りし、前著のラストで簡単に示された展望をさらに追究したものとなっている。例によって自分の備忘録も兼ねて、内容について以下にざっと紹介してみよう。

 本書で中心となっているのは、だいたいヘーゲルおよびマルクス思想の哲学的な原理解釈。資本主義を歴史上初めて出現した「持続的な拡大再生産を可能にする経済システム」と定義して、それは「普遍交換」(≒大量輸送による商業)に「普遍分業」(≒商業により促された分業制による拡大生産)、そして「普遍消費」(≒何らかのかたちでの大量消費)という三つの原理によって支えられていると説く。(もちろんバタイユの“過剰なエネルギーの供給とその蕩尽”についても言及があったりして、消費社会という化け物のようなシステムを分析するために、色々な思想が総動員されている感がある。)
 さて、これらの原理に基づいて経済システムが動いていくわけだが、そのままでは経済格差や社会的な不平等が発生してしまう。個人の想いが違うことで強制や抑圧が起こり、国と国が互いに覇権を争うことになる。まさにホッブスが「普遍闘争状態」と呼んだ状態である。ではこの状態を解消するにはいったいどうすればよいのだろうか。本書によればその鍵となるのが、冒頭でもふれたようにヘーゲルの「自由の相互承認」であるのだという。(ちなみに竹田氏によれば『精神現象学』をはじめとするヘーゲルの思想は現在かなり誤解されているそうで、当時の社会情勢からくる問題もたしかにあるけれども、その思想の根本は今でも通用する普遍的な価値を持っているそうだ。)以下、もう少し詳しくふれてみる。
 「自由の相互承認」の元になっているのは「法(recht/レヒト)」と呼ばれている概念である。ヘーゲル独特の用法なので一般的な解釈とは違い、これは「法」と「権利」と「正義」という三つの意味を含むものなのだそう。「法(recht)」の行使は何かを「禁止」することを基本とするが、それは権威を持つ者の命令なのではなく、ただ単に「他人の自由(人格)を侵害するな」という意味らしい。(これって仏教が言うところの「自分がされて厭やことを他人にするな」という考え方に近いのではないかな。)
 放っておけば資本主義社会では個人の欲望のせめぎあいが始まり、その結果、強者による弱者からの搾取につながる。だからこそ社会をそのままの姿で放置するのではなく、「人倫(社会的な倫理)」によって制限を加えるべきだというのがヘーゲルの主張。そしてそれは「法(recht)」に基づいたものでなければいけないというのだ。(ちょっと話がややこしいがここは重要。)
 竹田氏は次にヘーゲルの主張を引き継ぐ形で、市民社会たる近代社会が構想されるにあたって一番重要だったのは「完全ルールゲーム」の理念であったと定義し、市民社会こそがそれまでの封建社会から普遍闘争状態の原因になる「暴力原理」を完全に排除して、これを純粋なルールゲームに変えるための試みであったのだと述べる。それは「ほんとう」についての秩序が存在するであろうという信憑を、人々の間につねに育て上げることなのだ。
 こうして市民社会が確立したことによって初めて、平和的議論の土台となる「公共のテーブル」が準備されたことになる。(ちなみに本書ではホッブス/ルソー/ヘーゲルという偉大な思想家3名によって示された近代国家理念の本質的概念のことを、「普遍ルール社会」と呼んでいる。)
 さてとりあえず議論の土台が出来たところで、次に行うのは人々の幸福とは何か?社会は何を目標に構築されるべきか?という考察である。たとえば目標とする理念をひとことで「最大多数の最大幸福」と呼んだところで、「一般福祉」つまり幸福の実現はどのような理念に基づいて追究されるべきかが明確でないと、アーシュラ・K・ル=グインにより短篇「オメラスから歩み去る人々」で示された問題に答えることは出来ない。本書ではそれにどのように応えたか。本書で示された意見を要約すると、おおよそ次のようになるだろう。

 ■人間の生にとって何が「善」で何が「幸福」かは本質的に多様性を持っていて
  一律には決められない。しかし各人がそれぞれの「幸福」を追求する可能性は
  確保されるべきであり、よって社会的な「善」とは、社会の人々が「自らの実存
  の独自な存在可能性」を追求しうる条件が常に確保され、また改善され続けて
  いくこと以外には内実を定位することは出来ない。(**)

 これこそが近代国家の公準(存在理由)の原理として「一般福祉」を置くことができる理由となるのだそうだ。ふむふむ。また本書ではこれ以外にも、「普遍資産」の完全に平等な配分は不可能であることと、大切なのは配分の偏りが各自の仕事の成果に応じていることが、一般福祉の成立条件として示されている。そして役割の分化は各人の資質に合わせた自由な「意志」の決定の結果として現れ、決して権威や権力によって決められたり社会的に固定されるものではないと説く。これはもしかしたら「オメラスから歩み去る人々」で示された問題のひとつの回答にもなり得るのではないだろうか。(あくまでも哲学的原理としてではあるが。)

  **…参考までにヘーゲルの言葉が本書に引用されているので抜き出しておこう。
     「おのれを善と主張する悪(が存在する)」「行為を......自分自身にとって善であ
     ると主張することができる。......そのような行為を他の人たちにとって善であると
     主張するのはいつわりないし偽善(である)」 
     ううーん、やっぱりヘーゲルすごいわ。

 さて駆け足ではあるが本書の議論の内容を見てきた。一般福祉のもととなる「事(こと)そのもの」(byヘーゲル)あるいは「公共のテーブル」(byハンナ・アーレント)という概念こそが、「自由の相互承認」の前提になる相互理解のベースであり、また唯一の方法であるという示唆が示されたことは、確かにあるひとつの社会の中では有効だろうしかし実はまだもうひとつ大きな課題が残っている。竹田氏も述べているように、近代国家同士が「普遍的闘争状態」を克服できていないことこそが問題なのだ。
 そこで終章では、新たに見田宗介氏の「限界問題」という概念を用いて、資本主義における様々な限界問題(例えば地球温暖化に代表される環境問題など)に対処する目的で、国家同士が大きな一般福祉の下に協調しあう仕組みを指し示して終わる。最後の展望がすこしあっさりしすぎて物足りないところではあるが、哲学的原理と社会における実践をつなぐものとして本書はじゅうぶん読み応えのあるものであったと思う。
 そういえば現象学の創始者であるフッサールも『イデーン』などの主著で現象学の哲学的な原理を構築したのち、晩年には『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』で実社会への展望を示したのでなかっただろうか。本書も同様に「哲学は役に立たない」という主張に対するひとつの反証であるといえるかもしれない。

<追記>
 昔から「暴力」の本質とは何かについてずっと考えてきたが、なかなか自分のなかで答えは見つかっていなかった。それが本書を読んでいるうちにふと思いついたので、忘れないように追記しておきたい。
 主観としての立場からいうならば、「暴力」というのは「外部から一方的に与えられ、自らの意にそぐわぬ行いを強制する力」のことではないだろうか。圧倒し侵犯する力。そしてついでに言うなら、「信仰」とは「外部からくる暴力的な力を受容し自らのものとすること」ではないのだろうか。原始ユダヤ教などをみると、そんな気がする。
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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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