『神道』 トーマス・カスーリス ちくま学芸文庫

 著者はアメリカにおける日本思想・宗教研究の第一人者だそうで、元の本は初めて日本宗教にふれるアメリカの大学生向けの叢書として出版されたものらしい。(失礼ながら)日本人の自分でもよく解っていない神社や神道について、外国の方がどれだけ理解して書いているのかなー?と思いつつ読み始めたのだが、実のところは全くの杞憂だった。「神道」というものがどんな“宗教”であるかについて、アメリカ人にもよく解るように整理して書かれているし、逆に日本人が読むとこれまで気が付かなかったことを指摘してくれるような本になっている。
 本書は通常よく言われるような「神道は宗教ではなく、単なる民間信仰と習俗の集合体である」という紋切型の結論から脱し、神道を日本独特の「宗教」として捉え直すわけだが、そのために著者が引いて見せた“補助線”が面白かった。それはどんなものかというと、宗教を狭義の宗教(=一般的に我々がイメージする宗教)と広義の宗教(=もっと漠然とした信仰心のようなもの)に分けるというものだ。(*)

   *…前者はキリスト教やイスラム教などのように意識の上で「○○教の信者である
      こと」を殊更に強調するものであって「本質主義的宗教(スピリチュアリティ)」
      と呼ばれ、そして後者は日常の生活習慣まで含む“宗教っぽさ”みたいなもので
      「実存的宗教(スピリチュアリティ)」と呼ばれている。

 日本人は無宗教だといわれることもあるし自らそう名乗ることもあるが、それは日本人が自分のことを例えば「敬虔なキリスト教徒のように、宗教的な考えで自分を律したことが無い」と自覚しているからだろう。しかし近所を散歩している時にたまたま行った神社の境内でお賽銭をいれたり、あるいは正月になると神社へ初詣に行ったりするのは、誰もがごく一般的に行っていることだと思う。そういった行為を広い意味での宗教心の表れと解釈すれば、日本人だって一概に無宗教とも言えないわけだ。
 またそんな”ゆるめ”の活動ばかりでなく、靖国神社に参拝したり天皇誕生日に皇居に行って旗を振るような人も一方では存在する。そのような人たちはきっと日本人としてのアイデンティティを、神社や皇室をないまぜにした一種独特な宗教観に求めているような気がしている。
 実をいうとこれまで自分が神道や神社について考えるときには、ずっとこのあたりの話が心に引っかかっていた。なので本書で神道に先の定義を当てはめて、両者を「実存的神道」(初詣派)と「本質主義的神道」(靖国派)のふたつに分けることで明快に説明しているくだりを読んだ時には、胸のつかえやモヤモヤがすっと晴れたようで大変に気分が良かった。

 ついでに本書において説明される日本人の宗教観についても少しふれておこう。
 まず日本人に特徴的な生命観に関してだが、著者によればそれは「タマ」とか「ミ」もしくは「モノ」という言葉で表されるものだそう。「タマ(≒魂?)」というのは外在であり、「ミ(≒身?)」もしくは「モノ(≒“物の怪”などの物?)」と呼ばれるのは内在であるとのことだ。人は外部から到来する「タマ」に触れることで、元から自分の体中に内在していたスピリチュアルなものを活性化させる。ちょっと注意しなければいけないのは、神社の境内にある注連縄や鳥居といった仕掛け自体は決して「人に霊性を与えるもの」ではないという点だろう。それらは霊的なもの(=カミ)と交信するための単なる目印に過ぎないのだ。極論をいえばそこらの道端に落ちている石ころを目印にしたって構いはしない。
 また中国由来の「気」という概念が西洋には無い東洋独特のとても重要な概念であって、精神的でも物質的でもあるため神道でいうタマに近い。「気」といえば陰陽や太極をすぐに連想してしまうが、(西洋のように)聖と俗や善と悪といった形で明確な二項対立を設けていないことが大きな特徴であるとも言える。
 そもそも神道の信仰は、キリスト教やユダヤ教や或いはイスラム教のように、唯一無二の絶対神(ヤハウェ)に対する畏れなどではなく、あくまで自分を取り巻く自然や人智を超えたもの全てに対する”畏怖の念”とでもいうものが主体になっている。しかも”八百万の神”という言葉が示すように、カミは物質(ミ、モノ)に内在することで、結果的にこの世の全てのものに遍在していることになっている。(密教などで云う「山川草木悉皆成仏」の概念に近いのかな?)神は西洋のように外部から圧倒的なチカラでもって到来するものではないのだ。(**)

