『神学・政治論(上/下)』 スピノザ 光文社古典新訳文庫

 “危険な思想家”スピノザの『エチカ』と並ぶ代表作。古典新訳文庫はこういう本を出してくれるから偉いよねえ。幻想系作家のラインナップもかなり渋いところを攻めてくるし、翻訳系文庫では今や押しも押されもせぬ立派なブランドに成長した感がある。
 さて本書の著者であるスピノザについてだが、17世紀半ばのオランダはアムステルダム出身のユダヤ人だそうだ。父親から貿易商の仕事を引き継ぎ弟と共同で営んでいたのだが、なぜか24歳の時に地元のユダヤ人共同体から破門された。記録には「劣悪なる意見および行動」が原因とあるそうだが、一体どんな言動が問題となったのかについては、残念ながら記されていないようだ。
 ただ、もしも本書に書かれているようなことを若い頃から述べていたのであれば、当時の価値観からすればひとことで言って “不遜”。破門の原因になった可能性は充分にある。なんせ本書におけるスピノザの考え方は、まるで現代人かと見紛うばかりの合理主義なのだ。聖書や教団の教義を自らの信じるところに従って一切の遠慮なく徹底分析し、納得いかないところは一刀両断のもとに切って捨てている。(もう一つの主著である『エチカ』の方は読んでいないから良くわからない。こちらもいつか読んでみたい。)
 本書は1670年(スピノザが38歳の時)に匿名で刊行されたのだが、その4年後には禁書処分にされている。やはり当時はそれほどに過激な内容だったということだろう。

 いきなり話が飛び過ぎたようだ。まずは本書の内容について紹介をしていこう。
 本書が刊行された1670年といえば例えばフランスではルイ14世の治世、欧州では王政がこの世を謳歌していた時代だ。権力争いにうつつをぬかし腐敗したカトリック教団に、ルターやカルヴァンらが宗教改革の狼煙を挙げてからおよそ100年が経過、徐々に変化の兆しはあったが近代国家の出現はまだこれからといったところ。当時は政治権力と宗教が密接に結び付いていて、自由な意見を述べることが出来ない社会が続いていた。そんな時代の中、スピノザが本書で追求しようとしたのは「不寛容な宗教勢力が(中略)政治権力の中枢部に食い入ってしまっている場合に、思想の自由をどうしたら守り抜けるかという問題」だったそうだ。
 たとえば冒頭には次のような言葉が書いてある。

 「本書は、哲学する(≒理性による思索)自由を認めても道徳心(≒信仰)や国(≒当時の社会基盤である絶対王権制度)の平和は損なわれないどころではなく、むしろこの自由を踏みにじれば国の平和や道徳心も必ず損なわれてしまう、ということを示したさまざまな論考からできている。」

 本書の構成は大きく二つに分かれる。本文は全部で約720ページ(全20章)あるが、そのうち3/4(第1章から第15章まで)が神学論、残り1/4(第16章から第20章まで)が政治論に充てられている。
 まず前半の神学論においては、「論理的かつ自由な思考」が信仰による圧力で捻じ曲げられることが無いよう、哲学と神学を互いに切り離して論じることの重要性が述べられる。そのために彼が行うのは、聖書の記述を理性の目で読み解き、不合理な部分と信仰にとって真に重要な部分を分けて見せること。そして聖書における「誤り」が理性の目によって正されようとも聖書の価値は損なわれないどころか、むしろそれによって神への信仰のうち最も優れた点が逆に際立ってくると主張するのだ。(まあ、そんな事を云ってるから禁書にされてしまうわけだが。/笑)
 もっとも実際に読んでみるとそんなに堅苦しい感じはしない。聖書に示された記述をヘブライ語の原典にまで遡って分析し、それまで伝えられてきた解釈が間違いであることを次々に指摘していく様はなかなか爽快だ。(きっと訳が上手いせいもあると思う。)
 たとえば旧約聖書の「創世記」から「申命記」までの“モーセ五書”について、それらがモーセ本人によって書かれたものではなく、後代の誰かによってまとめられたものであることを記述の不整合から明らかにしていく。「ヨシュア記」「士師記」「サムエル記」など、“モーセ五書”から先の一連の書物についても同様に分析を加え、それらが一人の作者(おそらく「エズラ記」に記されているエズラ本人?)によって書かれたのではないかという仮説を示す。
 このような作業を行うことで、スピノザは聖書の記述のうち「道徳的に手本とすべき普遍的な内容」だけを抽出し、それ以外の矛盾や不整合は奇跡でも神の意図でもなく、単に後世の人による誤りや混乱による間違いであると述べる。そしてそれらの間違った記述を一字一句後生大事に信じ込んだり、辻褄が合わない部分に無理やり理屈をつけたりといった当時の聖書解釈の愚を説く。(これは科学的・合理主義的な立場からすれば至極納得がいく見方で、今でいうテキスト分析の見本ともいえる。)
 彼が主張するのはそれだけではない。明らかな不整合がみつからない歴史上の記述であっても、そこから神の知や愛を授かることは出来ないと断言までしている。なぜなら神の知はその時代や地域に住む集団のレベルに合わせて、彼らが容易に理解できる形で示されるものだからだそう。(親が子供に対して平易な言い方で物事を伝えるようなイメージ。正確ではないこともままある。)それはモーセなど旧約聖書に書かれたヘブライ人たちに対しても同じで、彼らに述べられた啓示が必ずしも普遍的な真理であるとは限らないという、徹底した懐疑の立場を貫いている。
 彼はこの理屈を発展させて、さらにすごい事も述べている。(ユダヤ教の神殿などの)宗教施設はもちろん極論すれば聖書すらも、ただの信仰の手段に過ぎず、神に対する「真の信仰」が時代とともに失われてしまえば、単なる無用の長物もしくは神聖どころか不敬な物と化すことすらあるのだという。(ここまで聖書の記述が否定されると、こんなこと書いて大丈夫かな?と他人事ながら心配になってくる。/苦笑)
 しかし続けて彼は次のように述べる。このように哲学(≒理性)を通じて聖書における誤解や間違いを除くことは、神への信仰を冒涜するどころか、逆に真の信仰への足場固めをすることに他ならないのだと。そして聖書に対して不敬を慎む態度が過ぎると、宗教が迷信に変わり神の言葉のかわりに模造品や創造の産物を敬う羽目に陥るのだと。
 ここまで読んできて実感したのが、スピノザにおいては合理的な精神と神への絶対的な信仰が矛盾なく両立しているのだということ。自分からすれば、この論旨を突き詰めると別に神の存在を信じなくても聖書の内容は全て説明がつくような気もするのだが…。このあたりは現代における信仰の話も同じで、いい加減な仏教徒である自分には西洋社会の知識層の考えが深いところで理解できていない気がする。
 それではスピノザにとって信仰上もっとも大切なものとは、いったい何なのだろうか。本書によればそれは教会でも十字架でも聖書でもなく「神に対する思い」なのだそうだ。それが無ければ神に従う気持ち自体が失われてしまうような、あるいは神に従うつもりであれば必ず想定される類いの、そんな篤い想い。聖書に書かれているような、誰が何年生きたとか使徒がどう布教したといった知識が重要な訳ではない。最高の“神の法”とは「神を他の何よりも愛し」、そして「隣人を自分自身のように愛する」ことなのだとスピノザは言う。
 神こそはこの世において最も完全な存在。従って最も完成された人間とは、神を知的に理解することを何よりも愛し、神の知を喜ぶ人に他ならない。人間にとっての最高の善であり至福とは、制裁や罰を畏れる一心で神に従うのではなく、「神を知ること」と「神を愛すること」と「(神の被造物である)隣人を愛すること」、そして「正義(ひとそれぞれにその人の権利を認めようとするゆるぎない不断の意志)を持つこと」なのだ。以上のことから、彼の考える7つの信仰箇条というものが導き出されてくる。

 1. 神が存在すること
 2. 神はただひとつであること
 3. 神はどこにでも存在すること
 4. 神は至高の権利を持ち、無条件の裁量や特別な恩恵に基づいて万物を支配していること
 5. 神への崇拝と服従の具体的中身については、「正義」と「隣人への愛」をその旨とする
   こと
 6. 神に従う人だけが救われるということ
 7. 神に従わなかった人であっても、悔い改めさえすれば神はその罪を許してくれること

 これら聖書に書かれた記述から導きだされた7つの事柄(信仰箇条)を守りさえすれば、人は神への信仰篤く生きることが出来るのだそうだ。彼にとって大事なのはあくまでも“信仰”そのものであり、(たとえ聖書に書かれている事であろうが)個々の歴史的な出来事というのは、所詮どうでもよい瑣末なことなのだ。すなわち信仰に求められるのはいかに神に従って生きるかということであって、「真理」の探究ではない。それが「道徳心」であるとスピノザは定義している。なお道徳的に健全かどうかの判断は、「神への服従」の実施の程度よってのみ決まるとのこと。信仰の核心についての著者による考察が続く第13章から第15章にかけてが、本書中の白眉とも言えるだろう。

 では次に本書の冒頭にも出てきた「哲学」の概念について。スピノザにおける「哲学」が何かというと、それは共通理念を基礎として自然に導かれる「真理」を究明するものなのだそう。対する「信仰」というのは、先ほどから述べているように、聖書や啓示を通じて示される神の威光に対して服従し、道徳心を持つことに他ならない。つまり彼にとっては、信仰/神学と哲学/理性というのは本来全く違う次元に属するものであって、同列で考えてはいけないもの。一緒にせず切り離して考えるべきものなのだ。
 以上長々と説明してきたが、こういった思考を経てスピノザは信仰と哲学を相矛盾すること無く両立させることが出来たようだ。読み進んでいくうち17世紀とは思えないほどの論理的な考察に感心するとともに、なぜこれだけの頭脳の持ち主が無条件で神の存在を信じているのか疑問だったが、ここまで来て一応納得することが出来た。(*)ただし自分が信じるかどうかは別問題だが。

   *…ちなみに彼は「信仰が理性(論理的な判断)と無関係なのに、なぜ人は神を信
      じるに至るのか?」という疑問に対しても、ちゃんと自分なりの回答を用意して
      いる。本書によればそれは「啓示」なのだそうだ。ここでいう「啓示」とは神が人
      間に対して自らを直接指し示すことであって、スピノザが信仰に対して超自然的
      なものを取り入れるのは、本書では僅かこの一点だけだ。おそらく彼にとって
      これがぎりぎりの選択なのだろう。このようにして一旦啓示がありさえすればあと
      は理性が活躍するし、心情的にも充分に納得した上で受け入れることができると
      いうわけだ。ただしスピノザほどの知性をもってして、「神の存在をなぜ信じるの
      か?」という疑問に対しては最終的には超自然的なものを持ち出さざるを得なか
      ったのはちょっと残念な気もする。信仰を持つ者と持たない者との間には、やは
      り越えられない溝があるのかもしれない。「あらゆる体系はその内部論理では体
      系そのものの矛盾を問うことが出来ない」という、不完全性定理のことをなぜだ
      か思いだした。

 さて、ここまでは第1章から第14章までの神学論についてまとめてみた。ここからは後半第15章からの政治学についてまとめてみたい。
 ここでのテーマをひと言でいうと「哲学する(≒自分で判断する)自由は、実際の国家でどこまで認められるべきか」ということになる。(イスラム原理主義の国でもっと読まれるべきと思うが、発禁になるかなあ。/笑)
 あらゆる隣人を愛するのが聖書の示す道徳的な生き方かもしれないが、現実にはなかなか上手くいかない。そこで必要になるのが理性によって取り交わされる契約ということになる。個人や社会との間に取り交わされるそのような契約が、すなわち政治というわけだ。
 もっとも彼が述べる理想の政治形態というのは、(当時の王権制度を反映して)市民が自らの権利を社会(王や諸侯)に譲渡することが基本となっていて、基本的人権という考え方はまだ無い。また『君主論』にあるような国家同士の政治学も混じっていて、神学論のパートに比べると議論が若干不充分な感じがして歯がゆいところがある。(人間存在の本性に関する分析はホッブズやヘーゲルにも近いところがあって納得感はある。)
 具体的には前半と同様に聖書の分析を通じ、ユダヤ支族の国家存亡の様子などについて考察を加えている。その結果彼が得た結論というのは、「宗教的な指導者(=聖職者)」に政治を仕切る権限を与えるのは宗教にとっても国家にとっても大変有害ということだった。ついで彼は、「至高の権力者(=施政者)」と宗教的な指導者を厳密に分けておくことがいかに重要か、そして市民生活を統治する権利と宗教的な事項の解釈および実施は、聖職者に直接与えるのではなく至高の権力者がしっかりと押さえておく必要があるのだと述べる。
 ただし至高の権力者といえども、個々の人間が心に思う事のすべてを支配する事は出来ない。かといってそれを全て取り締まることなど不可能に近い。(**)そこで国家の安泰を考えた場合、(実際に行動に移さない限りは)考えたり口に出したりする程度は自由にさせ、個人の意見を自由に表明できるようにする施策の方が有効だとする。人々が勝手気ままにふるまう「自然状態」に対して基本的にスピノザは否定的であり、権利を社会に譲渡する方が良いと述べている。しかし、だからと言って人が生まれながらにして持つ「存在し活動する権利」は、(他に害を及ぼさない限りにおいて)極力守られるべき、というのが彼の考えのようだ。
 従って理性によって様々なことを判断する(だけの)「哲学」については、最大限の自由が保証されるべきであるというのが本書の結論となる。だからこそ聖書の記述を合理的な精神で分析し意見を表明するのは彼にとって最も重要な「権利」だったというわけだろう。

  **…歴史的には二十世紀になって思想警察という形で現実化したわけだが……。

 本書の最後に書かれている言葉がとても好かった。
 「自由な国家体制においては抑圧できないはずの判断の自由をそれにもかかわらず根絶したがる人たちこそが、実は国を乱す張本人なのである。」
 訳者解説によればこれは「不寛容な宗教勢力が(中略)政治権力の中枢部に食い入ってしまっている場合に、思想の自由をどうしたら守り抜けるかという問題」なのだそうだが、もっと普遍的なことを述べているような気もしてくる。

<追記>
 上記の話とはまったく関係ない話だが、南方熊楠の云う「大日如来の大不思議」の考えとスピノザの神についての考えは近い気がする。人格神ではなく森羅万象にくまなく広がっている創造的原理のようなものと言えばいいだろうか。またそれを突き詰めて考えると、「人間に対して徹底的に無関心な神」という概念につながるような気がする。スタニスワフ・レムが好んで取り上げたモチーフだが、西洋的な知性は最終的にそのあたりに行きつくのかも知れない、なんて考えてみたりも。
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