『人形の文化史』 香川檀/編 水声社

 なぜだか分からないが昔から人形が怖かった。もしかしたら子供のころに見たテレビ番組か何かがトラウマになっていたのかもしれない。はっきり覚えているのは小学生の時に読んだ楳図かずおの「ねがい」という漫画。主人公の男の子が手作りした「モクメ」という人形が襲ってくるシーンは、夢にでそうなほど怖かった。キャラクターの人形よりも人にそっくりな人形の方が特に苦手で、ひな人形なんかでも夜中に見たらきっと泣き出したんじゃないかと思う。男兄弟だったので家にはひな人形が無かったので良かった。(笑)
 ところがそれが長じてからは、むしろ人形の展示会を好んで観るようになったのだから不思議なものだ。安本亀八の生人形などは鬼気迫る迫力があって、不気味に思うのだけれどなぜかしら目が離せない。「怖いもの見たさ」というのもあると思うが、やはり人形には昔から人を惹きつける“何か”があるのだろう。しかしそれだけ興味がある割に人形の持つ象徴性などの知識を殆ど持っていないのが我ながら情けない。意外と人形の文化的な意味について書かれた本は見つからないのだ。
 そんなわけで本書を店頭で見かけたときには、ちょっと高かったが即買いだった。副題には「ヨーロッパの諸相から」とあるから日本のオシラサマや依代としての人形については書かれていないようだが、いやなに構いやしない。ヨーロッパの幻想小説には人形が数多く登場するので、前から興味があったのだ。
 家に帰ってさっそく読み始めることに。どうやら全体は三部構成になっていて、八名の論客が人形を巡る様々な文化や思想を論じた評論集になっているようだ。
 まず第一部は「<人形幻想>の根源(ルーツ)をさぐる」。西洋世界のヒトガタ(人形)を「神をかたどったもの」として聖性と呪いという観点から論じたり、あるいは民話に出てくる人形の役割や、ヨーロッパにおける自動人形の歴史とそれが日本のからくり人形に与えた影響などが考察されている。つづく第二部は「モダニズム文学にみる人形」と題して、ホフマン『砂男』/リラダン『未来のイヴ』/マイリンク『ゴーレム』という幻想文学を代表する三つの作品のテーマと、各作品に登場する人形がそれぞれ担っている象徴性などを論じている。第三部は「危機の時代の人形愛」。ここでは世紀末から二度の世界大戦を挟む“人が人形にされた時代”に生まれた、ダダイズムによる舞台芸術やプリッツェルおよびベルメールという特異な人形作家たちの作品を紹介している。社会学や文化人類学的なアプローチによって書かれた文章はどれも読み応えがあり、さらには途中に付章としてからくり人形師・半屋春光氏と人形作家・四谷シモン氏へのロング・インタビューも掲載されているなど、ふたを開けてみればかなり“お買い得”だった。以下、順を追ってもう少し詳しくふれていこう。

 例えば第一章「神のかたどり」(踊共二氏)では、西洋における“ヒトガタ”に込められた意味と人形文化の系譜を辿ってゆく。氏によればヨーロッパにおける捉え方として、人形を人より上の存在とみるか下とみるかでまったく正反対の見方が存在するそうだ。神の被造物たる「自然」よりも、人工物たる人形を上と位置付けて偏愛するならば「反自然主義」。そして自然や人が“生”の側にあるのに対し、人形はあくまでも生命を持たぬ“死”の側にあるとするのが「自然/人間至上主義」とのこと。人形はこれら二つの立場を併せ持つ両義的な存在なのだそうだ。また第二章「民間伝承のなかの人形」(嶋内博愛氏)では、ドイツを中心として民間伝承にみられる人形の扱いを分析して、人形が動く場合には製作者などにより生命を吹き込まれて新たな“生き物”として動き出す場合と、単なる呪術の対象として人形そのまま(=非生命)で動く場合があることを明らかにする。本論を読む限りでは、ヨーロッパでは人形に最初から生命が宿っていることはないようだ。(*)うーん、なかなか深い。

   *…「日本の民話であれば、道端で拾った人形が主人公を助けるという話(中略)
      はあるが、作ったものに生命を吹き込むというものはぴんことない。人間の関
      与なしにモノに生命が宿る(ないし宿っている)ことはないのか。つまりそれは
      超自然的力の源をどこにみるかという問いともつながる。」

