『教皇ヒュアキントス』ヴァーノン・リー 国書刊行会

 先日、簡単な感想はアップしたのだが、せっかくなのでもう少し書き足してみたい。

 著者ヴァーノン・リーは19世紀末にヨーロッパで活躍した女性作家で、歴史や音楽、文学、芸術などに関する研究書の他、本書のような幻想小説などのフィクションも書いた。イタリアを中心にイギリスやフランス、スイスなど各地を転々としたそうで、英語の他フランス語、ドイツ語、イタリア語を自由に使いこなせたらしい。(以上、翻訳者の中野善夫氏による「訳者あとがき」による。)
 とまあ、偉そうに書いてはみたが、実をいうとこの作者はつい近年まで名前すら知らなかった。彼女の名前を知ったのは、『短篇小説日和』(*)という本で読んだのが初めて。本書にも収録されている「聖エウダイモンとオレンジの樹」だった。

   *…西崎憲氏の編訳による2013年刊行のオリジナルアンソロジー。奇妙だったり
      怖かったりと、とても面白い短篇ばかりを集めた本で、姉妹篇の『怪奇小説
      日和』(2013)ともども翻訳小説ファンにはお薦めの作品集。A・E・コッパード
      やエリザベス・ボウエンなど、この2冊で初めて知って後から作品集を買い求め
      た作家も多い。

 その次にヴァーノン・リー作品を読んだのは『怪奇小説日和』所載の「七短剣の聖女」。(これは本書には「七懐剣の聖母」という題名で収録されている。)本書が出るまでは僅かこの二作を読んだのみだったのだが、懐古趣味とも違う一種独特の雰囲気が強く印象に残った。かたや中世を舞台にしたキリスト教の聖者の奇蹟の物語、かたやドン・ファンの如き放蕩児を主人公にした千夜一夜物語のようなエピソード。いずれも古風で端正な作りの文章でありながら、題材はユーモアだったり怪奇であったりと多彩な内容で飽きさせない。
 もっと他の作品を読んでみたいと思ったのだが、ウィキペディアで調べても実はヴァーノン・リーの名前は出てこないのだ。「よほど知られていない作家なのだなあ」などと失礼な感想を呟きつつ、ツイッターでお付き合いさせて頂いている中野氏が翻訳を完成させるのを一日千秋の思いで待ち続けた。脱稿から販売価格決定までのやりとり、林由紀子氏の美しい版画を使った素晴らしい装丁や中野氏による奇抜な販促活動等々、本書を巡るとても面白いエピソードは山ほどあって実は現在も進行中なのだが、それは本書の中身とは別の話。またの機会に譲ることとしよう。
 以下に本書収録の作品名を挙げる。

 「永遠の愛」
 「教皇ヒュアキントス」
 「婚礼の櫃(チェスト)」
 「マダム・クラシンスカの伝説」
 「ディオネア」
 「聖エウダイモンとオレンジの樹」
 「人形」
 「幻影の恋人」
 「悪魔の歌声」
 「七懐剣の聖母」
 「フランドルのマルシュアス」
 「アルベリック王子と蛇女(スネークレディ)」
 「顔のない女神」
 「神々と騎士タンホイザー」

 以上、全部で十四篇。まさに“決定版作品集”といえるだろう。(事実、本書が公表でも同じスタイルで第二集の編纂は出来ないと中野氏も述べている。リーの幻想作品の中でも選りすぐったものばかりを集めたものなのだ。)
 これから読もうかどうしようか迷っている方のために、とても大雑把ではあるが収録作を傾向別に分けてみると、概ね次のような感じになるだろうか。いずれも一篇ごとの濃度が濃くて一度に多くは読み進められるものではない。いやむしろ勿体ないから、一日ひとつずつゆっくりと味わって読むのが正しい読み方なのかもしれない。

 1.ある種の「ファム・ファタール」(運命の女/魔性の女)とでもいうべき存在を描く作品
  ⇒「永遠の愛」「ディオネア」「幻影の恋人」「悪魔の歌声」
 2.中世キリスト教の聖者・聖女や無垢の心をもった人々の物語
  ⇒「教皇ヒュアキントス」「アルベリック王子と蛇女(スネークレディ)」
    「聖エウダイモンとオレンジの樹」「マダム・クラシンスカの伝説」
 3.悪魔のような男とその報いを描く作品
  ⇒「婚礼の櫃(チェスト)」や「七懐剣の聖母」
 4.掌編ながら強烈な印象で心に残る作品
  ⇒「人形」「フランドルのマルシュアス」「顔のない女神」
 5.ギリシアの神々を題材にしたとても愉快な喜劇
  ⇒「神々と騎士タンホイザー」

