娯楽としての読書

 世の中には仕事や勉強に役立てるために本を読む人も多いと思うが、自分の場合はたとえ小説以外の本であっても、専ら「娯楽」を目的に読んでいる。たとえ専門書であっても愉しむことが第一優先で、役立つかどうかは二の次。いちおう自分では自分の読書スタイルを“読書快楽原理主義者”と名付けている。(笑)
 難しい本であっても(いや難しい本であればなおのこと)どうせ読むなら愉しまなくては損、という気持ちがあるので、逆にいえば資格を取るために参考書の類いを読むのはとても苦手。最近では「功利主義者の読書術」なんていうのも流行っているようだけれど、自分の読書スタイルにはどうも合いそうにない気がする。
 というわけで今回は「娯楽としての読書」の定義について、つらつらと考えてみたい。紙や電子書籍といった媒体には関係なく、とにかく“本”を読むことで得られる快楽とはいったい何なのだろうか?

 仮に娯楽としての読書の本質を「(主に)文字により“知る”こと」と定義してみる。ただしここでいう“知る”という言葉の意味は「知識(kowedge)」を得るというだけではない。たとえば物語の登場人物に自分を仮託して文学的な感動を得たり、冒険のわくわくを感じてみたり、あるいはサスペンスやスリラーにおける恐怖といった「疑似体験」も含むこととしたい。他にもエッセイなどで著者の思想に触れ、「仮想コミュニケーション」を行う事もすべて広い意味で様々なことを“知る”といってしまって良いと思う。
 しかしこれら「主に文字により“知る”こと」というのは、同じく娯楽としてテレビや映画といった映像作品をみたり、音楽を聴いたりするのとは明らかに質が違うものだといえるのではないだろうか。
 一方で「創作」ということに目を向けてみるとどうだろう。つまり“受け手”ではなく“送り手”ということ。創作とは大なり小なり自分自身を外に向けて表出することに他ならないわけだが、その手段は必ずしも文字である必要はなく、絵(イラストやマンガを含む)/映像/音楽(作曲やアレンジ、演奏を含む)など多岐に亘る。文字(文章)による表出は、いうなれば創作という行為の1ジャンルに過ぎないわけだ。
 文字を使う創作の場合は、(自分で物語を創作する場合であっても、外国語から日本語に翻訳する場合であっても)自分の頭の中のイメージを一文字ずつ言葉に置き換えていく必要があり、実際の映像を見せるのに比べればかなりの制約を受ける。しかしそれがうまく受け手に伝わった時には、色や音や映像を伴った圧倒的イメージを脳内に作り出したり、もしくは映像化が不可能な論理や言語のアクロバットを見せてくれたりするわけだから面白い。

 自分は現在のところ創作はしていないので、「文字により“知る”こと」との関わりはもっぱら受け手としてだけ。というわけで読書をするという行為について考えるならば、結論としては、やはり自分は新しい事を知るのが好きなんだろうと思う。そして文字というもっとも情報量の少ない媒体を通じて、(もしかすると)最も大きなイメージ喚起がなされるという、摩訶不思議なところに魅かれているのかも知れない。
 これからの人生でいったいどれくらいの本が読めるかは分からないが、どんな本を読むにしても「愉しいから読む」という姿勢はずっと大切にしていきたいと思うなあ。
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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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