『死者の花嫁』 佐藤弘夫 幻戯書房

 夏の納涼シーズンはとうに過ぎてしまったが、たまには趣向を変えてちょっと変わったものを取り上げてみたい。おどろおどろしい題名だが、内容はいたって真面目。古代から中世を経て近世へと至る日本人の死生観を探った民俗学についての本だ。副題は「葬送と追想の列島史」という。
 まず紹介されるのは、山形市がある村上盆地に伝わるという「ムサカリ絵馬」や、青森県津軽地方の「花嫁人形」といった風習。これらは若くして亡くなった人々を供養するため、家族がその人の婚礼の様子を模した絵馬や人形を祀るものだそう。中国の「冥婚」にも似た死霊婚の一種といえるだろう。他にも下北半島は恐山で毎年夏に開かれる大祭や、山形県の三森山で行われる「モリ供養」、伊勢の金剛證寺にある「卒塔婆の供養林」など、日本各地で今も行われている様々な死者の供養について述べられる。
 これらに共通しているのは概ね、「この世に残された者たちが死者を想い、毎年決まった時期になると墓に帰ってくる彼らとの再会を喜ぶ」といった風習、あるいは「死者は正しく祀られ供養されると“ご先祖さま”となって末永く子孫を守ってくれる」が、いっぽうで「この世に未練を残したり供養されないまま放置された死者は祟る」といった死生観ではないだろうか。そしてこれらは全て、日本民俗学の祖である柳田國男によって明らかにされたように、過去から綿々と引き継がれた日本人の死生観を色濃く残したもの……と、思っていたのだが、実は全く違っていた。
 まさに本書のねらいは、そういったステレオタイプな死生観をひっくり返すところにあるのだ。ページをめくるたびに驚かされ、これまで自分が習ってきた“常識”がことごとく覆されていくのは一種の快感でもある。
 そのため著者は、各地の古代遺跡を発掘することで見えてきた葬送儀礼を分析したり、あるいは「諸国百物語」「宿直草(とのいぐさ)」「曽呂利物語」といった近世の文芸作品と、それらが成立する前提となる社会意識を丹念に読み解いていく。そうして「ご先祖様」や「墓参り」といった風習が、わずか数百年の浅い歴史しか持ってはいないことを、明らかにしていくのだ。(まるで民俗学探偵のようだね。/笑)
 本書を読んでまず驚いたのは、中世では土葬の風習は一般的なものではなく、(野ざらしにする風葬でなければ)むしろ火葬が当たり前だったということだ。さらに中世の墓には、どれほど大きな墓であっても個人を特定する目印が無かったというのにも驚いた。(それどころか火葬にした骨を五輪塔という納骨容器に入れて、本堂にまとめて収めてしまう風習もあったらしい。)つまりもともと日本には個人を特定できる墓は存在せず、すなわち墓参りという風習も無かったのだ。
 それは何故か?本書によれば昔の日本人にとって死とは“この世”を去って“あの世(=彼岸)”へと生まれ変わることであったのだそうだ。そのような社会で生者が行うべきは、いつまでも個人を偲んで“この世”に留まらせることではなく、死者の遺骨を特定の霊場へ納め、阿弥陀如来の力を借りて西方浄土/理想世界へと生まれ変わらせることに他ならない。
 このように浄土信仰が盛んだった中世においては、日本各地にある霊場へと足を運ぶことで死後の浄土往生が約束され、死者もまた遺骨を霊場に納めることで西方浄土へと旅立っていけるという死生観が共有されていた。
そのような社会では死者は霊場の敷地に葬りさえすれば魂がこの世に残ることは無く、そうなれば死者の居ない墓にお参りする必要など無かったというわけだ。ふむ、とても面白い。

 ではいつ頃から墓には戒名が書かれ、彼岸に家族による供養が行われるようになったのだろうか。著者によればそれは十四世紀、中世後期と呼ばれる時代に起こり始めた死生観の変化に起因するらしい。簡単に言えば来世での救済よりも、現世での幸福や生活の充実を重んじるように社会意識が変化したからなのだそう。約束の地としての彼岸世界の観念が色あせてしまうと、死者が行くべき場所はこの世と隔絶した遠い浄土ではなく、死してなおこの世に留まりつづけることになったのだ。(*)かくして死者は子孫が折々に訪ねてくれるのを心待ちにしながら墓地で眠るというイメージが社会に定着していったということらしい。

   *…そうなると、この世に未練をのこして死んでいったものたちや、供養されることも
      なく放置されるものたちは、幽霊となって恨みを晴らそうとし始める。これが江戸
      時代の幽霊譚の特徴なのだとのこと。

 死者が彼岸ではなくこの世に残り続けるという観念は、全国各地の山中にあって中世いらい栄えてきた霊場のありかたにも大きな影響を与えた。それまでは彼岸に旅立つための狩りの中継地点に過ぎなかった霊場が、いつまでも死者の留まる特定地域と見做されるようになったのだ。そのため、霊場は死者を放置する場所ではなくなり、特定個人を示す目印をつけた墓を定期的に子孫が訪れる場所へと変貌を遂げた。かくして墓参りという風習が生まれることとなったというわけだ。うーむ、深い。目からウロコがぽろぽろと何枚も落ちる感じだ。常識だと思っていても、意外と知らないことは多いのだなあ。
 なお本書は最終章だけは若干それまでとは趣きが変わり、過去から現代へと話が移る。著者の住む宮城県を始め東北地域を襲った3.11の記憶とともに、伝統的な家制度の崩壊によって現代に現れつつある「自然葬」や「樹木葬」、あるいは遺骨をペンダントにして常に身に着けるといった、新たな死生観の萌芽が示されているのだ。希薄化する現代の「死者」の一方で、震災により否が応でも直面せざるを得なかった「死」というもの。本書が示すように「人は死ぬと墓に入り”ご先祖様”となって彼岸に帰ってくる」というのが、せいぜい江戸時代からの歴史しかない死生観だったとすれば、今後も旧態依然とした“家制度”の崩壊や社会変化に伴い、また新たな死生観が生まれてくるのだろう。しかしいずれにせよそこには、この世を去った人々に対する深い鎮魂の思いが込められているに違いないのだ。
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