『プラグマティズム入門』伊藤邦武 ちくま新書

 「プラグマティズム」については高校の倫理社会の授業で習った程度で、“アメリカを代表する哲学であり実践を重視する”というぐらいの知識しかなかった。いきなり難しい専門書を読むのは嫌なので、まずは全体像が俯瞰できる入門的な本が読みたい―― そう思っていたところ、今回ちょうど手ごろな新刊本を見つけた。ちくま新書は昔から色々な哲学入門シリーズを出しているのだが、今回はいよいよアメリカを代表する実践哲学プラグマティズムだ。本書では150年に亘るプラグマティズムの歴史と変遷を三つの時代に分け、パースから現代まで13人におよぶ人々の思想を紹介している。(*)

   *…プラグマティズムは19世紀にパースによって創始され、ジェイムズやデューイ
      らによってその骨格が固まった。その後いったん下火になったものの、70~80
      年代にはクワインやローティーらによって新たに「ネオ・プラグマティズム」と
      呼ばれる運動がおこり、そして90年以降の広がりを経て現在のプラグマティズ
      ムに至るのだそうだ。

 結構、各々の思想の中身に踏み込んで解説しているので、聴きなれない単語や知らない人物も多く出てきて少し苦労するがその分読み応えがある。プラグマティズムは「実用主義」とも訳され、アメリカの基礎になる思想であるとも言われる。しかしその後、社会運動やビジネスにまで展開されることで焦点がぼやけ、部外者にはとっつきにくい概念になってしまったのではないだろうか。(少なくとも自分がそうだった。)本書ではふらふらと掴み所が無いこの思想について、本来の形である哲学からのアプローチで説明してくれるので視点がぶれない。本書を読んで意味がやっと解ったような気がしている。(あくまで気のせいかもしれないが。/笑)
 しかしさすがに多くの人が絡んでいるだけあって、知れば知るほど源流から現代まで紆余曲折している。同じプラグマティズムで括られる思想でありながら、個々はほとんど別物といっても良いほどだ。とても全部はまとめきれないが、まあ印象に残ったところだけでもあげていこう。

 冒頭にも書いたようにプラグマティズムはチャールズ・サンダース・パースによって、ケンブリッジ大の学生たちによる「形而上クラブ」という集まりの中で産声をあげた。(パースは哲学だけでなく論理学・数学・科学など多くの分野でも優れた業績をあげた、文字通りの天才だったらしい。)名前はギリシア語で行為や活動、実践などを意味する「プラグマ」という言葉からとられたもののようだ。。
 この考え方はもともと、デカルトやカントといった観念論にみられるような、この世の現実とかけ離れた「真理」を規定することへの疑義から始まったもののよう。とても乱暴な言い方をすれば、形而上学的な「真理」などというものは無く、我々が生きるこの世界にとっての意味しかないという考えかたになるだろうか。
 パースは真理の探究方法としてデカルト的な方法的懐疑を不完全なものとして退け、代わりに最も優れている方法として「科学的探究」をおいた。これは「帰納的推論」と「仮説形成的推論(アブダクション)」、それに「演繹的推論」という3つの推論パターンをより合わせたものだそうだ。そして本当の「真理」とは哲学者という個人(=ひとつの理性)による探究によって得られるものではなく、複数の人間による“理想の共同体”による探究の果てに収束する最終的な信念であるとした。ふむふむ、まさに“実用主義”だ。なお、この「唯名(≒真理)論vs実在論」という図式は、(その後バリエーションが増えたにせよ)いまだにプラグマティズム全体に共通する特徴になあっているらしい。
 この新たな思想はその後、パースの盟友であったウィリアム・ジェイムズによって世に広く知らしめられることになった。しかしこの時点で既にジェイムズの考え方はパースとは違うものになっていたよう。彼にとって「真理」とは概念の定義ですらなく、あくまで実際に生きる行動を起こすうえで有用な「道具」でしかない。パースよりも更に極端な彼の思想からは、反デカルト主義という伝統の他にもうひとつ、「多元主義(=人の数だけ心理がある)」という重要な特徴が導き出されることになる。

 うーむ、ここまで読んで首をかしげる。これには自分としては同意できない。デカルトの方法的懐疑を不徹底であるとしたのは良いとしても、同じくデカルトへの批判から方法的懐疑をさらに徹底することで生まれた“現象学”に大きな影響をうけた身としては、パースやジェイムズの主張には納得できないことだらけだ。(笑)
 どうやって複数の人間の解釈の違いからくる誤謬を防ぎ、どうやって考えを収束させるというのだろう。無理やり収束させたとしても、それは単なる妥協の産物に過ぎずその時々で変わるため、とても「真理」と呼べるものではないのでは?あくまでも行動の効果としてのみ真理を認めるという考え方には、どうもデカルト以上の不徹底さを感じてしまう。あれこれ考えながらさらにページをめくる。
 どうやらジェイムズの場合、真理とは行為に至るための信念や観念すなわち「信じようとする意志」あるいは「信じる権利」の先にあるもののようだ。つまりある行為を為そうとしたとき、道具として有効であったものこそがジェイムズにとっての「真理」という定義なのだ。(著者によればジェイムズにとってこのような批判は既に想定済みの内容なのだそうだが、ただしその反論も根拠を「論理」ではなく「気質」に求めることで相対化するという大技なので、自分にはちょっとついていけない。こんなツッコミだらけの本を最後まで読み通すことができるだろうかと、だんだん不安になってくる。/笑)
 しかしその次に紹介のあったジョン・デューイはなかなか面白かった。彼は哲学がなぜ人間の持つ知識の確実性を探求するのかについてある種のメタ哲学を展開していて、さきほどまでの素朴な議論とは少し異なる感じ。「真理の探究とは有機体が様々な環境のもとで自己の平衡を取り戻すため、降りかかった問題に対処する行為として解釈されなければならない」なんて主張は、まるで“アフォーダンス”みたいな発想ではないかと思う。ここまでくるとプラグマティズムにおける「真理」とは過去の哲学のように絶対的な意味での確証でも客観的なものでもなくなり、あくまでも問題が発生した社会や言語や時代に即して示唆可能な仮説に依存する「限定された意味での保証付き信念」に過ぎないことになる。うん、この話は納得できる。

