『黄金時代』 ミハル・アイヴァス 河出書房新社

 著者ミハル・アイヴァスはプラハ在住のチェコの作家。日本での本格的な紹介は長篇『もうひとつの街』(2013年2月刊)に続いて2014年11月の本書が2作目となる。(正確には高野史緒氏によるアンソロジー『時間はだれも待ってくれない』に『もうひとつの街』から訳出が一部あり。)プラハといえば錬金術や魔術のイメージ。曲がりくねった路地裏に佇むゴーレムなんかがすぐ頭に浮かぶわけだが、さすが本書もさすが一筋縄ではいかない。一読、強烈な印象を残す幻想作品となっている。(ちなみにロシア・東欧地域では、SFやファンタジーや幻想小説のジャンルを全部ひっくるめて「ファンタスチカ」と呼ぶらしい。)

 物語の舞台はアフリカ西の沖合、スペイン領カナリア諸島とカーボベルデ共和国の間にあるとされる架空の島。かつてその島に暮らしたことがある語り手が、当時の記憶を辿りながら人々の暮らしぶりについて書きつづったという設定になっている。
 全体の構成は大きく二つに分かれていて、前半は島での暮らしぶりがまるで文化人類学のテキストのような味わい。つづく後半はその島に伝わる“ある物”についての紹介がなされている。
 前半に描かれる様々な風景、たとえば時刻により異なる匂いを漂わせる水の壁で囲まれた「上の町」や、首都である海辺の「下の町」とそこにある王宮の様子などは、何とも言えず静謐で奇妙な魅力に溢れている。加熱調理を一切行なわない島の(とても食べ物には思えない/笑)伝統料理も可笑しいが、なんといっても想像力をかき立てるのは島の人々が使う言葉や文字についての解説だろう。
 膨大な数の接頭辞や接尾辞と複雑な格変化をそなえた島の言語。そして象形文字のように記号と図像の境界どころか、意味とモノの境界すらやすやすと超えてしまう文字の描写は、途中で何重にも挿入される様々なエピソードと相俟って、読んでいると眩暈すら覚えるほどだ。
 本書中のある挿話の中で語られる「ありとあらゆる場面が詳細に描かれた巨大な細密画」のように、細部まで微に入り細に入り描き込まれたひとつひとつのエピソードの面白さに目を奪われながらも、本書を読み進むにつれて徐々に不安になっていく自分にふと気が付いた。

 「いったいこの本は何が書かれているのだろうか?」

 しかし心配は無用だった。後半に至り、それら全てが作者の企てる壮大な仕掛けの一部としての意味を明らかにしていくにつれ、静かな興奮が湧きあがってくる。アラビアンナイトを思わせるエキゾチックでグロテスクな物語の開幕とともに、一気呵成に最後まで読み切ってしまった。
 レーモン・ルーセル(『アフリカの印象』)やジーン・ウルフ(『ピース』)、それにマーヴィン・ピーク(『ゴーメンガースト』)などが好きな人なら、またボルヘスやガルシア=マルケスにブルガーコフなどが気になる人も、きっと本書を気に入るのではないかと思う。実をいうと訳者の阿部賢二氏は本書を訳すのに4年をかけたと小耳に挟んだのだが、(真偽のほどは知らないけれど)納得できる話ではある。日本語で読んでもこれだけ読み応えのある本を訳すのは、さぞやご苦労だったことと思う。本を読むことの愉しみというのは、おそらく本書のような作品を読むことを云うのだろうねえ。
 最近は翻訳小説が売れなくて出版社や翻訳家の方が困っているという話をよく聞くが、こういう本は是非とも売れて欲しいものだと思う。本書の英訳版がAmazonの2010年度SF・ファンタジー部門で一位を獲得したということだが、その肩書は決して伊達ではない。
 
 とまあ、以上がネタバレなしの感想。ここから先は本書の内容に触れるので、未読の方はご注意いただきたい。




 ここまで書いてきたように前半部分も文化人類学的な興味で大変興味深かったのだけれど、実をいうと島の言語や文字や記号とモノのエピソードのつながりが、いまひとつピンと来ていなかった。やたら細かい描写の羅列と脈絡なく挿入され脱線を繰り替えす物語に、なんとなくモヤモヤしたものを感じていたのは事実だ。
 しかしその印象が一変したのは後半に差し掛かって一変した。島に伝わる唯一の芸術である一冊の「本」(*)が登場してから、前半に延々と続いた脱線や錯綜は実はこの「本」の形態を真似たものであることが徐々に判ってくる。ここにきて本書は俄然メタフィクションとしての相貌を見せ始める。
 後半はこの「本」の仕掛けと、その中のひとつのエピソードを中心に語られることになるのだが、何しろこの「本」というのがすごかった。

