本の価値というもの

 かなり以前のことだが、新宿にある名物喫茶店の店主が書いた『「食の職」新宿ベルク』という本を読んだ。そのとき思ったことがある。その店では職人が作るこだわりの食材を使い、リーズナブルで美味しい食事を提供しているのだが(注:自分も出張の折に何度か利用したことあり)、本に書いてあったパンやソーセージといった食材や珈琲豆の焙煎への徹底したこだわりを読むにつけ、まさに大手スーパーのプライベート(PB)商品の対極の話であるような気がしたものだ。そしてこれは自分が本に対して抱いているこだわりにも似ているとも。安価でそこそこの品質が保証されるPB商品と同様、万人受けする内容の本やベストセラーの本にももちろんそれなりの意味はある。だけどそれは自分が本に求めるものとは違うと思う。そう考えると本というものは究極の嗜好品なのかも知れない。
 ベストセラー本が概して自分の好みに合わないのは、先ほどの例で言えば日頃手作りのハムやソーセージばかりを食べ慣れてしまっている人が、PB品を食べる感じに近いかも知れない。本は中身の価値に比べてそれほど高い物でもないし、安くても均質化されたものよりは個性があって手の掛かったものの方が好きだ。(もちろんスーパーのPB食材が悪いとは言わない。日頃は自分もそういうものを食べている。要は、はなから狙っているところが違うということだろう。)
 そういったこだわりのもの(本)を作り続けている人は世の中に必ずいるわけで、それなりの対価を払うつもりでさえあれば、あとはどうやってそういった本と出会うかという問題となる。スーパーに行っても売ってないような美味い食材を、どこかのお店に探しに行く感覚で新刊書店や古本屋をうろつきまわる。そしてまた自分にとってツイッターを始めとするネット環境は、まさしくそのための有益な情報を得る場になっている部分がある。
 “食”の生産者に当たるのが作家や翻訳家、装幀家や編集者だとすれば、お店の客に当たるのは読者。そして書評家は本の情報を美味しく調理して読者に提供するという意味で、さしずめ料理人といったところか。しかし実は読者もある意味で本の料理人なのではなかろうか。自己流で本を読み解いて味わうもよし、読書会やレビューを通じて他の人の味付けを知るのもまた愉しい。
前に会社のデザイナーに聞いた話だが、万人に可もなく不可もなく受け入れられるデザインよりは、一部の人に嫌われるデザインの方が良いそうだ。嫌われるほどインパクトが強いデザインであれば、それは逆に熱烈なファンも生むことになるから。確かにその方が面白いかもしれない。好むか好まないかは受け手側の嗜好や度量の問題で、デザインの良し悪しとはまた別の話。それは食品や本も同じなのかもしれない。

 話は変わる。
 これも以前のことだが、仕事関係の財界の会合に出たとき、中部地方は他の地域に比べるとモノづくりが盛んな分、中小企業も元気で不況に強いという話を聞いた。正直あまり実感はないのだけれど、全国の中小企業の倒産件数などをみるとそんなものなのかも知れない。
 仮にそれが本当のことなのだとして、だったらそれは何故なのだろう。もしかしたら中部地方で作っているのは自動車や工作機械やその他生活必需品のような、割と「地味」なモノづくりが多いからなのかもしれない。オーディオ機器やデジタル家電、はたまた情報機器のような見栄えがして付加価値の高い“流行りもの”は、あまり作られていないような気がする。流行りは儲かるときは大きいが、ひとつ外すと途端に厳しくなる。不況や増税による買い控えの影響も受けやすい。
 家電製品の花形であるテレビは、「民間放送が無料で流すコンテンツを観るための道具」として発達し、大画面化やステレオ放送といったコンテンツの本質とは違うところで商品の付加価値を高めてきた。デザイン性やブランド価値なども同じことだ。しかしここにきて海外の安い製品に押され、ビジネスモデルが完全に崩壊してしまっている有様をみると、これもまた一種の“付加価値バブル”だったのではないかという気もしてくる。
 今の人々は、バブルの底を支えてきた「ブランド」というものに価値を認めない人が増えているし、安ければ海外製でもなんでも躊躇なく利用する。一方で、自分が欲しい機能や性能についてはとことんこだわる姿勢も持つ。そんな消費者の前に地上デジタル放送を始めとする、使うあてもない余分な機能ばかりを沢山つけて値段を上げたガラパゴス的な商品を出されても……と思ってしまう。
 これは携帯電話(特にスマホ)でも同じことだろう。ネットに繋がって便利になるのは良いが、電話やメールといった本来必要とされる機能より、無料のアプリとよく分からないバナーを送りつけてくるインフラとしての比重が増えた時、スマホ自体にどれだけの価値(対価)を支払ってもらえるのか?そこの判断がこれからは重要になってくるのではないかという気もする。
 話は戻って、本の場合はどうか。マニュアルや資格取得のための実用本は別にすると、最後に意味をなすのはその本の著者(あるいはその作品を世に出すために関わった全ての人々)という「個人」がもつ価値なのかもしれない。(本だけでなく映画や音楽などクリエイティブや要素が大きなものは全て同じ。)
 また、以前より「図書館に新刊を置くな」という議論が出ては消えしているようだが、自分にとって図書館問題は青空文庫のような本の無料提供サービスと同じ次元の話として捉えている。一読して愛着が湧けば、購入して手元に置きたくなるだろうし、その点では紙の本と(お金を払って購入する)電子書籍は全く違いはない。
 ただ問題は、作り手に対するリスペクトも作品に対する愛着もなく「画質が汚かろうが何でもいいからテレビをただ見てみたい人」、あるいは「ただ話題になっているからという理由でその本を読んでみたい人」の方が、こだわりを持って作品に接している人よりもはるかにマスが大きいという点かもしれない。拘った良質な作品を世に出したとしても商売にならなければ意味ないわけで、そこが大きなジレンマではある。逆に言えばこれまでがバブルなだけであって、これからが「真の商品価値」を問われる時代なのかもしれない。(*)

   *…思えば松下幸之助翁が提唱した「水道哲学」というのは、日本にとって
      功罪相半ばする考え方だったなのかも知れないと思ってみたりもする。
      社会が貧しい時代だったからこと成り立つ理屈であって、商品そのもの
      に目を向ければ結局のところはユーザー不在でしかないわけだから。

 ただ一方でハードウェアがソフトウェアの限界性能を規定するということもある。当たり前の話だが。例えば老眼で小さな字が読めなくなると読む量が減る。あるいは脳というハードウェアのメモリに蓄積された知識の量こそが思考の深さを決める。(知識が多くても沈思できるとは限らないが、知識が少ないと沈思が出来ないとは言える。)そう考えると、コンテンツや受け手側に配慮したインフラというものが、著者や翻訳者といった「個人」と同様に本の価値を決める上で大きな意味を持つこともあるのかもしれない。

 以上、今回はとりとめのない話で失礼しました。たまにはこんな真面目なことを考えたりもしているのです。(笑)
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No title

こんいち、は久しぶりに拝読させていただきました。

いつもながら溢れる教養と理論的な文章の展開に、自己と比較して

落ち込まされました。素晴らしいです。


 

鴨さま

ご訪問ありがとうございます。

過分なお褒めのお言葉恐縮です。(汗)

このところ忙しくてなかなか本を読めなくなっていまして、読書もままならない状態が続いています。もっと活字の世界に溺れたいものですね。

また宜しければ覗きに来てやってくださいませ。
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舞狂小鬼

Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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