 気を取り直して第2章へと進む。この章ではプラグマティズムがヨーロッパにおける論理実証主義の勃興とともに下火となったのち、新たな思想家の再評価により復活を遂げ「ネオ・プラグマティズム」と呼ばれるようになった70~80年代が紹介される。ここでまず取り上げられるのは、今でも現代思想の本で名を見かけるクラインという思想家だ。彼によってプラグマティズムの再評価(ただし彼はパースに対しては若干批判的な面も。)が始まり、ついでリチャード・ローティーによる先鋭化とパースの否定、そしてその結果による徹底した相対主義化を経て、最後にはパトナムによるパースへの揺り戻しがなされるというのがネオ・プラグマティズムの大まかな構図。
 ちなみにローティーはクワインよりもさらに過激だそうで、クーンが科学哲学に大きな衝撃を与えた「パラダイム論」(**)に依拠しつつ、プラトンからデカルト、ロック、そしてカントまでの一連の思想をひとからげにして「破綻したもの」であると退けてしまう。そして真理とは「人々がレンチという形で(社会の中で)共有しうる信念」であるとまで言い切って、科学から文学、道徳、そして政治まで含むありとありとあらゆる知的活動はいずれも人が考え出したものに過ぎないため行動理念として優劣は無く、すべてが平等であるとする極端な多元論を展開する。(まるでパースに対するジェイムズのようだ。ローディの主張自体は理解できるものの、考え方そのものに首肯できるわけではない。彼が主張する「自文化中心主義」というのが単なる相対主義と結局のところどう違うのかさっぱり解らなかった。)

  **…たとえば天文学における天動説からコペルニクスの地動説への転換のように、
      科学による“真理”も決して絶対的なものではなく、その時代の科学者たちに
      よって了解が得られた主観の共有(=パラダイム)に過ぎないという考え方。

 次に登場するのはヒラリー・パトナム。名前はヒラリーだが男性だ。彼はクーンのパラダイム論と真っ向から対立する「科学的実在論」から出発した思想家であるにも関わらず、その後まるで正反対ともいえる「内在的実在論」(=カントに似た間接的な認識論)を経由して、最終的にはプラグマティズムと同義である「自然的実在論」というものへと至った“変わり種”だそう。その思想遍歴は目まぐるしく変わったが、最後にはクワインもローティーもどちらも極端な思想であるとして、両者をともに退ける中庸思想へと至ったらしい。ふうむ面白い。パトナムの思想の肝はウィトゲンシュタイン論理哲学の独自解釈であるようなのだが、このあたりまでくるとややこしくて、話についていくのがやっとになってくる。(苦笑)
 またその後も現代のプラグマティズム思想家であるドナルド・ディヴィッドソンやデュエムやセラーズなど、これまで馴染みがなかった哲学者の名前がたくさん出てきて、バラエティ豊かな各々の思想を追うのがちょっと大変になる。また先ほどから挙げているような「アブダクション」や「パラダイム論」といった用語が詳しい説明なく出てくるので、そのあたりにある程度の予備知識を持っていないと読むのがつらいかもしれない。ただし論旨はよく整理されているので、話の内容が判らなくなることはなかった。

 ここで本書のこれまでの内容に沿って、「プラグマティズム」とは何かについてもういちどざっと俯瞰してみよう。プラグマティズムでは真理や客観というものを、主に社会において共有される信念であると捉える。そしてその観点からデカルトに始まる観念論の考え方を批判および相対化し、時と場合と人によって真理の姿は異なるという多元的な見方を主張する。多元的であるがゆえに、同じ「プラグマティズム」というレッテルを使いながらも人によって主義主張がふらふらと揺らぎながら並存することになる。また思想的には「主観とは別に客体(または真理)が存在する」という科学主義と、それとは逆に「あらゆるものは主観に過ぎない」という相対主義(≒パラダイム論)との間を、時代や思想家によってふらふらと往復するものとなる。これまで全体像が見えにくかったのも当たり前だ。また教条主義的な議論よりは、むしろ社会的実践に重きが置かれるという特徴をもっていて、いかにも多民族国家のアメリカで生まれた哲学という気がする。

 以上が本書の大まかな内容と印象。読んでみて「ユリーカ!」と叫ぶようなことにはならなかったが、自分にごそっと抜けていた知識を新しく知ることができたのはとても好かった。とくに科学哲学の背景が判ったのは嬉しい。それではひとつだけおまけの話をしてこの記事を終えることにしたい。
 実はしばらく前から『表現と介入』という科学哲学の本を読みかけのまま放ってあるのだが、その著者イアン・ハッキングがプラグマティズムの思想家だということを本書で初めて知った。たしかに「唯名論vs実在論」をテーマにした本なのだが、その理由がプラグマティズムにあったとは。こんな風に思いがけず繋がるとなんだか愉しいなあ。また続きを読まなくてはね。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

最新記事
カテゴリ
プロフィール

舞狂小鬼

Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

最新トラックバック
FC2カウンター
最新コメント
リンク
月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR