『双生児(上・下)』 クリストファー・プリースト ハヤカワ文庫

 言葉の錬金術師C・プリーストが2002年に発表した代表作。同年の英国SF協会賞とアーサー・C・クラーク賞を受賞している。『魔法』や『奇術師』『夢幻諸島から』といった一連の作品と同様、どこまでが(小説世界の)現実でどこからが幻想なのか判らなくなってくるとても愉しい作品なのだが、2007年<プラチナ・ファンタジィ>の一冊としてハードカバーで刊行されてからは長らく入手困難になっていた。このたび文庫化されたのは非常に喜ばしいことだと思う。
 物語は1940年から41年にかけて、ドイツによる欧州侵略が激しさを増していた時代を中心に、ベルリンオリンピックで英国代表のボート競技選手だったジャック・L・ソウヤーとジョー・L・ソウヤーという一卵性双生児(いずれも“J・L・ソウヤー”と略される)が辿る数奇な運命を描く。本書の読みどころはこのふたりを巡る幻惑に満ちた展開の他、第2次世界大戦という現代史の中でも極めて重い出来事について、英国空軍爆撃機パイロットと良心的兵役拒否者にして赤十字職員という、二つの視点で描いた点にもある。本書がもしも読みづらいとすれば、日本の読者が欧州の読者ほどには欧州の歴史について明るくないことが理由に挙げられるかもしれない ――といえるほど、丹念に書きこまれた内容になっている。つい先日読み終えたばかりのハラルト・ギルバースの傑作ミステリ『ゲルマニア』(*)といい、戦後70年を経てこういった小説が手に入ることをあらためて素直に喜ぶとともに、エンタテイメントの分野でも負の歴史を真正面から取り上げてこれほどの作品をものにしてしまうところに、ヨーロッパ文化の底力のようなものを感じてしまう。

   *…1944年のナチス政権下におけるベルリンを舞台に、アーリア人の妻を
      持つため収容所送りを危うくまぬがれてひっそりと暮らす元殺人課刑事
      オッペンハイマー。ところがある日突然、彼のもとにナチスSSから猟奇
      連続殺人事件の捜査が命じられるという物語。異色の警察小説という
      側面の他、明日をも知れぬ運命のなか懸命に捜査を続ける主人公の
      警官としての矜持を描く冒険小説としての側面に加え、ナチスドイツの
      恐怖による支配のおぞましさを描いた歴史小説としての側面も持つ。
      これまた胸が熱くなる傑作だった。

 大きくはジャックの視点で描かれたパート(上巻)とジョーの視点で描かれたパート(下巻)の二つに分かれるが、さらにその外側には彼らを題材にしようとする歴史作家スチューワート・グラットンのパートがある。最初のうちは馴染みのない欧州大戦秘話のような展開で戸惑うかもしれないが、注意深く読んでいくとところどころで「ん?」と思う瞬間があり、やがて下巻に至って物語はその全貌を明らかにしていく。(ただしそれで物語の仕掛けのすべてが解るわけではなく、読者はさらに煙に巻かれていくわけだが/笑)
 ジーン・ウルフと並び称されるSF界の技巧派プリーストの技の冴えが堪能できる傑作だった。慣れていない人にはちょっととっつきにくいかも知れないが、もしも一読して解らなければ再読・三読に耐えうる作品なので、メモを取りながら何度もトライしてみるのも良いのではないだろうか。それでもピンとこなければ、巻末には大森望氏による渾身の解説があるわけだし、本書の仕掛けについてはほぼ触れられているので心配は要らないと思う。



 とまあ、ここまでがネタバレ無しの感想。ここからは仕掛けについて自分なりに思うところを書いてみたい。これから読まれる方はご注意ください。


 先ほども書いたように下巻の巻末には大森氏によるとても詳しい解説が載っていて、正直あまり書くことはない。それでもメモを取りながら読んでみたことで気付いた点などを幾つか。
 まず本書は歴史改変SFである。しかしディック『高い城の男』のように「起きてしまった歴史の結果」を描くのではなく、プリースト自身が述べているように「歴史の流れを実際に“分岐”させたかもしれない過程」そのものを描いている。分岐点はいくつかあるが、もっとも大きなものは1940年11月11日と1941年5月11日の2日。それぞれジョーとジャックが命に係わるほどの大怪我をする時だ。(正確には2人の視点によって状況も結果も違っている。本書で描かれるふたりの物語は、実ははなから時間線が違っているのだ。)以下、順をおって整理してみよう。(なおここからは解りやすくするために、大森氏の解説に合わせてジャックの属する時間線を「歴史A」、ジョーの属する世界を「歴史B」として話を進めていくことにする。)

 まず登場するのがスチュワート・グラットンのパート。彼は最後に明かされるようにビルギットを母として1941年5月10日に生まれている。父親はジョーの幻覚が示すように、ジョーなのかジャックなのかは判らない。その後、どのような事情かは分からないが養父ハリー・グラットンに育てられて名前をソウヤーからグラットンに変え、やがて歴史作家となる。なお、この時点で本来なら健常であったジョーがどうなっているのかは判らない。また、もしかしたら父親であるかも知れないジャックがどうなったのかも書かれてはいない。このグラットンのパートは、現在のわれわれがいる世界とは全く違う歴史を持っており、ジョーと同じ「歴史B」に属すると思われる。この世界Bではルドルフ・ヘスによる決死の行動が実を結び、英国とドイツは講和条約を締結している。その結果ナチスドイツは滅びることはなく繁栄を続け、代わりにアメリカが日本および中国共産党に先制攻撃を加えて降伏させ、ソ連を解体させたうえで第3次世界大戦まで起きている。ユダヤ人はマダガスカルに強制移住させられ新たな国を作っているようだ。(イスラエル建国は無いと思われる。)
 ところがその後に始まるジャック(英国空軍パイロット)の回想のパート「歴史A」は、どうやらわれわれの歴史と同じ(もしくは限りなく近い?)と思われる。ジャックのパートではビルギットはジャックとの間に女の子をもうけ、その子アンジェラ・ソウヤーはやがて結婚してアンジェラ・チッパートンという名前となる。ところがここでおかしなことに、物語の冒頭でスチュワートのサイン会をアンジェラが訪れ、「父親であるジャック」の回想記をスチュワートに預けるシーンが描かれるのだ。どうやらこの歴史Aと歴史Bはあちこちで混淆しているらしい。以下にざっくりとまとめてみよう。
 