   *…島で一冊しかないので名前は無く、ただ「本」とだけ呼ばれている。

 ボルヘスの書いた「砂の本」という短篇(平凡社ライブラリー『砂の本』所載)をご存じだろうか。この作品には、開くたび違うページが出てきて二度と同じ内容が読まれることのない本(=砂の本)が出てくる。本書に出てくる「本」は、またそれと違った形で物語の極北を示していると云えるだろう。
 その「本」にはあらゆるページのあらゆる箇所に、蛇腹になった薄い紙で本文に対する註釈や挿話が張り付けられ、さらにその註釈に対して新たな註釈が付けられるなど、始まりも終わりも無い巨大なオブジェと化している。「本」は島民の間で順繰りに回されていて、ある人によって描き込まれたひとつの物語は、また別の人によってあるいは付け加えられあるいは削除され、変幻自在に変貌を遂げてゆく。時には水がかかって滲み消えてしまったページも出てくるが、残された文字の跡(沁み)さえもが読み解かれ、また別の意味を持った言葉として立ち上がってくる。
 先ほども少しふれたように、まさにこの「本」を成り立たせている仕組みこそが、本書の前半で執拗に語られた「島」の言葉であり文字であり、はたまた意味とモノの境界を曖昧にする言語構造であったとうわけだ。(この仕掛けが徐々に見えてきた時には、背中をぞくりと走るものがあった。)
 そして1/3を過ぎたあたり(第34章)からいよいよ、本書の一番のヤマ場である「本」の中のひとつながりの物語(**)へと向かうことに。これまでどちらかというと動きが少なかった本書は、ここへきて突如勢いづいて読者を翻弄し始める。

  **…ふたつの王家が何代にもわたって繰り広げた争いの物語。息をつかせぬスピード
      感と、エキゾチックで残酷な描写は、帯で古川日出男氏も書かれているように
      『千夜一夜物語』を彷彿とさせる。

 しかしこれだけ面白い挿話であるにも関わらず、この「本」においてあらゆる物語は特定人物による創作ではなく、複数の人間による恣意的な挿入と加工により、ある時期にたまたま成立した偶然の産物でしかない。(しかもその時そのページをたまたま目にした者だけが読むことのできる物語でしかない。)つまりは物語であるにも関わらず物語られることが否定され、メタフィクションになってしまっているのだ。まるで無限に連なる小さな鱗が形を変えてきらきらと、角度によってそのつど違った模様を描くようにも見える。まさに無限増殖する迷宮としての書物がここには現出しているといえるだろう。
更に凄いのは「本」が、(比較的よくあるように)外部に拡散・増殖してやがてバベルの図書館と化す“本の無限”ではなくて、まるで「アキレスと亀」の如く極小の中に本の無限をみてるということ。いや、これは面白い。エッシャーの無限循環の絵をみるようでもある。
 本書の中には「本」に関する次のような描写もある。

 「物語は何層にもわたって相互に挿入されているため、内部の奥深くに入ろうとする者にしてみると、「本」は、歯車や伝動装置が何層にもなっている、目的のはっきりしない巨大な機械のような印象を与えていた。」

 これなどは、そのまま本書に当て嵌まることではないだろうか。誤解を恐れず言えば、西崎憲氏の一連のファンタジー作品(『世界の果ての庭』や『ゆみに町ガイドブック』など)にも共通するような雰囲気があるようにも思えてしかたがない。複数の視点からなる構成で最初は緩やか動きだしながらも、やがて渦を巻いて急流と化し読む者を呑み込んでいく作風は、『もうひとつの街』でもそうだったように思える。これは果たして著者の特徴なのだろうか、それとも東欧という地域が伝統的に持つものなのだろうか。
 いずれにせよ、本棚にはお気に入りの一冊がまたひとつ増えたようだ。
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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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