 ツイッター上でこれらの作品の中から特に気に入ったものを3つ選ぶというイベントが行われたのだが、参加者の人の選んだ作品が千差万別で眺めているだけでとても愉しい。そして異口同音に「どれも好いので3つに絞れないが敢えて選ぶとすれば」と云っていたのも面白かった。(ちなみに自分が挙げたのは「聖エウダイモンとオレンジの樹」「七懐剣の聖母」「アルベリック王子と蛇女」だが、他に同じぐらい好きな作品として「教皇ヒュアキントス」「永遠の恋人」「ディオネア」「人形」「フランドルのマルシュアス」があり選ぶのに迷った。なおここで名前を挙げなかった他の作品についても、読みごたえのある良い作品ばかりだと思う。)

 ひとつ断っておくが、ヴァーノン・リーの作品は読むのに時間がかかるが、決して読みにくいわけではない。むしろ文章は意味を取りやすく具象的で解りやすいのではないかと思う。ではなぜ読むのに時間がかかるのか?(本が分厚いというのは横に置いておくとして。/笑)
 それは、冒頭にもあげた「古風」という言葉が鍵ではないかと思っている。良くも悪くもヴァーノン・リーらしさはまさにこの「古風」を感じさせるところにあって、尚且つそれは3つの要素からなっているのではないかと思っている。
 まず一つめは「題材」。中世キリスト教や古代ギリシアの神々などはもちろん、昔ながらの貴族階級の暮らしぶりなどがふんだんに取り入れらるなど、産業革命や共産主義の嵐が吹き荒れる現実世界とは一線を画した―― つまりある意味“浮世離れ”した題材を選んでいる点が大きな特徴。逆にこの事こそが、彼女の作品が時代の移り変わりによる風化逃れ、現代にも通用する普遍性をもった理由ではないかという気もしている。
 二つめの要素は「言葉」。「雪花石膏(アラバスタ―)」や「縁飾り(フリンジ)」、「蛇腹(コーニス)」に「荘園領主館(マナーハウス)」といった、普段は目にしないような言葉が頻出するので、意味を理解するのに少し時間が必要だったりするところはあると思う。なおこれについては中野氏による訳文も大きく貢献していて、たとえば「捩れた(よじれた)」「抽斗(ひきだし)」「狡猾(こうかつ)」といった言葉の選び方を見ると、“今使われている読みやすい日本語”による訳とは一味違うこだわりの良さを感じるものである。
 そして最後の三つめは「物語の枠組み」。これについては少し説明が必要かもしれない。昔の物語は語り部による口承が基本にあって、そのため(今の小説のように)いきなり地の文で始まることなく、冒頭に語り手を設定するなどして、物語自体をひとつの枠組みの中に閉じ込めてしまう手法がとられていた。(有名な作品では『フランケンシュタイン』や『ポールとヴィルジニー』などでも二重三重に語り手が設定されており、現代の読者が読むと却って枠が邪魔に感じられることがあるかも知れない。)
 この枠組みのことを通称“額縁”と呼ぶらしいが、ヴァーノン・リーの作品はいずれも誰かが誰かにあてた書簡や日記の形式をとったり、或いは語り手による過去のエピソードの回想という額縁を持っているものが殆ど。物語の外側にそれを語るものが設定されているという点が、先に挙げた二つの要因と共に彼女の作品に古風な印象を与え、且つそれとともに重層的で深い味わいを与える源泉となっているのではないだろうか。(他の方はどうか判らないが)少なくとも自分が本書を読むときは、まるで語り部が炉端で物語を語ったり、古い教会の図書館で古文書を読んでいるような雰囲気に包まれる。これはきっとそのせいであるに違いない。

 定価で4600円(税別)、ハードカバーで解説まで含めると500ページを超える大部ではあるが、どれも粒よりの作品群でたっぷり一月近くを愉しませてもらうことが出来たので、決して高い買い物では無かったと思う。これをきっかけにして、これから日本でもずっと幻想文学の定番として長く親しまれるようになると嬉しいのだが。幻想文学ファンには一生の宝物になるような本だと思うので、迷っている人がいたら是非手に取って読んでみることをお薦めしたい。決して損はしないと思う。あとがきで中野氏が書かれているように、まさに「あり得ないような短篇集」なのだ。

<追記>
 本文では触れなかったが、ヴァーノン・リーの訳書には他に『ことばの美学』という、“美”に関して書かれた文章の抄訳が出版されているようだ。当初は歴史や文学、美術などに対する研究から著述活動をスタートした彼女にとって、本書のような幻想小説を書くということにはいったいどんな意味があったのだろう? 筆名が男性名であることや当時の女性の社会的位置づけを考えた場合、彼女にとって幻想文学とは空想の翼を自由に広げることのできる大事なものであったのかもしれない―― そんな風に考えたりもする。出来れば彼女にとって単なる手慰みなどではなく、そんな存在であったのだと信じたい。なぜなら本書により、自分にとっても彼女の作品は大切なものになったわけだから。
 最後になったが本書を世に出してくれた関係者の皆さんと、そしてこの本が世に出る瞬間に立ち会うことが出来た幸運に感謝して終わりとしたい。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

最新記事
カテゴリ
プロフィール

舞狂小鬼

Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

最新トラックバック
FC2カウンター
最新コメント
リンク
月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR