『ロマネ・コンティ・一九三五年』 開高健 文春文庫

 先日、『オーパ!』のカメラマン高橋昇氏による『旅人 開高健』という本を読んだら、久しぶりに開高健の本が読みたくなり、大好きな短篇集『ロマネ・コンティ・一九三五年』を引っ張り出してきた。開高健は好きでおそらく文庫で出たものは殆ど持っていると思うが、とりわけ好きで何度も読み返しているのは『オーパ!』や『珠玉』に『風に訊け』に本書といったところ。これらの作品は軽く読めるところが好い。(『輝ける闇』『夏の闇』『花終わる闇』(未完)の“闇”三部作や『耳の物語』も好きなのだが、こちらは内容が重たいのでさほど読み返してはいないのだ。)
 本書の作品は「玉、砕ける」「飽満の種子」「貝塚をつくる」「黄昏の力」「渚にて」「ロマネ・コンティ一九三五年」の全6篇。著者の著作によく登場するテーマであるベトナム戦争やその後の戦争ルポルタージュ取材、そして釣り紀行で知り合った人々の記憶の他、自身が寿屋(現サントリー)の広報にいた時の思い出など、私小説ともエッセイともとれる作品がバラエティ豊かに収録されている。この中で特に気に入っているのを挙げるとすれば川端賞を受賞した「玉、砕ける」だが、他の作品もいずれ劣らぬ名作だと思う。一篇ずつ噛みしめるように読むのが合っているかも知れない。
 例えば「飽満の種子」はベトナム戦争の時に著者が経験した阿片体験がテーマなのだが、阿片による無化を表現するくだりはいくど読んでも圧巻。つくづく開高健という人は「言葉にできないものを言葉で表現すること」にひたすら心を砕いた人なのだろうと感じる。自分が実体の無い何かを示したい時、「のようなもの」を列挙することで暗示させるのは、実をいうとこの人のやり方を真似たものだ。
 また「貝塚をつくる」では、ヴェトナム沖で繰り広げられる始原の海での夜釣りのシーンがあまりにも美しい。今でこそ釣りに行くことは無いが、子供の頃には良く親に連れて行ってもらった。そのせいもあって“安楽椅子釣り師(笑)”なので、釣りの話は好きなのだ。喫水が浅い小舟に乗って富豪との釣り合戦。舟底には市場で買い込んできたドリアンがいくつも転がしてある。劫初から変わらぬ豊穣の海の傍らに漂うのは、芳烈で爽涼なドリアンの香り。翌朝になり前夜の記憶を振り返えってみると、官能はひとつの厳しい知性に他ならないのだと悟らされる……うーん、かっこいい。こういう文章が書けたらいいよなあ。
 本書を読み返して改めて感じたのは、開高健は目の作家だということ。エピソードの当事者である場合もあれば傍観者のこともあるが、いずれも共通するのは「みる(見る/観る/視る)」という行為だ。そこには自らが置かれた状況と、その中でもがく自分自身を離れたところから冷静に見つめる観察者の視点があるように思える。あれだけの博識と経験を持ち、その気になればいくらでも饒舌になれる氏のような人物が、言葉を呻吟することで極限まで削って作り上げた文章表現は、そのことごとくが心に突き刺さってくる。
そしてまた、そんな“目の作家”である彼が書いたのが、幼い頃からこれまで頭に残る音の記憶を綴った『耳の物語』(*)であるというのが大変に面白い。しかもそこでは「主語を書かない」という試みまでなされていて徹底している。もしかしたら傍観者であることをやめようとした物語なのだろうか。(そしてまた常に視点にこだわってしまう自分もまた、開高氏と同様に傍観者なのかも知れない。)

   *…『破れた繭』『夜と陽炎』の二部からなる自伝的長篇。自らの生涯を
      ≪音の記憶≫によって再現しようとする。日本文学大賞受賞作。

 ところで『輝ける闇』や『ベトナム戦記』に書かれているように、氏は記者の立場でベトナム戦争に従軍した。それらの作品では徹底して傍観者である事の無力さとともに、コインの裏表の関係にある気楽さも感じていたはずの著者が、いつの間にか戦闘の渦中で生と死の当事者となる様子が赤裸々に描かれる。その瞬間、傍観者の視線はどこにも無い。(尤も作品として見た場合は、それを冷徹な作家の視点で書くという二重構造にはなっているわけだが。)これらのことを重ね合わせてみると、もしかしたら氏は傍観者であることを止めたがっていたのではないかと思えてくる。「玉、砕ける」の冒頭に書かれた「消えられなかったのばかりにはじきかえされる」という言葉は、氏の偽らざる気持ちなのかも知れない。また『オーパ!』や『フィッシュ・オン』といった釣り紀行で全ての「円環が閉じる」のは、対峙し続けた魚をついに釣りあげた瞬間であるというのも、何となく解るような気がする。
 そしてラストは「ロマネ・コンティ・一九三五年」。作品集の掉尾を飾るこの短篇では、一本のワインにより『夏の闇』の一挿話がフラッシュバックのように甦る瞬間が活写される。ワインの描写を読むだけでもこれを読む価値はあると思う。収録された六つの短篇が万華鏡のように様々に色を変える。見事としか言いようがない。他の人にとってどうであるかは知らないが、この作品集は少なくとも自分にとって今後も折に触れ読み返す一冊であることに間違いない。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

最新記事
カテゴリ
プロフィール

舞狂小鬼

Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

最新トラックバック
FC2カウンター
最新コメント
リンク
月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR