「名古屋SFシンポジウム2015」レポート

 昨日、第2回目となる「名古屋SFシンポジウム」が開催された。これは椙山女学園大学国際コミュニケーション学部が平成26年度から実施している「名古屋地区座愛中の表現者による学生向けのワークショップ」という活動の一環。(*)自分も昨年から実行委員会のスタッフとして参加しており、出演をこころよく引き受けてくださったゲストの皆さん(作家や翻訳家といった方々)や、企画の立案および調整、会場準備や告知といった諸々に奔走するスタッフの様子を見てきた。そんな話も少し加えながら、記憶がまだ新しいうちに書き留めておきたい。

   *…第1回は「SFから世界へ」というテーマで2014年9月27日(土)に開催。
      二人の翻訳家をお迎えしてちょっと固めの内容の「翻訳とSF」と、学生も
      加わってバラエティ豊かな「アニメ漫画の中のSF」というふたつのパネル
      構成だった。

 今年は「ここではないどこかへ」というテーマで「宇宙SFは今」「東欧SFを語る」「クトゥルフ神話への誘い」という3部構成による実施となった。(これら3つのパネルはそれぞれ「地球から宇宙へ」「英米中心のSFから非英語圏へ」「現実世界から異次元へ」といった意味があり、実はテーマが共通しているのだ。)場所は昨年と同じく椙山大・星ヶ丘キャンパス内にある国際コミュニケーション学部の010教室。時間は途中2度の休憩を挟んで午後1時から6時までという長丁場だったが、正直いってあっという間だった。それでは順番に内容を紹介していこう。

■パネル1「宇宙SFは今」
 作家の林譲治氏と翻訳家・アンソロジストの中村融氏をパネラーに、そして新進気鋭のレビュアー片桐翔造氏を司会進行役にして、昔からSFの代表的なテーマである「宇宙」に関して語って頂いた。内容はざっくりいうと、現実の宇宙開発の歴史とその時々に書かれたSF作品についての俯瞰。まず最初は19世紀のジューヌ・ベルヌやH・G・ウエルズに始まり、ついで1947年に書かれたハインライン『宇宙船ガリレオ号』や同じく47年に書かれ51年に発表されたクラーク『宇宙への序曲』といった古典的な作品の話が続く。「万能の天才科学者が自宅に庭で作り上げる宇宙船」とか「月の裏側あるナチスの秘密基地」といった当時の小説に有りがちな特徴の話も面白かったが、驚いたのは『ナルニア国物語』で有名なC・S・ルイスがこれら宇宙開発SFを批判してクラークらと対立していたという話。なんでもルイスによる批判の背景には「霊的階層で云えば最下層(地獄の底)にあたる地球の穢れを、上の階層(宇宙)へとまき散らしてはならない」という、彼独特のキリスト教的な考え方があったとのことだ。さらにクラークに支持された「宇宙進出の意志」は一種の神秘思想に基づくものであり、19世紀ロシアの思想家ニコライ・フョードロフやロシア宇宙開発の父コンスタンチン・ツォルコフスキーらの思想にも通じるものだったという中村氏の指摘は後の「東欧SF」にもつながっていく重要な指摘であり、思わぬ深い展開にワクワクしてくる。(後でご本人にお聞きしたところ、第2部で話がしやすいようにわざと振って頂いたとのことだった。中村さん、ありがとうございました。なおルイスとクラークの対立については、中村さんが先日出された『宇宙への序曲(新訳版)』の訳者あとがきに詳しく書かれたそうなので、ご興味のある方はご参考に。)
 つづいてはフォン・ブラウンを招いてのアメリカでのロケット開発や、冷戦時代の俗にいう「スプートニクショック」(=人工衛星をロシアに先に打ち上げられてしまったことで、アメリカの“宇宙開発の第一人者”であるというプライドが傷ついたことや、弾道ミサイル実現への恐怖が芽生えたこと)と、その後の国家の威信をかけたアポロ計画への流れと、当時の『FIRST ON THE MOON』(1958)といった作品では、米ソによる領有権を賭けた月の開発競争が描かれるといった話。さらには冷戦終結後に予算が大幅に削られて夢よりも市場原理(経済性)が優先される現実社会と、それを踏まえて小説としてのリアリティを如何に追究するかがポイントになったという指摘もあった。ふうむ、面白い。
 そんな世知辛い話ばかりでは面白くないからか、ある時から反動のように「我々の住む現実とは違う時間軸」にある「現在でも昔と同じような規模で宇宙開発が続いている世界」を描くアレン・スティール(『THE TRANQUILLITY ALTERNATIVE』)やスティーヴン・バクスター(『VOYAGE』)といった作家たちが登場してきた結果、さらに多様化して今に至っているらしい。(**)

  **…SFマガジン1997年10月号で特集が組まれているとのこと

 後半はがらりと雰囲気を変えて、『火星の人』を題材に「宇宙における事故とサバイバル」をテーマにした作品についての考察。50年代に製作された『火星のロビンソン・クルーソー』という映画では、最初は『火星の人』と同じようなサバイバルを描いているにもかかわらず、後半になっていきなりオリオン星人(!)や彼らの奴隷を助けてフライデーと名付けたり(!!)と、全てを台無しにしてしまっている(笑)という話で場内が爆笑に包まれる。結局のところ当時は「極限サバイバル」だけでひとつの話を持たせることが出来なかったのだ、という林氏の指摘はなかなか鋭いと感じた。
 氏によれば、宇宙での事故を描くのは以下の二つの目的があるらしい。
 ・「テクノロジーによる宇宙開発」の技術的なリアリティを突き詰める手段としての極限状況
 ・「異世界としての宇宙」を説得力をもって描くための極限状況
 『火星の人』はこの二つをうまく融合した作品だろうということだ。
 また主人公が宇宙で漂流したり生死に関わるトラブルに巻き込まれることには、「予想される(既知の)トラブルをいかに解決するか」という技術のプロフェッショナル的な解決の面白さを描く場合と、「想定外(未知)のトラブルをいかに切り抜けるか」という当意即妙の面白さを描く場合があるという指摘も、なるほど実作者の方でないと気が付かないことだと感心した。(“想定外”ということでは、13日の金曜日の殺人鬼が宇宙船に密航して惨劇を起こす『ジェイソン宇宙に行く』という作品もあるらしい。これはいくらなんでも想定外すぎる。/笑)
 同じ宇宙サバイバルものであっても、主人公ひとりだけの『火星の人』と集団による『月は地獄だ!』では小説としてのドラマツルギーが全く違うという中村氏のコメントや、林氏からの「寧ろ似ているというなら『虎よ、虎よ!』の冒頭の方がそれに近い」とのコメント、さらには主人公の楽観的な性格は宇宙におけるミッションクルーに求められる適性として見るのが正しいとか、とにかく話を聞くたびに目から鱗がポロポロと落ちる感じ。
 結局のところ現代は万能科学者がひとりで何でもこなしてしまう物語は鳴りを潜め、(例えばレム『砂漠の惑星』で描かれたように)リーダーによるマネージメントでプロジェクトメンバーが協力しあうのがリアリティを持っているという事のようだ。
最後の時間は質疑応答にあてられた。
 林氏の宇宙をテーマにした代表作『ウロボロスの波動』についての裏話や、技術を詳しく描写すると時代と共に陳腐化するのは避けられないが、ロジックが作中で一貫していれば個々の技術がレトロになろうと物語としての面白さは失われない(⇒そこを突っ込む読者は野暮)といった鋭いコメントもあって、80分に亘る骨太のパネルは無事終了。「宇宙SFは書きにくい時代」という冒頭の林氏の意見を受け、まとめで中村氏が述べられた「でも今ほど面白い宇宙SFが日本で書かれている時代はない」という意見が今回のパネルを象徴したのではないだろうか。ほんと、面白い宇宙SFは今とても多いと思う。(まだまだ書き漏らしたことは多いが、かなり長くなってしまったのでパネル1はこれくらいで。)

■パネル2「東欧SFを語る」
 順番にさくさくと行こう。ゲストの著作の即売会を兼ねた休憩を経て、次はパネル2、いよいよ自分の出番である。(実は最終打ち合わせの時間が取れなくて、急遽この休憩の間に会場の片隅で行ったのは秘密だ。/笑)
 パネリストは翻訳家の大野典弘氏と現役学生でSF研究会の会員でもある女子大生Aさん。進行役はハンドルネーム舞狂小鬼こと自分である。心配性の自分はだいぶ前からメールでやりとりをしていたので、話す内容はたくさんあった。むしろうまく時間内に収めるため、どの話題を削るかに腐心したほど。(***)このコマは当然ノートにメモを取るわけにはいかなかったので(笑)、事前につくったネタ帳をもとになるだけ再現してみたい。抜けているところがあってもご容赦を。

 ***…もっとも、会場では大野さんの力作である「ロシアを中心にみたSF史」
       という図や、今でも入手しやすい作品を中心にしたブックガイドを配布し
       て、多少端折った話になっても大丈夫にはしてあったわけだが。

 前半は日頃から馴染みのある英米SFとは違う「東欧SF」とは何かについて大野氏に語って頂いた。まずはここで対象にする「東欧」の定義から、地図を写して説明いただく。ここでは「かつてコメコン(注:ソ連主導で作られた東ヨーロッパ共産主義諸国の経済協力会議)に属していた地域の国々」という程度のイメージだ。ただしドイツやオーストリア辺りは歴史的にみて一部重なる部分もある。歴史や民俗、言語的な事情が複雑に絡んでいて定義ひとつとっても大変に悩ましく、ベトナムやタイやインドネシアを一括りで「東南アジア」と呼んでしまうくらいには乱暴な括りには違いないそうだ。
 つぎにはこのパネルの目玉のひとつでもある文学的な定義について。本来「リアリズム(写実主義)」というのは(日本の私小説とは異なり)デフォルメや暗喩、レトリックなどの技巧をこらして現実を表現しようとする手法だそうで、東欧SFも広くはこの「リアリズム」に分類されるのだそう。文学的な分類でいえば「ファンタスチカ」と呼ばれるものになる。これは英語でいうところの「ファンタジー」や幻想文学とは全然別の物であって、例えばカフカの『変身』でザムザが虫になってしまうのも、あくまで「写実主義」。そして絵画で云えばピカソらによるキュビズム(全角度からの絵を全て一方向に展開してしまう手法)なども写実主義に含まれる。リアリズムの一種であるファンタスチカの始祖にあたるのはニコライ・ゴーゴリ(SFファンの間では「外套」「鼻」といった“幻想小説”が有名)であるとされ、他には先ほど挙げたカフカや色彩論という疑似科学を考え出したゲーテ、「ロボット」という言葉を作ったチャペックなどもファンタスチカの分類に含まれる。(この話はお聞きするまで知らなかった。とても面白い。)
 というわけで、“不思議な話”は東欧においては敢えて幻想文学というキーワードを出さなくとも、リアリズムの延長に不可分で存在するものなのだ。それでは英米のようないわゆる「SF」は何と呼ばれているかというと、「科学的ファンタスチカ」と呼ばれていたらしい。(ただし生活の中にテクノロジーが溢れる現代においては、あえて“科学的”という言葉を取っ払ってしまって、ただの「ファンタスチカ」と呼ぶストルガツキー兄弟のような例もあるそうで、これもまたなかなか難しい。
 ここで思い切ってAさんに話題を振ってみたが、あまりの無茶振りに会場から笑いが起こってしまった。そりゃそうだ。こんな話の途中でいきなり「どう感じた?」なんてことを聞かれたらねえ(苦笑)。でも果敢に受け答えしてくれるのがありがたい。Aさんの質問に対して大野氏がやさしく返したところによれば、「西洋的なファンタジーはペレストロイカ以降にトールキンなどが紹介されてから初めて生まれたもの」なのだそうだ。へえ、そうなのか。
 話の流れついでにロシア・東欧文学に特徴的な点を聞いてみたところ、意外な話が返ってきた。厳格な一神教であるローマカトリックとちがってロシア・東欧に伝わった東方教会というのは昔の教えを伝えているせいでその点かなりルーズだそうで、15,6世紀の西欧なら異端審問にかけられてもおかしくないほどの逸脱振りとのこと。その関係で例えばパネル1でも出たツォルコフスキーによる進化論の人工的な促進(=人間は進化と共に海からでて陸上で二足歩行を始め、やがて重力のくびきを離れて垂直方向/宇宙への進出と適合をとげる)といった思想が広く認められることになった。したがって東欧の文学は一般的に、キリスト教の価値観からみて“バチ当たり”なものが多いのだそうだ。ちなみにダンテの『神曲』も(神を冒涜するとして)ユダヤ教やイスラム教では読んではいけない書物とされているし、『ハリーポッター』も神以外に神秘の力(=魔法)を認めるということで読んではいけないことにされているという説明では、会場からどよめきが起こった。(なお念のため、大野さんとは今回のシンポジウムにあたって東欧の宗教についてもやりとりをさせて頂いており、東方教会はプロテスタントやカトリック、あるいは無神論者まで様々な人がいる東欧の信仰のごく一部でしかないというサジェスチョンを頂いていたことも付け加えておきたい。シンポジウムでは時間の関係で詳しく触れることが出来なかったので、誤解が無いように付け加えておきます。)
 話が膨らんで予定時間をかなり食い込んでしまったので、仕切り直していわゆる“SF”について訊くことにする。自分らの世代だとエフレーフあたりの作家か、もしくは共産主義礼讃の作品(例:マルチノフ『宇宙船220日』でも金星~火星へと探検旅行を行ったソ連の科学者一向が、火星で無茶をして遭難していたアメリカの科学者を助けて帰還する)ばかりが目立つイメージだったが、やはり正しいらしい。進化論を社会学に持ち込んだマルクス・レーニン主義に基づく体制の国では、科学的発展を遂げた社会派全て共産主義になるはず(ならなくてはいけない)であり、共産主義は常に正しい側に立たなくてはいけないわけだ。そんな社会主義SFのなかでかろうじて西側諸国でも通用するのがエフレーモフだったという説明を聞いて、長年の個人的な疑問が氷解した。さらにロシア国内で民衆に絶大な人気を誇ったのがストルガツキー兄弟であり、同じような問題意識をもって作品を発表したがやがて亡命して自分は安全なところから批判を続けたソルジェニーツィンに対し、発禁処分を受け続けながらも国内に留まりつづけたストルガツキーに人気があるのも当然というコメントも。なるほどA&B・ストルガツキーはロシア・東欧SFの中でも別格ということがよく解った。
 次は共産主義崩壊を経て、最近の状況について。ペレーヴィンやソローキンといった世界レベルの作家が日本でも次々と紹介されている印象が強いが、大野氏に言わせるとソローキンファンの編集者(訳者?)がいたなどの幸運もあるらしい。アルバニアのカダレなどひと通り話が出たところで、大野さんのお仕事にも関係するレムやストルガツキーの話へ。
 いちばん思い入れがあるのは初めて読んだストルガツキー『収容所惑星』であるとか、マキシム・カンメラーシリーズではミッションは最後にかならず失敗するが、そこが好いという熱い話。そして「解らない謎を解くとそこには絶望が待つだけ。だから考えるのはやめる」といった日本人の意識にも近い諦観や、科学哲学を究めると不可知論に至るといった話、そして物語の進行のための都合のいい設定ではなく不合理を感じるまでに徹底した演繹を行う東欧SFの(物語としての)「誠実さ」など色々な話に花が咲いた。
 と、ここで突然、大野氏から本日最大の隠し玉が出た。東宣出版という版元から出ている「はじめて出逢う世界のおはなし」というシリーズ。これは東欧やラテンアメリカといった非英語圏の文学を紹介するシリーズで、現在7冊が刊行されているとのこと。訳者も一流の方ばかりで、世間では全く話題になっていないが実は傑作ばかり......という説明に再び会場からどよめきが起こる。(なお、大野氏からはあとで「そんなんじゃなく、単にブックガイドに書き忘れていただけ(笑)」というコメントを頂いたことも一応ここに付け加えさせていただく。

 時間が無くなってきたので最後は大野氏が持参されたお薦め映像作品を駆け足で紹介することに。レムやストルガツキー原作の各種映画、あるいはストルガツキーや東欧諸国の傑作映画をDVDパッケージで次々と紹介して頂くのだが、饒舌な大野氏のコメントについつい聞き入ってしまい、質疑の時間が殆ど取れなかったのが申し訳なかった。質問のひとつ目は「諦観(=あるがまま受け入れる)」という考えであるなら、もしも人間が滅ぶような事態になったときどう反応するのか?というもの。大野氏からは「天変地異で滅びるなら潔く受け入れる。汚れた現代人は滅びるべきという考え」といった、真剣なのかブラックユーモアなのか判断に迷うような、ちょっと怖い回答があった。また冷戦終了~ソ連崩壊後の状況についての質問では、ナショナリズムに回帰して小国に分裂してしまったため、これまでロシア語という共通語で汎共産圏的な紹介をされてきた東欧SFも、これからはフォローしにくくなっていくかもしれないという寂しい話がでたところで3分ほど予定時間を超過して終了とさせて頂いた。

 うーむ、どうしても長くなってしまう。もう少し御辛抱ください。
 ふたたび休憩があり、その間、物販に加えて当日のゲストや来場いただいた作家さんたちのサイン会も開かれ、とても盛況だった。この物販は昨年もあったのだが、大学で開催されるワークショップとしては画期的なのではないだろうか。自分も沢山の本を持参して、中村融氏や大野典弘氏を始め、3コマ目のゲストである増田まもる氏や立原透耶氏、そしてイラストレーターのYOUCHAN氏など大勢の方にサインをいただいてしまった。(単なるミーハーですね。/笑)

■パネル3「クトゥルフ神話への誘い」
 さて最後のパネルはラブクラフトとクトゥルフ神話について。大学のSF研の若手2人がプレゼンと司会進行を受け持ち、コメンテーターである翻訳家・増田まもる氏と、作家で中国古典文学を専攻する大学の准教授でもある立原透耶氏が色々なコメントを加えていく――という前振りで始まったのだが、実際には当初の思惑とはかなり違ったものになった。あとの懇親会でも同席した方から「若者にはもっと場数を踏ませて鍛えてあげて」という、本人たちにとっては有り難いのか苦痛なのか分からないコメントをいただいたように、かなりギリギリな状態だったようだ。しかしそこは増田氏と立原氏がさすがのフォローで話をひっぱってくれて、かなり面白い話になったと思う。
 まずは熱烈なクトゥルフ神話ファンである学生Bくんによる、クトゥルフ神話についての基本的な解説や、日本におけるクトゥルフ神話体系を扱った作品群の紹介からスタート。なかでも創土社から数多くでている、クトゥルフ神話を用いた二次創作の話が面白かった。「クトゥルフ×少女戦隊」とか「クトゥルフ×艦隊」というように、クトゥルフに何か別のジャンルの設定を組み合わせることで新たな魅力を生み出した作品群や、組み合わせに使われている対象の幅広さなどが実例をもって示され、ラブクラフトやダーレスぐらいなら読んだことがある客席の人たち(注:自分も含む)も、とても興味深そうに聞いていた。用意した図像がことごとく小さなサイズで会場が笑いに包まれたのも、会場全体が打ち解けた雰囲気になれたので結果オーライとしておきたい。
 ここで「クトゥルフ初心者」のC君からでた幾つかの質問に答える形で、増田氏・立原氏から「ラブクラフトの作品と後にクトゥルフ神話としてまとめられた作品群は分けて考えるべき」という興味深いコメントがあった。ラブクラフトの作品の本質は自らの内側を見つめて掴み取った恐怖や疎外感といったものであり、最初から読者を想定して書かれた他の作品とは全く違うのだそうだ。ラブクラフトはリアルに描けない曖昧模糊とした恐怖を描いており、具体的なモンスターとしてイメージを具体化してしまったのが後のクトゥルフ神話であるという指摘は慧眼だった。
