『開かれ』 ジョルジョ・アガンベン 平凡社ライブラリー

 副題には「人間と動物」とある。なんとも中身を説明しにくいのだが、イタリアの哲学者が人間の定義についての思想史を俯瞰しつつ考察した本とでも云えば良いだろうか。博識な著者が案内する「人間と動物の定義を巡るガイドツアー」みたいな感じ。ただし普通のガイドブックにあるようなメジャーなコースではなくて、わざと道を外したり回り道(しかも悪路/笑)だったりする。進んでいく学問領域は人文主義から分類学、生理学に動物学や解剖学と様々。
 古来、キリスト教系の宗教では人間と動物を厳密に区別してきた。そこには、あらゆる動物は神の似姿である人間に使役されるためにある ――という考えが根底にある。となれば、人間(=魂を持つもの)の定義をどうしても明確にしておく必要があり、しかもそれは「動物ではないもの」といった消極的な定義ではなく出来れば「〇〇する存在」という明確なものが望ましい。かようにヨーロッパではこれまで人間と動物を区別するための概念がさまざまに考えられてきたわけだが、残念ながらいずれも上手くいかなかった。
 それは何故か?著者はそれら過去の取り組みによる考察(=「概念装置」)を「人類学機械」と呼ぶ。そしてそこで考察された人間の定義を「機械仕掛けの光学機械で歪められた像」として退け、これまでのものとは違うスタンスで考察していく。数多くの領域を軽やかに横断しながら......。

 具体的な内容に移ろう。本書で取られている方法はフーコーの系譜学の手法。過去からの文献を渉猟し、それらを読み込むことで当時の考えを再構築しようとする。まず取り上げられるのはエゼキエル書にみられる幻視や、グノーシス派の彫刻にある動物の頭部をもつ人々(動物人、無頭人)などの図像。おつぎはスコラ哲学における定義だ。(いずれも古い!/笑)
 たとえばキリスト教で復活した者たちは生前と同じように食事をして排泄するのか?という問題。あるいは性交はどうなるのか?といった難問について、当時の教団がどのように考えたのかを丹念にひもといていく。(自分からしたら正直どうでもいいような気もするが、当時の人々にとっては大問題だったのだろう。)
 そこから見えてくるのは人が「(人として)生きる」とはどういう意味かという問い。つまり終末のときに「復活」するのはどの属性までなのか、あるいはどのような存在としてなのかということ。排泄や生殖といった営みを否定するということは、すなわち自然状態に「生きている」動物の姿を天国から抹殺するということに他ならない。
 “分類学の父”であるリンネによる人間の定義も取り上げられる。本書によればそれは人間とは「自らを人間と認識する動物のこと(意訳)」らしい。これなどはトートロジーっぽいが結構皮肉が効いていて面白い。別の説としては19世紀末のユダヤ系の言語学者ハイマン・シュタインタールによる、「言語の有無が人間と動物を分ける」というのもある。しかしこれらの定義も人間と動物の中間的な存在を考え出すと自己撞着に陥りたちまち破綻していく。(例えば人狼や人熊のような「人獣」と、狼に育てられた少年「動物人」など。)どうやら人と動物の間には、限りなく接近はできても最後にどうしても飛び越えることのできない深い断絶があるようなのだ。ヨーロッパの思想家たちは、結局のところその深い溝をあちこちに恣意的に動かすことしか出来てはこなかったといえる。

 しかし画期的な考察はユクスキュル(*)によってもたらされた。彼の「環世界」の概念は、生物にとって世界は全く違うものだとする認識論や認知科学への道をひらいたものと言える。本書の白眉は何と言っても、ユクスキュルからその後のハイデガーへと至る考察を取り上げた部分だろう。(それにしてもユクスキュルの考え方がハイデガーに影響を与えていたとは知らなかった。言われてみれば確かにハイデガーの云うところの「世界内存在」というのは、まさにユクスキュルが提唱した「環世界」に生きる生物の認識に近いのかもしれない。)

   *…19世紀から20世紀に活躍したドイツの生物学者。『生物からみた世界』が有名。

 ハイデガーによれば、人間と動物を分かつのは動物の「放心」と呼ばれる状態らしい。それは「何かをそのものとして知覚する一切の力を剥奪された状態」だそうだ。(分かりにくいが、何も考えないで受け身の状態のままぼけっとしている感じかな?)
 例えば石のような非生物にとって世界は無いも意味しない。ただそこにあるだけである。次に人間にとって世界とは、様々な目的のためにその都度意味合いを変えて立ち現れるものであって、「世界内存在」とはそのような形で世界を認識・意味づけして状況に応じその都度「開くことができる」存在(=人間)を意味する。それでは動物はどうか。本書によれば動物とは非生物と人間の間で宙つりになった状態なのだそうで、これをハイデガーは「露見なき開示」と呼んでいるらしい。(だとすれば道具を使う猿やカラスはどうなのか?などと思ってしまってはいけないのだろうな。/笑)
 ちょっと余談になるが、ここで思ったことを少し。ハイデガーのこの定義はちょっと恐ろしい考えにつながるものなのかも知れないと思った。世界を意味づける意識こそが人間を人間たりえているものだとすれば、自己意識を持たないまま生きているものや「倦怠」(≒惰性で過ごす無気力状態)に陥った者は、少なくともハイデガーの考える意味では“人間ではない”ということになりはしないのだろうか。そこから脱して未来へ自らを投企していかなくてはならないとハイデガーは説くが、それは動物の「放心」とはいったい何が違うのだろう。いくら両者は根本的に違うと主張しても、外側からは区別できないほどに酷似しているのは否定できない。とすれば(ニーチェの超人がナチスによって曲解され優生学的思想に利用されたように)ハイデガーのこの考えも根本的なところで絶滅収容所へと近づいていく危険を内包するものではないのだろうか。

 閑話休題。アガンベンは、ハイデガーの「動物の放心」と「世界の開かれ」をめぐる関係は、ちょうど否定神学と肯定神学の関係にも似た両義的なものであり共犯関係にあるものだという。そして本書のタイトルでもある「開かれ」(das Offene)とはすなわち“開かれ/リヒトウンク”であり、同時に“無化/ニヒトムンク”でもあるのだと述べる。しごく納得できる意見ではある。彼によれば、ハイデガーは(人間と動物の間の定義という)アポリア/難問を、旧来の人類学機械によって解決できると信じた最後の思想家であったとのことだ。うーん、なんだか格好いい表現。こういうの好きだなあ。(笑)
 ハイデガーの次にはベンヤミンも取り上げられる。彼の思想はグノーシス派のように自然を(悪しき神に創られた)不完全なものとしてではなく、むしろ至福の原形に据えたものだそうだ。人間は「ある程度まで自然」と重なっており、人間を自然から切り離している要因は「性的充足」であるというのがベンヤミンの見解らしい。うーん、ベンヤミンは殆ど読んでいないからよく解らないなあ。性によって人は、羞恥や嫉妬や隠蔽の智恵を知るということだろうか。(これもまたしっくりこないけれど。)
 人間という概念は、人間自身が恣意的につけた区分でしかないとはっきり認める方が理にかなっているような気もするな。ただこの考えは、啓典の民であるキリスト教徒やユダヤ教徒には受け入れがたいところなのかも知れないが。

 以上、あちらこちらをふらふらと彷徨いながら、「人間とは何か?」について考察を続ける本書を読むことで、久しぶりに頭の体操になった。本書を読むことで単純に答えが見つかるわけでも無いのだが、たまにはこういう事を考えるのもいい。少なくとも様々に交差する考察を読むだけでも充分に刺激的な経験だった。読書の愉しみとはこういうところにあるのだよねえ。
 最後に余談になるが、本書の題名である「開かれ」というのは、すなわち人が人であることの根拠は“自らを外の世界へと開いていく試み”にあるのだということを示しているのかも知れない。アガンベンの主著であるとされる『ホモ・サケル』も読んでみたくなったぞ。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

最新記事
カテゴリ
プロフィール

舞狂小鬼

Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

最新トラックバック
FC2カウンター
最新コメント
リンク
月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR