『溺れた巨人』 J・G・バラード 創元SF文庫

 「中学や高校の頃に好きだった小説を大人になって再読してみたら今ひとつだった」という経験は、本好きなら誰にでも経験のある事だと思う。だから昔に読んだきりのお気に入り作品だったりすると、読み返すのには結構勇気が要ったりする。その点、自分にとってバラードという作家はいつも変わらない面白さを保証してくれるので、安心して読み返すことができる作家のひとりだ。先日、古い蔵書をひっくり返していたらたまたま本書が目に留まり、懐かしい表紙を見て久しぶりにまた読みたくなった。そんな時に必ず愉しめるという気持ちで読み返せるというのは有り難いもので、十数年ぶりに濃密なバラードの作品世界を堪能することができた。というわけで今回は新刊ではなく恐縮だがお付き合いいただけると幸い。

 まずは本書の位置づけについて。『溺れた巨人』はバラードの初期作品群の掉尾を飾る傑作長篇『結晶世界』と同じく、1966年に発表された短篇集。同時期の他の作品と同じくシュルレアリスムの影響がかなり強い。よく知られているようにバラードの作家活動はおおよそ初期/中期/後期の3つに分けられるわけだが、そんな彼の作品の中でも“破滅3部作(*)”に代表される初期のものは、たとえば「砂漠」「放棄されたリゾート地」「涸れたプールや川」「宇宙飛行士や人工衛星」といった世紀末的なイメージが横溢し、変な形容だが「文字で表現されたシュルレアリスム絵画」のような独特の雰囲気がある。

   *…温暖化により海面が上昇して世界中が熱帯雨林と化す『沈んだ世界』、海面に
      特殊ポリマーが生成されて水の蒸発が無くなり砂漠化する『燃える世界』、
      宇宙的な異変により時間が結晶化していく『結晶世界』の3長篇。いずれも
      「すでに破滅しかかっている世界」を舞台にした作品になっている。

 時期により印象が異なるバラード作品だが、実は彼が生涯を通じて追い求めたテーマは一貫しており、それは「現実世界(≒社会)と個人の精神が出会う場所としての内宇宙(inner space)」だというのが自分の考え。ただし表現のスタイルは時代によって大きく異なっていて、その中でも「世界の破滅」という極限状況における精神の変容を描いた初期作品は、SF小説として一番とっつきやすいのではないかと思う。
 ちなみに中期を代表するのは“テクノロジー3部作”とよばれる『クラッシュ』『コンクリート・アイランド』『ハイ-ライズ』の3長篇であり、ここでは「世界の破滅」という(ある意味)解りやすいシチュエーションではない。そこで追究されるのは、当時新しく登場しはじめた人工的な光景が人の心に与える影響といったもの。(『クラッシュ』では自動車やオートバイによる人身事故、『コンクリート…』では高速道路で隔離された空間、『ハイ-ライズ』は超高層住宅がそれぞれモチーフになっている。)
 後期は初期/中期に比べればテーマがはっきりしない感じはするが、『コカイン・ナイト』『スーパー・カンヌ』『千年紀の民』という3部作をみると「現代における社会性とそれが作り出す狂気」とでもいうようなテーマで、首尾一貫しているように思う。(中篇の『殺す』や環境保護活動を扱った『楽園への疾走』も、同じグループに括ってよいかも知れない。)
バラードはこれらの作品群を通して、手を変え品を変えては世界と人の関係をずっと追い続けてきたのだ。残念なことにコアなSFファンにはあまり人気が無いように思える後期の作品群だが(苦笑)、自分にとってはどれもが大好きな作品といえる。

 話がそれてしまったので本書の話題に戻そう。
 初期バラードの特徴としては「短篇集が多い」というのも挙げることができる。創元SF文庫からでている5冊の短篇集(『時の声』『時間都市』『永遠へのパスポート』『終着の浜辺』『溺れた巨人』)は、1962年から1966年の間に集中して出されていて、モチーフやテーマも破滅3部作と共通したものを持っている。また、頽廃的なリゾート地であるヴァーミリオン・サンズを舞台にした有名な連作シリーズ(**)も入っていたりして、これら5冊を読めばバラードの初期作品はおおよそ一望できるといって良い。

  **…ハヤカワ文庫から『ヴァーミリオン・サンズ』という題で一冊にまとめられたもの
       が出ていたが、現在では絶版。バラードの中でも一二を争う人気作なのに勿体
       ない。

 実をいうと『時の声』あたりの最初期の短篇集は、収録作の中に(ごく普通のSFの)ワンアイデアストーリーもあったりして、いわゆる“バラードらしさ”期待して読むとけっこう当たり外れが大きかったりもする。しかし比較的後の方の作品が多い『溺れた巨人』の場合、どれを読んでも如何にも「バラードらしい」感じがして好きだ。中ではネビュラ賞を受賞した表題作はもちろんだが、ヴァーミリオン・サンズの一篇「スクリーン・ゲーム」や自転の停止した世界を描く「永遠の一日」、生体移植を巡る「ありえない人間」などが好み。解説に書かれているオールディスではないが、まともな社会生活は送れそうにない“ダメ人間”が多く出てきて非常に愉しい。(キャラクターの印象としては、つげ義春なんかの漫画に共通するところがあるかもしれない。/笑)
 ところで今回読み返してるうちに思ったのだが、初期作品において描かれている「異常な環境下の精神世界」というのは、アインシュタインの相対性理論に喩えるならば、ある特殊な条件下における解を求めた“特殊相対性理論”にあたるような気がする。アインシュタインはその後、特殊な条件を排してより現実世界に近い条件にも適用可能な“一般相対性理論”を発表したわけだが、一方で「破滅した世界という特殊解」を「ごく普通にみられる人工的な景観(テクノロジカルランドスケープ)という一般解」まで敷衍したのが、バラードにおける中期作品の位置づけと言えはしないだろうか。
 そしてまた中期の取り組みは、バラードにとってまだまだ不充分だったのかも知れない。たしかにハイウェイ事故や超高層住宅は現代ではありふれたものではあるが、人間にとってある意味「極限状態」には違いないわけだし。そこで次に取り組んだのが、ごく一般的な住宅街や環境活動といった「ありふれた世界」における意識の変容であり、それを描こうとしたのが後期作品群だったのではないだろうか。(先ほどと同様に相対性理論に喩えるなら、自然界の力をすべて統合する究極の理論を作り出そうとした“統一場理論”みたいなもの。)
 アインシュタインは結局統一場理論を完成できずにこの世を去ってしまったけれど、最後まで試行錯誤しながら内宇宙の普遍化を試みていたところなどは、バラードだって同じだったと言えるかもしれない。バラードの後期作品には拒絶反応を示す人もいると聞くし、もっと率直に「あれはSFではない」という声も聞いたことがある。しかしバラードにしてみればこれらは全て外宇宙と精神世界を繋ぐ問題として一貫しており、そして自分にとっては全てが大好きな内宇宙SFなのだ。
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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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