『ソラリス』 スタニスワフ・レム ハヤカワ文庫

 言わずと知れたポーランドの国民的作家スタニスワフ・レムの代表作である。特に本作は国書刊行会のレム・コレクションで刊行された際に自分が“100点満点”を付けたポーランド語からの原典訳であり、ハヤカワ文庫SFの2000番を記念して収録されたという作品。これは気合も入ろうというものだ。タイミングよく映画「コングレス未来学会議」の公開に合わせて『泰平ヨンの未来学会議』も文庫で復刊されたし、本家のレム・コレクションでも『天の声・枯草熱』が増刷されるなど、このところ突然のレムフィーバーにひとりで喜んでいるところ。
 さっそく再読してみたところ、やはり記憶に違わず大傑作。レムの最高作と呼ぶにふさわしい作品だった。(*)訳者の沼野充喜氏による解説も大変に素晴らしいもので、まさに『ソラリス』の決定版といった仕上がりになっている。では最初に、沼野氏の解説で触れられている内容と結構重なるのではあるが、ここで自分が“満点”を付けた理由についてふれておきたい。

   *…もちろんこれは個人的な感想。他に『天の声』や『完全な真空』それに『砂漠
      の惑星』など別作品を最高作として推す人もいるし、飯田規和氏による『ソラ
      リスの陽のもとに』の方を好む人も知っている。
 
 『ソラリスの陽のもとに』が飯田氏による名訳であることを前提としての話ではあるが、そのうえでロシア語からの重訳であったために『陽のもとに』では削られてしまっていた部分が、本書では(当然ながら)全て訳出されているという点がまず好い。
 解説によれば、削られたのは「怪物たち」「思想家たち」「夢」の三つの章を中心に、全体でおよそ原稿用紙40枚分(7%強)の文章らしい。二冊を並べてざっと見比べてみたところ、ケルヴィンがソラリス・ステーションの図書室でソラリス学の文献を読みふける部分が抜け、そして“実験”を終えたあと暫くのあいだケルヴィンがみた悪夢の描写が、しごくあっさりしたものになっていた。従来訳ではこのあたりが無いことでストーリー展開にはずみがついた感じはするが、かわりに物語の豊かさみたいなものが減ってしまっている気がしないでもない。(たとえば「擬態系生体(ミモイド)」と呼ばれる“海”の形態の描写で、とくに「脊柱」と呼ばれる形状変化について書かれたくだりがごっそりと省かれてしまっている。話のうえでは特に支障があるわけではないのだが......。)どちらを選ぶかは読む人の好みだが、自分にとってはこれらが物語にリアリティを増すための重要な要素であっただけに、新訳版の方がよりいっそう愉しめた。

 そもそも自分は本書に限らず、色々な読み方ができる作品が好きだ。ジーン・ウルフやクリストファー・プリーストの作品なんてまさにそうだし、『百年の孤独』や『ダールグレン』が好きなのも同じ理由。その意味で『ソラリス』も、どんな読み方をしても受け止めてくれる懐の深い作品といえるだろう。
 まずはソラリス・ステーションを訪れた主人公ケルヴィンが遭遇する異様な状況と“お客さま”の正体をめぐるミステリ的な読み方。これは『捜査』や『枯草熱』にも共通するもので、読む側にとっては取っ付き易い。冒頭でスナウトが見せる謎の行動から読む者の心を鷲づかみだ。(笑)
 次はケルヴィンとかつての彼の伴侶であるハリーにより展開する、ラブ・ロマンスとしての読み方。恋愛の心理描写はレムの小説には極めて珍しいのだが、ある意味、極限状況における愛を描くことで、それがもつ根源的な意味を読者に問いかけるものになっている。(ちなみにソダーバーグ版の映画「ソラリス」はテーマをその点に絞ったものと聞いたので、こわくて観ていない。/笑)
 そしてもうひとつが、(おそらく本書の中心的なテーマの)異質なものとのコミュニケーションに関する物語としての読み方。学生時代に『陽のもとに』を読んだ時はまさにこの視点でしか読まなかったし、その上でソラリスが何らかのコミュニケーションを図ろうとしているという“安易な”解釈に飛びついてしまったのは恥ずかしい限りだ。(いや、別に恥ずかしいことはないか。そういうのもまたひとつの解釈ではあるし。)
 今にして思えばそれは、ヘリコプターのパイロットが霧の中で遭遇したという赤ん坊のエピソードや、あるいは本書135ページにある「われわれは宇宙に飛び立つとき(中略)宇宙を征服したいわけでは全然なく、ただ、宇宙の果てまで地球を押し広げたいだけなんだ」そして「そして、宇宙の向こう側から真実が ――人間が口に出さず、隠してきた真実が―― 突きつけられたとき、われわれはそれをどうしても受け入れられないんだ」といったくだりの印象があまりに強く、コミュニケーション(およびその不在)にとらわれ過ぎていた為かも知れない。実際には解説にもあるようにレムは“人間中心主義”や“アントロポモルフィズム(人間形態主義)”を明確に否定しているわけだが。

 ソラリスの海は人間にとってどこまでも理解不能な存在であり、ソラリスを研究することは「群盲、象をなでる」に近い。発見以来、単に自動的に反応を返すだけの原形質(プラズマ)の集まりという見方から、高度で異質な知性をもった生物という見方まで、あるいは崇敬から憎悪の対象までといった、大きな振幅をもって人類に扱われてきたソラリスの海。たとえ人間中心主義による仮説を否定したとしても、その代わりになる答えがあるわけではない。巨大すぎる球面が近くでは平らな壁にしか感じられないように、至高の存在は不可知の壁となって人類の前に立ちはだかる。理解など始めから望むべくもなく、我々に許されるのはただその前で理解しようと対峙し続けることだけ。まさに“天の声”そのものである。
 レム自身は本書の執筆意図として「未知なるもの」との出会いと、そしいて「それを理解しようと試みること」を挙げているそうだが、仮説をことごとく粉砕する相手に対し「〇〇ではない」を繰り返すことでしか近づけないというのは、キリスト教的なアプローチである「否定神学」にもちょっと似ているかも知れない。そう、ソラリスの海は限りなく「神」に近い存在なのだ。そして「宇宙時代の宗教の代用品、科学の衣裳を身にまとった信仰」としてのソラリス学は、やがて錯綜し袋小路だらけの迷路と化して学問そのものに対する問いかけとなるのである(**)。

  **…なお解説にもあったが、当時の共産圏では「科学におけるたゆまぬ努力に
      よって人類に展望が開かれる」という考え方が主流。レムは『金星応答なし』
      から一貫してそれに対する疑義を示しているにせよ、本書ほどあからさまな
      作品がよくロシアで出版できたものだと思う。

 話は少し変わるが、レムの中で同じコミュニケーション(の不在)の問題を扱っている『エデン』や『砂漠の惑星』といった宇宙3部作の他作品と本書が違っているのは、2作品では相手側になんらかの形で人間にも理解(推測)可能な行動原理が見られたが、“海”にはそのような理解の手がかりが皆無という点だろうか。コミュニケーションの不在(拒否?)を貫くことで逆説的にコミュニケーションを図るということでは、メルヴィルの『白鯨』におけるエイハブ船長とモービィディックの関係にも似ていると言えるのかも知れない。さらにいえばソラリス学における“海”の執拗な造形描写による脱線も、『白鯨』におけるクジラの生態や捕鯨の実態についての記述に似ている。解説ではスウィフト『ガリバー旅行記』が引き合いに出されていたが、自分としてはむしろ『白鯨』に近いのではないかと思う。いずれにせよ本書の一筋縄ではいかない多様性が鮮やかに浮かび上がってくるようだ。(そのとき読者の前には世界文学への扉が開かれているのである。)

 最終章「古いミモイド」でケルヴィンとスナウトが交わす、“欠陥を持った神”としての“海”に関する神学的な意見や、その後にケルヴィンがひとり佇む“海”のシーンは、本書を静かで不思議な抒情性に満ちた読了感で満たす。まさに傑作と呼ぶにふさわしい作品だと思う。自分にとって、汲めども尽きぬインスピレーションの源こそが本書『ソラリス』なのだ。

<追記>
 本書315ページに、「(ある特定の研究分野に偉大な才能の持ち主が生まれるかどうかを決めるのは)おそらく、その分野が開いて見せてくれる未来の展望だろう」という記述がある。文章の流れとしては科学に関するものであり、レムの科学に対する思想が素のかたちで表されているような気がするのだが、これは本書にもそのまま当てはまることなのではないだろうか。このような世界を見せてくれる作品が書き続けられていく限りは、SFというジャンルの未来はまだ捨てたものじゃないとおもうのである。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

最新記事
カテゴリ
プロフィール

舞狂小鬼

Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

最新トラックバック
FC2カウンター
最新コメント
リンク
月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR