『暴力の哲学』酒井隆史 河出文庫

 むかしから「笑い」と「暴力」の哲学的な意味に興味があって、本を見つけると機会があるごとに読んだりしている。自分が知りたいのはそれらの現象学的な“本質”なので、残念ながらこれまでのところはまだ「これだっ」という本には巡り合えていない。ただし、例えばベルクソンの『笑い』やジラールの『暴力と聖なるもの』なども自分が知りたかった事とは違う内容ではあるが、社会学的な考察であったり文化人類学的な考察であったりして、これはこれで面白かったりもする。
 というわけで今回は本屋の店頭でずばり『暴力の哲学』という題名の本を見かけたので、さっそく買って読んでみた。内容をざっくりといえば、国家による民衆への圧倒的な暴力行使のメカニズムを読み解いて、「マジョリティの恐怖」を煽ることで行われる支配を脱するために無抵抗と従順による“擬似的非暴力”ではなく、例えばマハトマ・ガンディーらのような本来の意味での“非暴力/反暴力”の重要性を説く本とでもいえば良いだろうか。本書も「哲学」というよりはむしろ社会学や政治学に近いものではあったが、しかしこれはこれでやはり面白く色々と示唆に富んでいる。笠井潔氏の評論『テロルの現象学』の最後に示された結論の、さらに先に行ったような印象はある。ではざっと中身に触れてみよう。

 本書では暴力をおおきく3つに分けている。まずひとつめは政治的権力と結び付く暴力。ここには軍隊や警察の治安部隊なども含まれるだろう。残りはいずれも政治と無関係な暴力であって、ニつめは宗教や絶対正義に裏打ちされた「政治上位的暴力」というもの。三つめはそれとは逆で、抑圧されたものが至る目的なき暴力ともいうべき「政治下位的暴力」。著者は政治的暴力に対抗できるのは愛や無抵抗ではなく、かといってカウンター的な暴力でもなく、権力から加えられる“正”の力を無化するために被抑圧者たちから生み出される“負”の力こそが重要だという。そしてそれが先ほども書いた「非暴力」というものなのだ。前半ではアメリカの黒人運動で有名なキング牧師やマルコムX、そしてその後のポストコロニアム思想をリードしたフランツ・ファノンといった人物を引き合いに彼らの思想を分析し、その行動から「憎しみ」と「怒り」というふたつの要素を抽出する。そして両者は一見よく似た感情であるが「憎しみ」は決して暴力の解決には結びつかないと主張する。それは「その感情をもたらす原因に遡り、根源的次元から根絶しようというのではなく、」むしろその結果生み出された「特定の人間や集団」を「排撃したり殲滅することでカタルシスをえる」ものであるので、暴力の根源的な根絶には至らない。ジョージ・オーウェル『一九八四年』に出てくる「憎悪の時間」などもそうだが、圧政者は人種や民族や生まれ育ちといった生得的な特徴をことさらに強調・利用することで、社会の底辺に位置する人々に、ある種の人々への憎しみを煽る。(「在日特権」や「生活保護の不正受給」といった話題などもそのひとつだろう。)その結果、本来は力を合わせるべき人々の間に相互不信と劣等と体制への依存が生みだされてしまう。それに対して「怒り」の感情の場合は、対象が身近な者ではなく暴力が生み出される根源的な問題へと向かうため、その解決へと結びつくものなのだそうだ。キング牧師による公民権運動の高まりやガンディーによる「塩の行進」などはまさに怒りの表出に他ならないとのこと。
 また(民衆に対して)強制力を持つという意味では、国家など主権を持つ者が“暴力をふるう権利”を有するとも言えるわけであり、ここからはマルコムXの率いたブラック・パンサー党の活動にあるように、「主権を持つのは誰か?」というまた別の根源的な問題が問われることになる。一方ではハンナ・アーレントのように、権力と暴力は本来別の物であって暴力は権力行使の道具に過ぎないといった議論もあるらしい。もっとも著者はアーレントの理論は暴力論としては致命的な欠点があると言っているが。(ここまで行くと詳しくないので全然わからない。/苦笑)

 そもそも「暴力」とはいったい何なのだろう?本書を読みながら考えてみる。他者に対して相手の意にそぐわない状況を強いるための手段であって、且つ施行する者の精神構造に対しても暴力への依存と過激化という影響を及ぼすものなのだろうか。つまりは道具(あるいは下僕)であるとともに、自らをまた目的(あるいは主人)にしようとするものなのだろうか? 読みながらぐるぐると頭の中が回っている。
 ページが進むと中ほどに出てくる、フーコーとニーチェの話が面白い。ニーチェといえばすぐに出てくるのは“力への意志”。そしてフーコーは“生権力”で有名だが、両者ともに共通するのは「権力は何か?」という問いは発せず、ただ「権力とはどのように作用しているか」を問えるだけであるとした点。すなわち彼らによれば”存在”と”力”は同義であり、権力はAからBに譲り渡せるようなものではないのだ。よって権力の移譲をベースに物事を考えるのは止めるべきだという。(ここで話はいよいよ核心の暴力と権力の違いへと移っていく。)
 暴力は「強制し、屈服させ、拷問にかけ、破壊し、すべての可能性へ通じる扉を閉ざすもの」であり「暴力をこうむる側は、受動的たりうるだけ」である。一方、権力とは「人間の身体そのものではなく、まず行為の可能性の領域に働きかけ」て「人のなしうる可能性から力を引き剥がしてしまう」ものなのだそう。そうすることで、権力は自分達により従順な人々を作り上げるのだ。
 権力の行使の仕組みは、例えばL.A.の黒人暴動(1992)の引き金となった白人警官によるロドニー・キング青年の暴行事件の顛末を見れば明らかになる。被告の警官たちが無罪になった裁判のように、権力は圧倒的強者が弱者に対して感じる根拠のない不安を利用し、その結果は強者による「予防対抗暴力」となって常に現れるのだ。地面に倒れ込んで身動きもできないキング青年を取り囲んだ屈強な警官たちによる「やらなければやられるに違いない」という思い込みによるいきなりの暴力。これなどはブッシュによるイラク侵攻の際の強弁(もしくは日本の現政権の考え方)でお馴染みのものだ。つまり逆説的ではあるが、戦争とは「根本的に反戦的」なものなのだ。なおこれらの強弁に関連しては、性的な要因と暴力の関係についてもふれられている。著者によれば、暴力が発生するときは理念的な「男らしさ」と自らの現実的な「無力(不能)」の間の亀裂を埋めようとする運動があるのだ。うん、これは何となくわかる。身近な例をみても、自信の無い人間ほど自己評価が根拠なく高かったり、そのくせ他人からの評価をやたら気にしたりするから。男らしさも決して「力の解放」などではなく、むしろ人を束縛する力の封鎖と規制の形態であるのだという指摘は鋭い。

 次にはこういった傾向が進んだ状態である、「ウルトラ・ポリテクス(=政治の直接の軍事化)」を介して抗争を極限にまで押し上げることで達成される脱政治化(の暴力)にまで考察が及ぶ。けっこう難しい。ここではクラウゼヴィッツやシュミットら(*)によってなされた思想的な研究、すなわち“ゲリラ・パルチザン闘争”と“総力戦による殲滅”の対比について取り上げ、こういった二者択一的な思想の限界ならびに「民衆的防御」という概念との相違点、さらには「民衆的防御」という概念のもつ可能性について示される。
 ここでいう「民衆的防御」とは何か? それは1871年のパリ・コミューンや上海、ロシアなどにおけるコミューンのように、国家(軍や治安維持の部隊)に組織化されたのでなく、あくまで民衆からの自然発生的な「反暴力」と説明される。(これを思想家でもあり小説家でもある笠井潔氏は統治の理想状態であると定義した。本書ではベンヤミンの「神的暴力」が対置されている。)また現代の例としてはサバティスタ民族解放軍(EZLN)というメキシコのゲリラ軍の考えかたが示されている。
 こういった一連の説明を通して、冒頭にも述べたように「国家による管理と、権力/暴力の行使を前提とする非暴力」は、無気力や支配との共存を前提とする「疑似的非暴力」であるとして著者は非難しているわけだ。それは平和なのではなく、単に波風を立てられないだけであると。最終的に著者は、ホッブスの言う「自然状態」を、“カオスに満ちた恐怖を生み出す状態”として捉えるのでく、個(エキセントリシティ)を互いに認め合う集合として捉えることで、生産的な生活の実験や経験の場として肯定することを提案している。実際に生活の場で実現していくには多くの困難があると思うが、それでも常に湧き出してくる暴力に対抗しようとするならば、それらを無効にする本来の意味での非暴力(=神的暴力)を続ける不断の努力こそが必要なのだということだろう。

   *…カール・フォン・クラウゼヴィッツは近代戦争の理論書である『戦争論』を
      書いた19世紀プロイセン王国の軍人。「戦争とは他の手段をもって継続
      する政治の延長である」という主張で有名。一方のカール・シュミットは
      『政治的なものの概念』や『パルチザンの理論』を書いた20世紀ドイツ
      の政治学者で、戦争を国家や政治と不可分なものとして位置付けた。

 薄い割にとても難しい議論が続いてかなり読み応えのある本だったが、頭の体操として結構面白かった。たまにもこういうのを衝動買いで読むのも刺激になって良いかも。みすず書房や法政大学出版局(ウニベルシタス叢書)なんかと違って文庫だから安いし。(笑)

<追記>
 この本を読んでからフランツ・ファノンが気になってしまい、主著である『地に呪われたる者』を見つけてつい買ってしまった。酒井氏はファノンの主張に対してはやや批判的ではあったが、どんな事を書いているのか実際に読んでみたい。それにしてもどんどん本が溜まってしまうなあ。(苦笑)
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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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