  **…本書によれば、純粋な“HEART”と“MIND”を併せ持ったものが「まごころ」と
      呼ばれるもので、それは「本当の自分自身であること」を意味する。そして本当
      の自分とは内在性を持つがゆえにカミと重なり合い相互依存する関係にある。
      言うなれば神道におけるカミとは、あらゆるものの中に存在する一種ホログラフ
      ィー的なものなのだ。

 日本に特徴的な宗教観はまだある。例えばケガレ(穢れ)。ケガレは西洋の「罪/sin」すなわち「ルール違反をしてやろうという行為者の意図を含むもの」とは異なり、本人の意図とは関係なく起こる。もっともポピュラーなのは死のケガレと血のケガレで、接触で他の対象へも移るため、祓うには水/火/塩などによる「浄め」が必要となる。大掛かりな方法としては禊(みそぎ)という儀式もある。
 「地域差」というのも重要な要因であるようだ。キリスト教では神の下の平等を謳うように同質感を重要視するが、例えば祭りにみられるように宗教性と地域社会性という相矛盾するものの共存は、世界的にみればマルティグラのようなカーニバルにも見られると著者は指摘している。ともあれ宗教に地域差があることで日本らしさを感じるという逆説的な意識が珍しい。
 あ、そうそう。そういえば本書によれば「宗教」という単語も19世紀につくられたものだそうで、茶道や華道、剣道や柔道といった実践を通じて心理に至る「道(とう)」ではなく、「教(きょう)」という文字を使ったため、実践よりは教義や信条というイメージが強い感じがする。

 ざっととばしてきたが、以上が本書における日本人の「実存的宗教」に関するエッセンスといったところ。こういった様々な感覚を持つことで、日本人は神社の境内にあるご神木を大切にしたり神社の境内にはいると敬虔な気持ちになったりすると云いたいのだろう。何となく解る。
 
 では次に神道を巡る最もおおきな問題である「本質主義的神道」について。
 結論を先に云ってしまうと、日本の神はそもそも①『古事記』『日本書紀』(=いわゆる『記紀』)にある人格神と②自然への畏怖、それに③死者の霊の三種類が存在していた。その中で人格神だけが明治期以降に政府が国家神道を推進していく過程で強調された。(そして戦後は英霊として戦没者が。)すべての問題はそこにある。また神道においては神の直系の子孫であるとされる天皇がいることで、国家が統治の手段として神道を担ぎ出す素地が固まったともいえる。
 本書の第3章からは神道的な考え方がいかに需要されていったかを年代順に紹介していて、そこを読んでいくと天皇と神道のかかわりが解りやすく示されている。ここから靖国神社の現在を考察する第5章までが本書の一番のヤマ場ではないだろうか。(特に日本人にとっては大事な部分だと思う。)
 以下、簡単に流れを紹介しよう。本質主義的な神道の流れは、古くは聖武天皇の命により編纂されたとされる『記紀』により道筋が作られ、聖徳太子によって強力に推し進められた。それによって、タマを通じてカミが全ての人々(日本人)と同一化し、さらに天皇がカミの直系の子孫とされることで、全ての人(日本人)は天皇を敬い且つ天皇は未来永劫その地位に居続けるべき―― という理論がいったんは確立することになる。
 しかしその後の歴史において密教の出現とともに、その流れは大きく後退することになった。なぜなら密教と神道の考えが似ていることで、仏教の最高神・大日如来と神道の最高神・天照大神が同一化(神仏習合)していったから。まさに「神も仏もない」というやつだ。(本来の意味とは違うが/笑)
 こうして17世紀初頭までは神仏習合のままに持ちつ持たれつの関係がずっと続いていくが、その流れに次に決定的な変化が加わったのは徳川の時代。幕府が檀家制度の徹底を図ったことで、まず仏教が世俗化していった。その後、幕府が導入を図った朱子学により仏教が一時的に攻撃を受けたため、神仏習合で仏教と一蓮托生になっていた神道も結果的に弱くなってしまった。次には林羅山による神仏ならぬ神儒習合の試みを経て「主君と家臣の精神的な一体化」といった変貌を遂げ、その後の神風特攻隊などの思想的背景に利用されるに至る。
 また『古事記伝』を記して「からごころ(漢意)」に対する「やまとごころ(大和心)」を提唱した“原理主義者”である本居宣長は、日本独自の価値観を追究する「国学運動」によって当時の神道に大きな影響を与え、その後の“恣意的な修正原理主義者”である平田篤胤や水戸学派の活動により、間接的に尊王攘夷や国粋主義へと道を拓くもととなり、結果、神道は「国家神道」へと変貌を遂げていくことになった。
 最終的にとどめを刺したのは「神社神道」という組織と、それを通じた国家による統制がスタートした時点だろおう。「神社神道は宗教ではない」という強弁で神道を通じた思想統制と国家ぐるみで推し進め、国家総動員での太平洋戦争へと突き進んでいったのだ。
 とまあ、大まかな流れはこんな感じ。なかでも第5章の靖国神社をめぐる考察は圧巻で、非常に参考にもなった。変なしがらみが無く客観的に分析ができるので、靖国を巡る問題のポイント(***)もはっきりと指摘できるのは、本書の大きな強みではないだろうか。

