『善と悪の経済学』 トーマス・セドラチェク 東洋経済新報社

 チェコの経済学者が書いた、一風変わった経済学の本。2009年にチェコで出版されると同時にベストセラーとなり、欧州をはじめ15か国語に訳されたとのことで、2012年にはドイツで「ベスト経済書賞」も受賞している。本書を開くと、まず目次からして経済学の本と思えない章題がついている。例えば第1章は「ギルガメシュ叙事詩」。次いで「旧約聖書」「古代ギリシャ」「キリスト教」「デカルトと機械論」と続く。アダム・スミスの名がでてくるのはやっと第7章になってからだ。
 本書が書かれた趣旨は現在の主流派経済学への批判にある。著者によれば、経済学とはもともと道徳哲学の一部だったそう。それがいつの間にか実証的な学問であることを目指して自然科学の手法を取り入れた結果、数学的整合性ばかりを追い求めるようになり、本来の目的である「人々の幸福の実現」を忘れてしまっているとのこと。
たとえば現在主流となっている経済学(アメリカ式の古典派経済学のことか?)では、経済活動を行う人間のモデルとして「所与の予算制約の中で自己の効用の最大化を目指す合理的主体」という、現実とはかけ離れたものが用いられている。確かに物理学を始めとする自然科学の学問領域においては、「摩擦の無い世界」といった“理想空間”を設定して考察することで、大きな発展をとげることが出来た。しかし社会科学である経済学の場合、現実に反映できない恣意的なモデルを用いてシミュレーションをいくら行ったとしても、実験による検証とモデルの見直しが出来ないため現実との乖離が縮まることはない。口悪く言えば「机上の空論」でしかない。(*)
 
  *…このあたりは佐和隆光著『経済学とは何だろうか』(岩波新書)の意見に近いと思う。

 著者は問う。
 「善悪の経済学は存在するか。善は報われるのか、それとも経済計算の外に存在するのか。利己心は人間に生来備わったものか。公益に資するなら利己心を正当化できるか。」
 そしてそのために著者は、過去の宗教や哲学の中に“幸福を求める手段”としての経済学の萌芽を探す。そしてアダム・スミスやバーナード・マンデヴィルといった初期の経済学者の思想のなかに、社会幸福を求める哲学としての経済学を見出そうとする。
ひとつ例を示そう。第2章「旧約聖書」や第3章「ギリシャ哲学」には次のようなことが書いてある。
 ユダヤの教えでは労働は否定すべきものではない。肉体労働を奴隷のすべきものとし生きるための必要悪としたのは古代ギリシャの人々であり、プラトンやアリストテレスらは純粋に知的な活動に専念する事こそが理想であるとした。しかしユダヤ教において労働とは喜びである。安息日とは本来、6日間働いた疲れを癒すためにあるのではなく、労働の達成を喜びその成果を愉しむためにあるのだという。同様に経済活動も本来であれば(現在の経済学の考えのように)際限なく成長し続けるのではなく、達成してひと休みし、生活の満足を味わうというものであるべきなのだ。
 また、著者によればアダム・スミスも「市場の見えざる手」という言葉に象徴されるような利己主義的経済学を確立した人物ではなく、『国富論』に先立つ『道徳感情論』では彼の経済学の基礎となる倫理が展開されているとのこと。しかもスミス自身は『国富論』より『道徳感情論』の方が優れた著作であると考えていたらしい。このように本書において著者は、現在の主流となっているアメリカ式の経済学に欠けているもの ――すなわち経済学の倫理を指し示そうとしているのだ。成長経済が国際的な危機に瀕している現在、この視点はもしかしたらとても大事なものなのかも。
 ふと思ったのだが、人を幸福にするのが“善き経済学”なのだとすれば、人により幸福のモノサシが異なるという点が課題となるだろう。物質的な満足だけでは幸福にはなれないが、精神的な満足に至るにはある程度の経済的な自由も不可欠。ただし人は豊かになってもそこで満足はせず、むしろ豊かになればなるほど更に多くの物を望む。絶対的な満足というものは無く、かといって常に成長し続けることも難しいし、過去の生活水準に戻すために禁欲することも不可能。それではすべての人の幸福を求めるにはどのようにすれば良いか。本書の中にその明確な答えがあるわけでは無いが、「安息日」を作り達成の成果を味わうという本書の提案も一つの方法ではあるだろう。
 以上、著者の全ての主張に首肯できるかは別としても、とても刺激的で面白い本だった。はたして「善き経済学」の実現は可能なのか? もしかしたら、それを見つけるのは我々ひとりひとりの仕事なのかも知れない。
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