<歴史A・Bに共通する記述>
 1936年7月 ベルリンオリンピックにジャックとジョーがボート競技で参加して
         ルドルフ・ヘスと会う。
  〃  秋  二人と共に亡命してきたビルギットとジョーが結婚する。
 1938年7月 ジャック大学を卒業して英国空軍へ。1940年までに11回の出撃を果たす。
 1940年5月 不在がちのジョーが怪我をしたのをきっかけにして、ジャックがビルギットの
         家を訪ねて久々の再会を果たす。

<歴史Aに属する記述>
 1940年9月 ジャックとビルギットが情交を交わす。
  〃 11月 ジョーが爆撃によって命を落とす。
 1941年5月 爆撃にドイツ本土を爆撃するために出撃。(10日)
  〃 5月 撃墜されて北海に不時着し、航法士サム・レヴィと2人だけが助かる。(11日)
  ⇒その後、チャーチルの替え玉による慰問に同行したり、監禁されたヘスの偽者(?)
    に会ったりしたのち回復とともに空軍に復帰。
 1942年5月 ケルン爆撃などを経て五十二中隊に移籍し、シュトゥットガルト爆撃の際に
      撃墜、収容所で終戦まで過ごす。
 1946年3月 オーストラリアへの移住を前にして、再婚したビルギットの家をこっ
      そり訪ね、自分にそっくりな娘アンジェラを目撃する。しかし再婚相手の
      「ハリー」に追い返される。
 1982年?月 英国に帰国し、70代になってから(1987年ごろ?)回想記を書き始める。

<歴史Bに属する記述>
 1940年3月 ジョーが地方兵役免除審査局で良心的兵役拒否者として認められ、
          赤十字に勤はじめる。
   〃 5月 暴漢に襲われて負傷。回復して6月から赤十字に復帰するも不在がちと
       なる。この間にジャックがビルギットの元を何度も訪れるが疚しい関係では
       ない(?)
  〃 11月 爆撃に巻き込まれ一時行方不明に。(6日後には無傷で見つかるが、頭を
       打ったためそこから何度も幻覚を見るようになる。)
 1941年?月 英国とナチスドイツの間に講和条約(リスボン協定)を締結させるための
       極秘プロジェクトに従事。
 1941年5月 ジャックがドイツ軍により撃ち落されるも命に別状は無し。(11日)
   〃 5月 英独講和条約批准。(13日)
   〃 5月 スチュワート・ソウヤー生まれる。
            (本来なら5月10日のはずだが時系列がおかしい。)
  ⇒ その後、救急車で瀕死の状態になっているジョーの姿で終わる。

<歴史A・Bが判然としない記述>
 1940年11月 搬送途中の救急車の中でジョーが死亡?(11日)
          ※運転手はケン・ウィルスン
 1941年3月 ジョーが空軍基地のジャックの元を訪ね「リスボン条約/ビルギットと
         の関係」の話をする。
  〃  5月 ドイツを爆撃に向かったジャックが、ルドルフ・ヘスの乗ったメッサー
         シュミットMe-110が4機のMe-109によって「撃ち落される/無事に
         逃げ切る」様子を目撃する。(10日)
 1941年5月 スチュワート・グラットン生まれる。(10日)
   〃 5月 ジャックがドイツ軍に撃ち落され、北海に消える。(11日)
          ※生き残ったのはサム・レヴィのみ
 
 うーむ。書きだしてみたが、やはり辻褄の合わないところがあちこちにある。まあ無理に辻褄を合わせる必要はないのだが。歴史Aではジョーが死んでいることになっているのに対し、歴史Bではジャックは死んでいない。しかしサムの手記(上巻の終わりなので歴史Aに属するようにも見える)ではジャックは死んだことになっている。冒頭ではアンジェラがジャックのことを自分の父親だと言っているにも関わらず、歴史Aではアンジェラは実の父親である(かもしれない)ジャックとはまったく面識がない。(成人してから会ったとも思い難いが。)
 もやもやとしているので思いついたのが、実は隠されたもう一つの「歴史A´(ダッシュ)」と「歴史B´(ダッシュ)」があるのではないかという説だ。歴史A´ではジャックがビルギットと結婚してアンジェラをもうけ、ジョーは爆撃により死亡している。歴史B´ではジャックは北海で死亡しており、ジョーもその後亡くなってスチュワートはグラットンの養子となる。――とまあ、大森氏による解説だけでは説明がつかない点が多いので、たとえばこんな風に考えても面白いのではないだろうかと思った次第。もちろん答えなんてないのだけれど。
 もっとも、訳者の古沢嘉通氏なら「プリーストは細かいところまで考えて書いてなどいないので、あちこち綻びはあるよ(笑)」とかおっしゃるのかもしれないけどね。おそらく答えはどれかひとつではなく、あらゆる解釈が量子力学のように重ねあわされた状態で存在しているのだろう。そんなふうにも思えてくる。そういったところも全部ひっくるめて、とても愉しめた一冊だった。
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