『近代化と世間』 阿部謹也 朝日文庫

 副題は「私が見たヨーロッパと日本」。地味な書名だが(失礼!)中身はすこぶる面白い。著者は中世ドイツの文化や賤民意識を通じて西洋社会の成り立ちを研究した人で、『ハーメルンの笛吹き男』や『刑吏の社会史』などの著作はとても好きだ。晩年は興味の対象を日本の歴史意識まで広げて(というか立ち返り?)、「世間」という言葉をカギにして日本社会に関する様々な文章を著した。本書はその集大成とでもいうべきエッセイで、2006年に刊行され最後の著作となった 元々は朝日新書で出ていたのだが、今回の文庫化により多くの人が手に入れやすくなったのは良い事だと思う。
 全体は3つの章に分かれていて、第1章一は西洋の中世社会おいて共同体のもつ意味と賤民意識の誕生、もしくは共同体からの追放といった、著者がこれまで研究してきたテーマの大まかなおさらいになっている。次いで第2章では舞台を日本に移し、明治以降の日本社会が拠りどころとしてきた「世間」という概念と、そこで重要視される「贈与・互酬」という価値観について考察する。最後の第3章は少し毛色が変わり、日本哲学学会での講演を文章に起こしたもの。西洋と日本の歴史に対する意識の違いについて、(第1章・第2章と若干重複する部分はありながらも)その概要について簡潔にまとめられている。
 では第1章から順に印象に残ったところを紹介していこう。

 ヨーロッパにおいて共同体を一歩出ると、その先に広がっている“森”は「生者の領域」である村落と異なり、狼や死者が跋扈する「存在の夜の領域」であったそうだ。(日本の場合は、小松和彦氏による“異界”という表現がぴったりくるだろうか。西洋とは違って必ずしも人間社会に敵対するものではないと思う。)
 9世紀頃のゲルマン共同体では、許されざる罪を犯した者は「平和喪失者」を宣告され、オオカミの皮を着せられ或いは頭から被せられ「wargus/人狼」として森へと追放される。人間と動物もしくは生者と死者の境界が無い社会において追放された者は生きながら死者と見做され、その時から妻は寡婦、子供は孤児とされる。共同体からの追放とは当人を生者の領域から「夜(死者や魔)の領域」へと排除する行為を意味し、そのシンボルこそが森であったのだという。
 しかし追放された者が必ずしも全て死に至ったわけでもないようだ。「人外」とされた彼らは時に徒党を組んで人間社会に敵対し、森から生者の村に介入して復讐を為したとある。もしかして村人によって“平和喪失宣言”を宣告され追放された者は、人外になると同時に意識まで変容してしまったのかもしれない。そして彼らが訪れる四旬節や十二夜(=“狼の時”)は、百鬼夜行のように死者の軍勢が通り過ぎるとされる時とされるようになった。(その様子は村人たちにとって、まるでトールキン『指輪物語』や映画「ロード・オブ・ザ・リング」に出てくる冥王サウロンの軍勢のようなものだったかも知れない。/笑)

 以上、森は中世西洋の人々にとって恐ろしい世界であったわけだが、人間に制御しきれないものが実はもうひとつあった。それは火や水といった「自然」に属するもの。(森もある意味ではそうかも知れない。)
 炎は竃(かまど)などの特殊な手順を踏んで後にやっと使いこなせるものであり、取り扱いには細心の注意を要する。少しでも使い方を誤ると家屋や村落を丸ごと破壊してしまう可能性すらある、恐れる(畏れる)べきもの。従って当初中世ヨーロッパでは、死者/火/水といった人間には御しきれないものを扱うスキルを持つ者たち、すなわち煙突掃除夫/水車挽き/刑吏/埋葬人といった人々は、聖なる存在として扱われていたのだそうだ。(*)

   *…本書では詳しく書かれていないが、「宇宙につながるもの」としては他にも“性”
      が制御されるべきものとされたらしい。

 しかしこれらの伝統的な価値観はおよそ12世紀になって大きく変貌を遂げた。それはキリスト教により罪の告解が行われるようになり、「個人」という概念が生まれたためだ。キリスト教は聖なるものへの憧憬や、神と個人が直接対峙することによって、自己意識というものの純化を推し進めた。その結果、それまでの「他者との絆によって自己の存在を確認する社会」や、自然と村落(=人間)という二つの宇宙に基づいて生活してきた人々の価値観は大きく動揺した。そして心情的に二律背反する感覚のなか、聖なる職業とされてきた煙突掃除夫ら「宇宙と関わる人々」が賤視されようになっていったのだそうだ。
 とまあ以上が第1章の大雑把な内容。これまで色々な本で考察してきたテーマがコンパクトにまとめられている印象だ。(ちなみに中世の人々の伝統的な価値観を脅かすものは他にもあって、本書では王や教皇といった世俗もしくは宗教上の権力の存在、もしくは貨幣経済と共同体の関係などについても軽く触れられている。詳しく知りたければ他の著作を読むことをお薦めしたい。)
 