 この手の話に目の無い自分としては第一部もかなり面白かったのだが、やはり本書で一番愉しみにしていたのは第二部の『砂男』『未来のイヴ』『ゴーレム』の論考だった。(そして期待は裏切られず、かなりの読みでがあった。ただし作品を読んでいないとせっかくの論考が十二分に愉しめないと思うので、是非とも本書を読むときには先に作品に目を通しておいていただく方が良いと思う。)
 「E.T.A.ホフマン『砂男』と自動人形」(光野正幸氏)はホフマンの原作とそれを基にしたバレエやオペラ作品における人形の扱いの違いについて書かれていて、音楽作品には疎いのでとても興味深く読めた。
 リラダン『未来のイヴ』を取り上げた「人造人間の魂」(木元豊氏)では「人造人間に魂はあるのか?」という主題で作品を分析していく。ここで気になったのは、キリスト教における”魂”とはいったい何なのかということ。よく知らないのだが、本考を読む限りではどうやら知性や意思と同じものではないようだ。生命反応の元になる何かということなのだろうか。日本における依代とは神やその他のモノを降ろすための器なのだが、そこでは意思と生命は不可分になっている気がするので、西洋と東洋における”魂”の違いがとても気になった。
 三作品の掉尾を飾る「中欧の〈宿命的な痕跡〉を刻む人形」(桂元嗣氏)という論考は、本書の中でも出色の出来と思われた。ゴーレムを従来の映画のように“不完全な従者”の如きイメージではなく“未分化なもの”としてアフロディーテとの対比まで順に読み解いていく論考は、人形という主題から切り離しても大変に面白い。氏によればゴーレムとは旧約聖書「詩篇」第百三十九章十六節に一度だけ出てくるヘブライ語に由来するとのことで、「まだできあがらないわたしのからだ」の意味なのだとか。「神の息がまだ吹きかけられていないアダム」と位置付ける人もいるらしい。だとすればマイリンクの『ゴーレム』本来の意味に近いということになるだろう。
 第二部の最後におかれた付章②「フランスの黒人人形と植民地主義」ではフランスの万博などで展示された黒人人形の変遷を辿るもの。ヨーロッパ各国がアフリカを奴隷の供給地として位置付けるのでなく、アフリカ大陸そのものを支配する方向へ舵をきり、それが本格化するのは1880年代以降の帝国主義時代とのことで、まさにコンラッド『闇の奥』(1899)の頃というわけだ。黒人人形や日本人形はフランス人の異国への憧憬から生まれたものではないかと思うのだが、もしかしたら『ポールとヴィルジニー』(1787)のようなロマン小説の影響もあるのでは無いかとも思った。(思いつきだけど。)

 第八章は「予兆のなかのベルメール人形」。ベルマー(ベルメール)に至る前の時代に登場した、ロッテ・プリッツェルによる蝋人形の写真が妖しくも美しい。そしてダダや新しい表現主義を経て、グロテスクでエロチックなベルメール人形とシュールレアリズムが結びついてゆく......。澁澤龍彦の愛読者にはお馴染みのベルメールだが、こんな時代背景があるなんて知らなかった。(**)

  **…「人形写真」という芸術ジャンルがあるということも本書を読んで初めて知った。
      写真を撮ることで人形に生命を付与する。あるいは写真になることによって限り
      なく人間に肉薄していく。ベルメールの球体関節人形は実は写真に撮ることで
      作品として完成するものであり、実物をみてもあまり面白くないそうだ。人形の
      壊れた身体を写真で見せることで、背徳的だったり不気味であることが“生”の
      力を人形に吹き込むのだという。これはとてもよく解る気がする。

 なんだかとりとめのない話になってしまったが、人形をめぐる様々なイメージを繙いていく本書は、知的興奮に溢れたとてもよい本だった。それにしてもなぜこんなに人形が気になるのだろう。怖いもの見たさもあるけど、どうしても気になってしまうのだよねえ。もっと人形の出てくる話が読んでみたくなったので、そのうち『ピグマリオン』でも読んでみようかな。
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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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