『愛国と信仰の構造』中島岳志/島薗進 集英社新書

 現代史にも詳しい宗教学者の島薗進氏と宗教に造詣が深い政治学者の中島岳志氏が、日本の政治状況を「国家と宗教」の関わりという観点から分析した対談集。現在の政権が掲げ日本が向かいつつある全体主義的傾向の根源を、明治維新後に当時の政府がとった「神権政治」と「立憲政治」の二重構造に見て取る。政治的および宗教的な価値判断が絡むためすべての意見に首肯できるわけではないが、少なくともその論旨は明晰で説得力と示唆に富んでいると思う。このような観点から日本を語る本はあまり見たことが無かったので、大変に面白かった。以下、元々知っていた話と知らなかった話をとりまぜながら、簡単に本書の内容と論旨を整理してみる。
 まず冒頭の第一章で示されるのが、日本における全体主義を分析するには戦前のファシズム期からではなく、さらに時代を遡って明治政府により為された国家デザインを考えなければいけないという視点だ。昭和になり一気に進んだ全体主義の萌芽が、実は自由民権運動が盛んで開放的だった大正期に秘かに進行していたのだという。
 本書で紹介された社会学者の大澤真幸(おおさわまさち)氏の研究によれば、およそ25年という周期で社会意識が大きく変化しており、明治維新からの75年(①明治維新から日清戦争まで/②日清戦争から第一次世界大戦の大戦景気まで/③戦後恐慌から太平洋戦争勃発まで)と、敗戦からの75年(④敗戦から高度経済成長の始まりまで/⑤大阪万博からバブル景気まで/⑥バブル崩壊から失われた10年を経て現在まで)が非常に似た構図になっているのだという。氏によれば①と④はひたすら“富国強兵”や“戦後復興”へと右肩上がりで上昇していった時代であり、②と④はこの世の栄華を満喫できた時代、そして③と⑥は不景気や社会不安が蔓延している時代として見事に照応しているのだ。ふむふむ、なるほど。
 ではなぜ不景気になり社会不安が広がることで、③の時代に日本は一気に全体主義へと突き進むことになったのか。本書によれば、その直接的な原因は社会との軋轢で「煩悶」をかかえるインテリ青年たちと、先が見えない将来への「不安」を抱える大衆にあったのだという。(現代でいえば過去の家族主義的な価値観にしがみつく政治家や、自国経済の凋落と隣国の繁栄への焦りからくるネトウヨ化した市民にあたるだろうか。)ナイーブな青年たちが抱える煩悶が社会や世界と結びついた時、国家を超えた何かと一体性を求めるような思想となる。このように、自我をめぐる苦悩が極端で危険な観念の土台となる構図は、笠井潔氏による名著『テロルの現象学』で示された赤軍派の若者たちの姿と見事に重なって見えてくる。宗教であれ思想であれ、いずれにせよ「絶対」を求めると碌な結果にならないのは確かであり、美しいとか強いとか恣意的な基準で語られる理想もまた同じことなのだろう。
 しかし青年や大衆の意識が変化した“だけ”で、そんなに簡単に世の中がひっくり返ってしまうものなのだろうか。まして普通選挙の実施により国民主演が徹底されている現代とは違い、“お上”による支配がなされていたはずの明治時代に......。本書を読みながら頭に浮かんだ疑問についても、さらに読み進んでいくとちゃんと説明がなされている。
 維新により幕藩体制から西洋的な近代社会へと大きな改革を成し遂げた当時の明治政府は、欧州の列強により支配されるのを防ぐため急激な富国強兵の道を進んだ。そしてそれをならしめたのは体制の二重構造だったというのだ。まずひとつめは天皇をその中心に据えた「神権政治」であり、そのための具体的な方法こそが、靖国神社を頂点とした国家神道の仕組みの整備と教育勅語による臣民教育の推進とそれによる天皇の神格化だった。(江戸しぐさではないけれど、日本の伝統と呼ばれる文化は意外と歴史が浅かったりするのだ。)
 そしてもう一つの体制は帝国議会や大日本帝国憲法を中心とした「立憲政治」。明治政府は自分たちは実質的には西洋的な国家運営を行う一方で、国民に対しては神権政治を隠れ蓑にした強引な支配を進めようとしていたのだという。しかしその思惑は上手くいかなかった。やがて膨張して大きなうねりとなった神権政治の流れは、政府が制御しきれないほどの勢いとなって5.15事件や2.26事件を引き起こし、太平洋戦争へと暴走していくことになる―― これが本書で示された大まかな全体主義国家への道筋だ。

 現代社会の抱える様々な矛盾や問題の原因が実は明治期まで遡るという考えは自分も以前から持っていたので、本書の主張には概ね納得できた。もともと宗教は国家主義との親和性が高いという話についても、日蓮宗や田中智学の国柱会と宮澤賢治の関係などについては知っていたが、浄土真宗における親鸞の絶対他力と国粋主義の親和性の高さについては知らなかったので新鮮だった。(*)

   *…大雑把にいうと、自らの考えをすてて阿弥陀如来に絶対帰依することを
     幸せとみる思想は、天皇の考えこそが国家安泰と臣民の幸せに合致する
     という形に置き換えられたとき、いともたやすく全体主義に替わるというもの。

 いっぽうで本書における両氏の主張には、首肯しかねる部分も若干見受けられた。一例を挙げると、「人が生きていく上で信仰は無くてはならないものであるため、完全な政教分離の実現は不可能。であれば行き過ぎた世俗主義の弊害を正すため、いっそのこと政治のシステムに有る程度の宗教的基盤を予め組み込んだ方が良い」というものだ。これは自分としては納得できない。今以上に危険な状態へとつながる可能性があるのではないだろうか。うまく言えないけど、中島氏や島薗氏の根底には、人間の営みは「よりよくあらねばならない」という価値判断が含まれているような気がする。人にとって信仰とは何か、社会にとって宗教とは何かについて、もっともっと深く掘り下げないといけないのではないだろうか。
 以上、まあ色々と書いたが、今の社会をみる上で大きなヒントになる本であることは間違いないと思う。少なくとも明治からつづく思想的な地下水脈を見える形にしたことは、評価されてしかるべきではないかと思う。刺激的で大変面白かった。
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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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