 増田氏の熱い語りはまだまだ続く。なぜラブクラフトの創始したクトゥルフがこれほどまでに日本で人口に膾炙し得たか?それはきっと「この世の理不尽さ」に対する諦念が共感を呼ぶのだろうとのこと。おお、ここでパネル2の東欧SFの特徴とも関係してくるコメントが!意図したものでは無かったのだが、結果的に今回は3つのパネルが互いに響きあう素晴らしいものになった。
 話を戻そう。人治を越えた絶対的な畏怖すべきものに振り回される状況は、誠実に突き詰めていけば最終的に恐怖と諦観に落ち着くしかない、というのが増田氏の主張。これを立原氏が中国におけるクトゥルフ神話の受容を例にして補完する。氏によれば中国は日本人のような世界観をもっておらず、曖昧な恐怖よりは人間の悪意や目に忌める物理的な危険への恐怖が勝るとのこと。だから何度出版しても挫折するのだそうだ。(これは中国本土に比べればまだましな台湾でも同じ傾向にあるらしい。)ラブクラフトを受け入れた欧米であっても、おそらく日本のような受け取り方はしておらずゴシックの派生とか別の受け取り方をしているのではないかという意見もあった。なおアイルランドは感性が日本に近いものがあるのでクトゥルフを受け入れやすい土壌があるかもしれないとのこと。アイルランド出身のラファティが描くホラー作品に自分がどことなくラブクラフト的なものを感じていたのは、もしかしてそのせいだったのかもしれない。
 ラブクラフトは「Cthulhu」をどう発音したのか?という話題も大変面白かった。基本的に「人間には発音できない」と著者本人がうそぶいていたように、決まってはいないのだろうという結論なのだが、沢山のアメリカ人に実際に発音させてみたところ「くるる」に近い発音になったそうだ。理由はTHとLは舌を突き出すような発音の仕方が同じで、かつ殆ど発音しないから。(ちなみに増田氏はこの「くるる」という発音が好きじゃないということだった。理由は大阪のたこ焼きチェーン店を連想してしまうから。/笑)立原氏にお聞きした中国式の表記と発音も面白い。「克蘇魯」と書いて「くーすーるー」と読むらしい。中国ではよく似た発音の漢字を当て字にするため、どうしても微妙に発音が違ってしまうとのこと。さもありなん。
 他にもラブクラフトをSFの祖ヒューゴ・ガーンズバックと同時代であることから「コズミックホラー」の創始者ではなく「アメリカにおけるもう一つのSF」の可能性を見出したり、「ラブクラフト学会」を立ち上げるべきではないのかといったアジテーションまで、とにかく増田氏が熱かった。彼の文章は小説というより散文詩であり、小説として訳すとくどい表現になる文章であっても、散文詩として訳せばリズミカルでとても読みやすいものに変わるそうだ。「とこしえに休み得るもの死者ならず、奇しき永久(とわ)に死すらも死なむ」という美しい詩とともに、増田氏の訳者としての腕前に触れた一瞬だった。今回は自分がいちどお目にかかりたい大勢の方にお会いできたのでとても満足のいくシンポジウムになったと思う。
 質疑応答でも色んな話がでたがとてもここには書ききれない。会場の林譲治氏からの「クトゥルフはハードSFとも親和性が高い」というコメントによってシンポジウム全体が最初のパネルにぐるりと戻った、というツイッターでのつぶやきと、同じく会場のYOUCHAN氏によって出た「ラブクラフトと夢野久作は顎長の風貌もさることながら活動時期までほぼ同じという、まるで生き別れの兄弟のような存在」という、まるでギャグのようなご指摘を紹介する程度でとどめておきたい。
 かくして円環は閉じた。もしもこの日、このひとときだけでも、会場の皆さんを日頃の憂さを忘れられる「ここではないどこかへ」とお連れできたのであれば、スタッフ一堂こんなに嬉しいことは無い。

 以上、駆け足で当日の様子をご紹介してみました。急ぎまとめたので乱文はご容赦。間違いなどありましたら教えていただけると幸いです。 最後になったが、わざわざ遠方からお越しいただいたゲストの皆さん、アットホームなシンポジウムの雰囲気づくりと質疑応答での鋭い質問にご協力いただいた参加者の皆さん、そして会場の手配から運営、当日の準備や発表の進行まで受け持ってくれたスタッフの皆さん、どうも有難うございました。


<追記>
 今回のシンポジウムは懇親会も最高に愉しかった。名古屋飯を出す居酒屋でYOUCHANさんと交わしたヴォネガット談義やジーン・ウルフ賛歌。そして大野さんとのソラリス談義など、とても濃く熱い夜を過ごすことが出来たのだが、それはまたシンポジウムとは別の話。いつか機会があればご紹介することとしたい。

<追記2>
 本文中にも書いたが、このシンポジウムはプロの作家さんなども一般参加者として普通に席に座って聞かれていたのがとても特徴的だった。実は今回挙げた以外にも、作家の上田早夕里氏や太田忠司氏、後藤みわこ氏に書評家の大矢博子氏など、多くの方が会場に顔を出されていた。東京のSFセミナー、京都のSFフェスティバルとならび「名古屋のSFシンポジウム」と言われるようなイベントにできると良いというのがスタッフの思いなので、これからも出来る限りは続けていけると良いと思う。いや、ぜひ続けていきたい。
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一点だけ。

☓チェコのカダレ → ◯アルバニアのカダレ

です。

大野様

ご指摘ありがとうございます。修正いたしました。
またシンポジウムでも大変に面白い話の数々を、どうも有難うございました。

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舞狂小鬼

Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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