 さて次の第2章では冒頭にも書いたように、日本について述べられている。著者によれば日本はキリスト教圏とは違って、個人ではなく「世間体」というものが基本となっている世界なのだそうだ。(ドイツをはじめとするヨーロッパ社会に比べ、日本において「個人」が敬意をもって遇されることが少ないのはそのため。)日本は明治維新をきっかけに西洋の技術や習慣を取り入れはしたが、人間関係つまり社会と個人の関係は以前から何ら変わっていない。「個人」に対する意識はあくまで貧弱であり、社会は今でも「世間」を中心に動いている ――とまあ、これが著者の考え。(こうしてみると、西洋的な価値観に立って考えれば、日本はまだまだ成熟していない社会といえるのかも知れないね。)
 ではここでいう「世間」とはいったい何なのか?著者によればそれを読み解くヒントは「贈与・互酬」の関係にあるのだそう。お中元やお歳暮といった贈答において、贈り手は実は相手のことを「ひとりの人格(=個人)」とみてはいない。その人が置かれている「立場」を示す存在として品物を贈っている。日本ではまた「長幼の序」(=年上を敬う教え)というものも根付いているが、これもその人自身ではなく年齢という属性に対する対応でしかない。
 時間に対する意識も西洋とは違っている。「今後ともよろしく」という挨拶は「(同じ世間に住むもの同士なので)あなたとはいつかまた会う機会がある」というのが前提になって初めてなりたつ言葉なのだと著者はいう。「先日はどうも」というのも同様で、視線が過去に向かってはいるが結局は“同じ世間”であることを前提にした言葉。まさに「世間は狭い」のだ。さらに言えば、日本では“公共性”というのも単に「大きな家」という意味合いでしかなく、最終的には家長である天皇に行きついてしまう概念。かように「世間」というものは、生者のみならず死者まで含んだある種の人間集団として捉えられる概念なのだそうだ。うーん、なるほど。言われてみると何となく納得できる気がする。
 著者による日本社会への容赦ない分析はまだ続く。明治期になって初めて伝わった“Society/ソサエティ”という言葉に「社会」という訳語を、そして“Individual/インディヴィジュアル”に「個人」という訳語を当て嵌めるまで、日本にこれらに掃討する概念は無かったとのこと。なんと、わずか150年余り前まで日本には、今でいうところの社会も個人も存在しなかったのだ。(!)
 そのためだろうか。日本において子供は家庭の中では、幾つになっても親から常に半人前としてしか扱われない。(ただしこれには儒教の影響もあるのかも知れない。)社会に出ても同じで、ややもすれば世間が同様に“ひよっこ”として処遇しがち。成人式でも子供のように暴れる連中がいつまでも減っていかない。また家庭が「世間」を温存する牙城となってしまっていて、家事は女性がやるべき仕事と決めつけられている……。きっと社会における女性やマイノリティに対する差別が無くならないのも、これらと同じ理由によるものなのだろう。「女子ども」などという呼び方残っていることが、それを端的に示しているような気がする。
 著者は言う。日本には「個人」がないから人の尊厳や命にも無感覚になるし、政治でも「隷属することに慣れて」しまうと。(ときに「慣れている」が「馴れている」ではないかとさえ思えてくるほどだ。)以上、第2章に書かれていることはどれも重いが主張には極めて同感。第2章は本書の中では一番読み応えのある部分だった。これまで著者の晩年の本(日本を取り上げたもの)は殆ど読んだことが無かったが、これからもう少し読んでみたいと思った。

 さて、最後となる第3章は、日本哲学学会で行われた、西洋と日本の歴史に対する意識の違いについての講演の記録。
 西洋においては専門家らの研究に基づいてつくられた「歴史学」が、やがて(庶民や小説家らの創作である)「歴史的神話」に敗北していくさまが語られ、対する日本では「世間」が「歴史」に与えた影響について、先の章よりさらに噛み砕いた感じで語られている。
 日本では明治に輸入された「西洋的な公的世界」(≒理性、自己のあり方を基本とするもの)と、「伝統的な私的世界」(≒空気を読む、義理と人情を基本とするもの)の二重生活が送られていて、伝統的世界のなかでは文字や言葉は大して重みをもたない。(これは政治家の発言を見ればよく解る気がする。)
 それは何故かというと、世間における真実とは“言葉”ではなく“振る舞い”だからなのだそう。そして社会差別に対する運動は殆どが欧米の言葉や概念の輸入であるため、それに基づいた活動は日本では上滑りしてしまう。世間とは所詮虚しいものであり、その中に浸っている人々は外に目を向けることは無い。未来は自ら切り開いていくものではなく、自然と起こる結果を静かに受け入れるのが美学とされる。常に「今」しかなく、四季が毎年同じように繰り返されるだけの円環構造をなす。その結果、変化や進歩という概念は、世間を基本とする社会には存在しない。そこに住む者たちにとって世間とは外界から自らを守ってくれるゆりかごであり、歴史とは世間の外にあるものでしかないのだ。そこに決して「自分達で作る」という当事者意識はない。(この辺のくだりは、第2章とかぶって非常に耳が痛い内容だった。)
 なぜそのような価値観が生まれたのか?著者はその理由については最後に軽く触れるにとどめているが、それによれば、これらの日本的価値観は本居宣長による「記紀」の解釈に始まるらしい。本書ではさほど詳しく書かれていないのだが、自分は先日読んだばかりのカスーリス著『神道』(ちくま学芸文庫)の内容とうまく結びついて腑に落ちるものがあった。偶然とはいえ、この2冊を続けて読むことが出来て良かったと思う。(**)

  **…ただし「欧米の自然諸科学の現状を仏教の視点から見直すこと」こそが著者に
       とって重要だというくだりについては、正直よく解らなかった。もっと勉強
       しなくては。(笑)

 他にも著者が一橋大学学長や数多くの大学で教鞭をとった経験を基に、大学教育の崩壊について語った文章などもあって盛りだくさん。厚さはさほどないけれど、中身がぎっしり詰まった濃い本だった。満足、満足。
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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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