『場所の現象学』 エドワード・レルフ ちくま学芸文庫

 『人間主義地理学』という学問分野に属する研究書だそう。
 といわれても、まず『地理学』というもの自体になじみがないが、大まかに言うと「地表空間」について研究する学問らしい。研究対象は自然環境や地形といった自然科学系と、文化や人間の活動といった人文科学系があり、総称して『地理学』というようだが、本書は『人間主義地理学』という名前にあるように後者の分野に属していて、著者によれば「人間と地表空間の関わりを探求する学問」という定義をされている。まあ、「場所」という漠然としたキーワード(概念)で括ることができる諸々について、あれこれ研究するということか。
 本書はこの「場所」について、現象学の手法を使ったアプローチで分析した研究書である。解説に依ればイーフー・トウァンの『空間の経験』(ちくま学芸文庫)と並び称される代表的な著作とのことだが、『空間の経験』よりもこちらの方が、論旨が明快で解り易かったように思う。
 
 以下、内容に関して述べる。
 「場所」と一口に言っても色々な分け方がある。まず規模で分ける方法がある。その場合は例えばトイレなどの小さな空間から家や町といった身近な地域、そして市や県、はては国家といった広域まで多くの段階がある。また私的・公的という視点で分ける方法もある。例えば自分の部屋/個人空間から自宅/家族空間、そして図書館や学校などのパブリックスペース、さらにはショッピングモールや街道などの屋外空間などなど。
 著者によればある「場所」を他の場所と区別するための要素は、以下の3つがあるとされる。
  1) 景観を構成する物質的要素・見かけの様子
    例:山や丘や大きな木、または建物などランドマークになるもの
  2) そこで行われる/観察できる人間の活動
    例:遊園地(娯楽)、学校(勉強)、駅(移動)、その他待ち合わせや買い物など
  3) 上記の1)2)がその人にとって持つ意味/象徴
    例:その土地に感じる印象や個人的な思い入れなど精神的なもの
 具体的な例として、『異邦人』や『ペスト』などの作品で有名なカミュがアルジェリアのオランという場所を描写した文章を挙げ、その中で1)の物質的要素としては「砂の荒野と砂浜、海水浴場」が、2)の人間活動としては「夏に見られる若い女性の海水浴」が、そして3)の象徴としては「清浄と倦怠」が見られるとしている。
 ひとつの場所にはこれら3つの要素が重なり合って意味をなしており、その時々やそこを訪れる人によって様々な捉え方をされる。
 3)がちょっと解りにくいので少し自分なりの解釈で補足しておこう。
 ある人にとって意味をもつ「場所」とは、“空間的”ないし“時間的”に他の空間と区別できるものである。後者の“時間的”というのは要するに「思い出の場所」ということ。ただしその「場所」に与えられる意味は常に固定されている訳ではなく、例えば通勤と同じ車を休日にドライブに使うとき中の「車内」のように、特定の時間/状況と結びついているケースもある。

 と、これまでが「場所」の分類方法についてで、本書の前半部分にあたる。“現象学”を名乗るだけあってなるほど納得できる筋運びである。後半からはこうした区分を使って、いよいよ現代社会における「景観」の分析を試みているが、レルフはここでも「なるほど」と思わせる特徴を洗い出している。
 従来社会においては交通手段やマスコミが未発達であった為、地域ごとで社会的・文化的に閉鎖的なユニットが形作られていた。つまり「場所」はその地域ごとで独特な意味を持ち、他と区別される唯一無二の価値を持っていた。これを筆者は「場所性(place)」と名付けている。乱暴な言い方をすれば、日本語で「わが家」「わが町」「わが故郷」などの「わが○○」にあたるものといえば良いだろうか。
 一方で現代においては、他所との違いが鮮明でない「場所」も増えてきている。すなわち「没場所性(placelessness)」の出現である。タイプ別に「博物館化(“○○風”な街並み等)」「ディズニー化(庭に置かれた小人の像)」「未来化(大阪万博パビリオン等)」に分けたり、原因として「キッチュ(まがい物/借り物)」や「テクニーク(机上で考えた都市計画)」などが考察されている。要は“ステレオタイプ(典型的)”ということ、つまり地域の歴史を反映せず生活感も伴わない表面的な特徴だけを、他所から借りてきただけの景観。

 著者が本書を書いた目的は「場所」について現象学の見地から分析を施すことなので、自分の価値観を不用意に押し付けないように充分注意している。『これからの世界では益々「没場所性」が多くみられるようになるだろう、なぜなら科学の発展やメディアによる情報の均一化が図られるから。』 ―せいぜい述べられているのは、この程度の意見表明に過ぎない。しかし70年代年に出版された本書はその後、著者の意に反して(?)『現代には「没場所性」という悪が蔓延しつつあるので、良き「場所性」を復活させよう!』という主張の理論的根拠として、利用されているようである。レルフ自身は日本語版によせた文章で、没場所性は一つの価値であり何ら否定されるべきものではないと主張しているのだが...。
 思うに、これは説明に使った言葉が悪かったのだと思う。没場所性の特徴として「キッチュ(まがい物)」「偽物の場所」云々という表現が使われており、「偽物の○○」という言葉自体に既にマイナスイメージがある以上、読んだ人々が先入観を持つのはやむを得ない。そしてそのような人々の反対にも関わらず、(レルフが予測したように)世界中でその後も没場所性が浸透していったのも事実である。
 しかし本当に没場所性は悪いことだろうか?

 レルフも述べているが、『没場所性が一概に悪いわけではない』という考えには自分も基本的に賛成。“没場所性”で示される各種特徴について、実は積極的に「新しい場所性」として認識すべきではないのか?という気さえする。従来「場所の景観」を他と区別するのに使われていたカテゴリーが、現代社会において大きく組み替えられつつあるのではないか。
 例えば新宿副都心や原宿・青山といった没場所性の代表的なエリアを見た場合、確かに個々の建物や街並みはどこかで見たものばかりかも知れない。生活に密着した「本物の建物」は無いかも知れない。しかし「西新宿」「表参道」という場所が喚起するイメージは、どの場所とも違う特有の価値観として今や人々に認識されているのではないか。また高架下の全く特徴が無いコンクリート壁に描かれたスプレーによる落書きを見るといい。カラスやネズミを例に出すまでもなく、コンクリートとまがい物で囲まれた大都会に逞しく順応した人々によって、新しい「場所性」が作られつつあるのではないか?
 もっとも(仮に)「没場所性」が悪いことであったとしても、それほど心配はしていない。おそらくアジア的な乱雑さやスプレー落書きをする若者達の文化こそが特効薬となるだろうという気がするし、どのみち将来人類が宇宙に進出した暁には「新しい場所性」が必要になるわけだから。

 本書を読み終えた後、テクノポップの雄/P-MODELや平沢進のアルバムで『CHEVRON(シェブロン)』『LAB=01』『HOMO GESTALT(ホモ・ゲシュタルト)』『賢者のプロペラ』『世界タービン』といった名曲を繰り返し聴きながら、「本物」と「偽物」あるいは「リアル」と「バーチャル」の境に想いを馳せたひとときというのも、なかなかに好いものだった。

<追記>
 ここからは余談になるが、E・O・ウィルソンの『バイオフィリア』にならって、「場所性」が生まれた理由について生物的なアプローチから考察をしてみたい。
 生物は周囲の景観に「食べ物がとれる場所」や「寝るのに安全な場所」というように、個々の場所に意味を持たせて記憶している。“危険”や“安心”といった情動と場所がセットで記憶されることで“a place”が“the place”に変化し、それによって弱肉強食の世界で生命を維持することが初めて可能になる。
 やがて進化の過程で人間の脳が爆発的な発達を遂げたとき、死者の埋葬や狩りで多くの獲物を得る呪術などを通じて“文化”が生まれた。それとともに、最初は生存の為に必要な情報だけであった「場所性」に文化的な意味が加わり、人間活動や象徴によって判断される現在のような「場所性」が構築された。そう推理したのだけれど、どうだろうか? とすれば、文明の発達とともに景観や生活が変化していけば、むしろそれによって「場所性」も変化していくと考えた方が自然な気がするのだが。
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