『闇の左手』 アーシュラ・K・ル・グィン ハヤカワ文庫

※作品の詳しい内容に言及しているので、未読のかたはご注意ください。

 学生時代に読んだきりだったのを、もうすぐ開かれる読書会のために数十年ぶりで読み返した。昔読んだ本を今読むとたまにがっかりする事があるので少し心配していたのだが、本書に関しては全くの杞憂だった。数か月前に同じ作者の『所有せざる人々』を読んだのだが、作品の完成度としてはおそらくそちらの方が上だろうと思う(理由は後述する)。でも、どちらの方が好きかと訊かれたら、迷わず本書の方を選びたい。(もちろんどちらも甲乙つけがたい傑作なので、あくまで好みということだが。)

 話がいきなり飛んでしまったので、まずは本書の紹介から始めよう。
本書『闇の左手』は、アメリカを代表する作家アーシュラ・K・ル・グィンが1969年に発表した長篇SFで、同年のヒューゴ賞とネビュラ賞を独占受賞した彼女の代表作のひとつである。(SF作品では他に、同じくヒューゴ・ネビュラ両賞を受賞した1974年発表の長篇『所有せざる人々』や短篇「オメラスから歩み去る人々」などが有名。もっとも今ではジブリ映画の影響で『ゲド戦記』の作者といった方が、通りがいいかもしれない。/笑)
 ル・グィンのSFには『天のろくろ』といった単独作品以外に“ハイニッシュ・ユニヴァース”と呼ばれる一連の未来史シリーズ(*)があって、本書もその中の一冊にあたる。 “ハイニッシュ・ユニヴァース”では「ハイン人」と呼ばれる超文明がはるかな古代に、宇宙のあちこちに人間型生命体を移殖したというのが共通の設定になっている。(地球もその中の惑星のひとつ。)ハイン人たちの文明はその後衰退したがのち再興し、その間に独自の変化をとげた<失われた植民地>を“再発見”していきながら、「エクーメン」と呼ばれる連合をつくっていく―― というのがざっくりした背景。
 これらの設定は物語が進むにつれ徐々に明らかにされていくのだが、最初は出てくる説明なく言葉の意味がわからず戸惑うかもしれない。(本書以前に発表された『ロカノンの世界』『辺境の惑星』『幻影の都市』を読んでいれば言葉の意味は何となく解る。)ちなみに冒頭に述べた『所有せざる人々』の方が「完成度」が高いという話は、未来史の設定を知らなくてもすんなり世界に入り込めるという意味。
 “未来史物”はいちど世界に浸ってしまうととても愉しいのだが、逆にそういった初読の際のとっつきにくさが残念な点といえるかも知れない。(ただし全てのシリーズを読まなければ世界が理解できないようなことは決して無いので、さほど構える必要もない。すべての作品が傑作とも限らないわけだし。/笑)

   *…SFには例えばロバート・A・ハインラインの“未来史“やコードウェイナー・スミス
      の”人類補完紀行“のように、架空の時間軸(=未来年表)に沿ったエピソード
      で構成される一連の物語がある。個々の作品においては、登場人物はもちろん
      のこと時代背景も舞台となる世界も異なっているのだが、(物語設定上の)過去
      にあたるエピソードや単語がさりげなく後の作品に出てくるなど、ファンの心理を
      くすぐる仕掛けがされている。007シリーズのように単に主人公が同じというシリ
      ーズ物とは違っている。