 ***…例えば、1869年の設立以降に国家(および国家と一体である天皇)のために
      死んだ人を祀る目的で作られた点。平田神道(=平田篤胤の解釈による神道)
      の考えを 援用して、国家のために死んだ者は死後に(祀られることで)報われ
      るという仕組み。(これはイスラム原理主義の主張に近い気がする。ただし神社
      神道の場合は、靖国神社に合祀されることでカミと同一化される)

 実存的な宗教としての神道のは人類が普遍的にもつものがあり尊重されるべきだが、本質主義的な神道は国家主義に道を拓くものである―― 著者の主張を要約するとこのような感じだろうか。
 そこで著者は、実存的神道の観点から本質主義的神道を否定しようとするならば、(思想化という)同じ土俵に乗らなくてはいけないと述べる。具体的に言うと「最低限の本質主義的規範」のみを神道の定義とすることで、本質主義的神道に対してひとつの宗教として意見を主張することが出来るというのだ。それは一体どんな規範かと云うと、「天地の創造それ自体を不可思議で畏怖を生じさせるものと考えさえすれば、その人を“神道信者”と(定義)する」というもの。(著者は本格主義を超えるものとして「新本格主義」と呼んで提唱している。)
 おそらく「うさぎ追いし…」で有名な唱歌「故郷」を聴いたときに感じる郷愁や心地よさは、著者の云う実存的な神道の体験に近いのかも知れない。そして水木しげる氏の描くところの妖怪の世界なども。

<追記>
 なんだかまとまりのない文章になってしまって申し訳ない。つかみどころのない鵺(ぬえ)のような宗教である神道を、よくぞここまで分かりやすく分析したものだと思う。今一度客観的に日本人であることを見つめるのに、とても良い本だった。こんなご時勢でもあることだし。
 そういえば話は変わるが、先日職場で地鎮祭に参加する機会があった。修祓(しゅばつ)から降神(こうしん)、献饌(けんせん)に祝詞の奏上と進んで、いよいよ「地鎮の儀(じちんのぎ)」や「玉串奉奠(たまぐしほうてん)」といった儀式に参加している間じゅう本書の内容を思い出して興味深かった。たしかにこれは西洋的なものとは違う、日本独自の宗教なのだなあという思いがしきり。心から信じているというよりは、たしかにもっと日常的な習俗であるような気がする。(個人的には仏教についても同じなんだけどね。/笑)
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