 前振りはこのくらいにして、そろそろ本題に移ろう。
 物語の舞台は惑星ゲセン。主人公が属するエクーメンと呼ばれる組織(=汎宇宙連合)の中では、<冬>と呼ばれている極寒の世界だ。住民は人間とよく似た代謝機構を持つが両性具有であり、月に一度訪れる「ケメル」という発情期を除き、通常は“性”を持たない状態であるというのが大きな特徴。ケメル期がくるとその時々で男女のどちらかに肉体が変化し、結果ほとんど全てのゲセン人が生涯に数人の子供を産むことになる。このように「生物学的な性別が固定されない世界では、どのような社会構造がとられるのか?」といったある種の思考実験が本書の読みどころの一つとなっていて、それが「フェミニズムSF」として語られる所以でもある。
 ちなみに本書の題名は288ページの「光は闇の左手(ゆんで)、暗闇は光の右手(めて)......」という歌に由来している。この歌から推測するに、ル・グィンの目的は、ゲセン人の生物的&社会的なモデルを通じて「男と女」や「光と闇」といった単純な二元論を昇華し、もうひとつ上位の概念を示すことにあったのかもしれない。(同時期に書かれた『ゲド戦記/影との戦い』のように、ユング心理学の影響がちょっと見え隠れしている感じもする。)
 ただし注意が必要なのは、本書においてフェミニズムとはあくまでも主題のひとつに過ぎないのであって、物語の本筋はむしろ別のところにあるという点。惑星ゲセンの“開国”とでも云うべきものが本書の主題のふたつめとなる。ゲセンには(現在の地球のように)おのおの異なる政治形態をもつ複数の国家が乱立している。エクーメンから派遣された、たったひとり(!)の使節であるゲンリー・アイは、如何にして惑星ゲセンをエクーメン加入に導くことが出来るのか? それが本書を貫くもうひとつの主題なのだ。そしてこのふたつが奏でる主旋律の上で、エクーメンという組織の(ある種の理想的な)政治形態や、世界で「誠実に生きること」の倫理的な意味、そして「帰属する場所の喪失と回復」といった様々な社会科学的・人文科学的なテーマが語られていくことになる。
 本書に限らず様々な(そして極端な)社会制度をもつ世界を描いて思考実験をすることは、ル・グィンの十八番(おはこ)といえる。たとえば『所有せざる人々』では双子惑星アナレスとウラスを舞台に<大国主義>と<無政府主義>の相克を描いているし、「オメラスから歩み去る人々」という短篇では、「個人の犠牲の下に成り立つ社会幸福とは何か?」という重いテーマを真正面から取り上げている。いずれも優等生的な(悪く言えば表面的な)考察ではなく、徹底的に掘り下げた彼女なりの答えを示していて、自分としては非常に好感が持てる。(もちろん作中に最終的な「正解」が示されているわけではなく、読者ひとりひとりに自らの答えを求めさせるのが作者のスタイル。従ってル・グィン作品を読んだ後は、カタルシスよりも深い余韻に浸ることが多い。)
 『所有せざる人々』では“アナーキスト達が作り上げた地上の楽園”がどういうものになるかが詳細に描かれ、とても面白かったのだが、本書において興味深かったのは、ゲセンの政治制度よりもむしろエクーメンの仕組みの方だった。最初にアイが滞在したカルハロイドという国は古いタイプの封建国家だし、次に訪れたオルゴレンは秘密主義的な共産国家なので、正直いってさほど新鮮味はない。しかし一方でおよそ80にものぼる惑星や国から構成される連合体であるエクーメンは、その全貌がみえてこないだけ余計に魅力的に感じた。
 エクーメンという連合体の成立を支える最も大きな点は、何といっても「アンシブル」と呼ばれる超高速通信の技術だろう。これはル・グィンのデビュー作『ロカノンの世界』から既に登場しているアイデアで、宇宙のどこにいても同時通信が可能になるというものだ。
 ハイニッシュ・ユニヴァースの世界にはもちろん「超高速星間航法」も存在はするが、乗組員は冷凍睡眠によって長い時間を過ごさねばならず、その間に故郷の世界では何十年もが経過してしまう。そのため数百光年もの広い範囲にまたがるエクーメンにとって、交易とは人の行き来や荷物の移送という物質的なやりとりではなく、アンシブルを使った情報のやりとりが中心となる。つまり惑星間の軍事的圧力や脅迫といった直接的な手段ではなく、あくまでも独立した世界がそれぞれ説得と理解で繋がっているのがエクーメンという組織なのだ。
 こういう話を読むとワクワクするとともに、つい現実の世界に立ち返って色んな事を考えてしまうね。自分が好きなロシア作家・ストルガツキー兄弟も作中で複数の存在の接触を描くことが多いけれど、彼らの作品ではかならず力関係のアンバランスによる分断や強要が発生する。またそれらもル・グィンほどあからさまな描き方ではなく、あくまでもアレゴリー(寓意)として示される。思想的なバックボーンを持つ作品の出来は、個人の資質とともにその作家が置かれた環境によっても大きく左右されるわけで、その意味では「アメリカを代表する作家」という表現は正しいのかもしれない。つくづくル・グィンがアメリカに生まれてくれて良かったと思う。
 例えば262ページでエストラーベンが云うセリフは感動モノだ。
 「どうして人は国家を憎んだり愛したりするのですか?」「わたしはその国の人間を知っている。その国の町や農場や丘や川や岩を知っている、(中略)そうしたものに境をつけ、名前をつけ、名前をつけないところは愛さないというのはいったいどういうことだろうか?」
 その後ふたりが互いを「アイ」「セレム・ハルス」と呼び合うシーンとともに、とても印象に残るものとなっている。

 本書で興味深かった点はまだあって、それは何かというと随所(2/4/9/12/17章)に散りばめられた文化人類学的な挿話の数々。説話・民話・神話・伝説など呼び方は何でも構わないが、民族や社会のベースとなる考え方は文化人類学においても、このような説話を通じて象徴的に示されるケースが多い。本書ではこれらのエピソードを通じて両性具有の社会の成り立ちが重層的に説明されていて、本編で描ききれない部分をうまく補完しているように思う。(ハンダラ教徒の信仰や予知のエピソードなどは最高にスリリングだ。)
 SFとしてはどちらかと云えば自然科学的なアイデアより、社会科学やファンタジー的な色合いが強いル・グィン作品ではあるが、レヴィ=ストロースが好きな自分としては寧ろこのように神話的・象徴的な話題の方が、いかにもSFらしさ満載の疑似科学ネタより愉しかったりする。(笑)
 一方で、もしもあえて本書に対して不満を挙げるとすれば、エストラーベンに関する掘り下げのところだろうか。エクーメンからの使節であるゲンリー・アイが単身で異星人の世界を訪れてから早や2年。その間、真に理解しあえ信じ合える相手を持つことが無かったアイが、やがて(かつてはカルハイドの“王の耳/首相”であり今は追放の身となった)エストラーベンとともに逆境の中で深く理解し合い、ともに惑星ゲセンの人々のために力を尽くすことになる。――本書の筋を普通に要約すればざっとこんな感じになるだろう。そして物語としては二人による大雪原の横断(まるでエクソダスを思わせる)と、それを通じて二人が互いを理解し合うくだりが一番のヤマ場になるはずだ。
 しかし実をいうと、どうしてもそこで乗り切れない点がひとつだけある。それは何かというと、ゲセン人にとって最も重要とされる「シフグレソル」という概念が良く解っていないということなのだ。自分の理解力が足りないのだろうか。何度か読み返したのだが、今ひとつ理解できなかった。(実をいうと仮説が無くはない。ル・グィンはゲセン人を、日本人をモデルにして書いたのではないかと思える節(**)もあるので、もしかしたらシフグレソルというのは日本でいう「恥」に近い概念ではないかという気もしている。しかし本当のところはどうだかわからない。)
 これこそがアイとハルス(エストラーベン)の誤解のもとになり、また和解のきっかけにもなった大切な概念のはずなので、自分のようにぼんやりとしかわからないのはツライ。他にも警備員への突進の意味といい、エストラーベンの行動にはまだまだ謎が残る。文学として本書を評価するとすれば多分このあたりが肝になるのだろうが、自分にはちょっと荷が重いかな。是非ともどなたかの解説を読んでみたいものである。

  **…カルハイド人はLの発音が出来ずゲンリー・アイのGENLYという名をGENRYと発
      音する点。報償にもとづいた、独特な緩めの王政を敷いている点。そして頑なに
      外に対して閉鎖的な態度をみせる点など、幕末の日本を思わせるところが多い
      気がする。過去にだれかが既に指摘していそうな気もするが。

 今度の読書会はどんな話になるのだろうか。参加者の皆さんにまた違った読み方を披露して頂けると、きっと愉しいだろうな。色んな読み方ができる本というのは、それだけで傑作なのだと思うよ。いやほんと。

<追記>
 最後にオマケの話。本書では中に出てくる「ヌスス」という概念も面白かった。ハンダラ教にもとづく生活信条のようなもので、意味は「われ関せず」といったところ。自分自身が傷つくのを防ぐとともに、相手に対して赦しを施す意味合いも持つ。何となくカート・ヴォネガットjrの『猫のゆりかご』に出てくるボコノン教を連想してしまった。こちらの方は少し禅みたいな雰囲気もするけど。

<追記2>
 昨日の読書会で翻訳家の中村融氏をはじめ大勢の方の意見を聞いて大変参考になった。上で書いた疑問の幾つかは解消できたと思う。以下に追加記載しておこう。
 まず本書のモデルが日本なのかどうかという点については、ル・グィン自身が書いた文章があるそうだ。それによるとどうやら清朝時代の中国をモデルにしているらしい。カルハロイドが清でオルゴレンが中国共産党の支配地域を示しているとのこと。そういわれてみればオルゴレンには収容所があったりして、それらしい雰囲気もたしかに感じられなくはない。
 さらに言えば、ゲンリー・アイが黒人でカルハロイドがアジア系の住民を意識しているような感じからみて、ベトナム戦争か朝鮮戦争を重ね合わせているかもしれないとのことだ。(以上、中村氏からの情報)
 次にエストラーベンが銃の前にわざと飛び出した理由について。こちらは色んな方の意見を総合的にまとめると、①アイとの「心話」で兄の記憶が生々しく甦り、兄を自殺させてしまった自分が許せなくて自殺した/②今でも兄を愛しており、長い期間をおいての後追い心中/③”叛逆者”の自分がいるとアイが開国のために王と交渉する際、不利となるため(名誉ある死を選んだ)という3つの理由がない交ぜになっているのではないか?という結論になった。
 そして最後に光と闇の二元論についてだが、これは中国をモデルにしていることと、彼女自身が文化人類学者の親の影響で道教の本を幼いころから読んできたことからすると、結局のところモデルは「太極」なのではないか?という結論に落ち着いた。「光は闇の左手(ゆんで)、暗闇は光の右手(めて)......」という描写からもわかるように、光と影が入り混じり切り離せない状態は「二つ巴」や韓国の「大極旗」の中央にあるマーク(=太極)で示される概念に近い。とすると、「闇の左手」というとても魅力的な題名も実は西洋的な考え方ではなく、アジア地域に古くから伝わる考えを元にして著者がオリジナルで作った可能性が高くなるだろう。(これも中村氏からの情報)
 以上、補足でした。
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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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