『ヘンリー・ライクロフトの私記』 ギッシング 光文社古典新訳文庫

 前から岩波文庫で『ヘンリ・ライクロフトの私記』という題名で出ているのは知っていて、ずっと読みたいと思っていた。きっかけが無くてなかなか手が出なかったのだが、ふとしたことで古典新訳文庫から出ているのを知り、思い切って買ってみた。(どうせ読むなら新しい訳の方が好いものね。)
 有名な作品なのでご存じの方も多いと思う。イギリスの田舎に隠遁して一人暮らしをする年配の独身男性による私記 ―― の体裁をとった、著者ギッシングの自伝的要素もある小説だ。私記の書き手であるライクロフトは現在56歳。若いころはロンドンで文筆業を生業とし、日々の食事にも事欠くギリギリの暮しをしていた。しかし僥倖にも数年前にまとまった遺産が入ったので今はあくせく働く必要はない。家事や食事の支度は近所の人に来てもらい、自分は日がな一日好きな本を読んだり家の周囲を散策したりして過ごす。人との面倒な付き合いは極力しない。こんな悠々自適な生活の様子と頭に浮かんだ事柄を思うままに書き綴った文章を、四季の移ろいに合わせてまとめたのがこの本というわけだ。変化の無い生活に退屈してしまう人もいるだろうが、自分にとってはまさに理想の生活に近い。一度でいいからしてみたいものだ。「独身男性の一人暮らし」といっても『方丈記』ほどに虚無的ではなく、どちらかというと『徒然草』みたいな印象。
 まずは無類の本好きという設定が好いね。貧乏だった若い頃に、食費を削って購入した数々の本についての思い出がふんだんに出てくる。ときおり出てくる「体の栄養よりも大事だと思う本はある」とか、「これからもなお倦(う)まず弛(たゆ)まず、喜びをもって読み続けると思う。(中略)忘れることを気に病むにはおよばない。読めば束の間の快楽に恵まれる。死ぬる定めの人間として、この上、何を求めることがあろう」などといった言葉には思わず頷いてしまう。「ふと思い出した本がどこかへ紛れこんで見つけるのが一苦労だったり、(中略)そんなこんなで二度と読まない本が増えた」というくだりには思わず苦笑してしまうし、「そうだ。死ぬ前にもう一度『ドン・キホーテ』を読もう」なんて文章を目にすると、同じ本好きとしてはもう堪らない。(笑)
 もちろん内容はそればかりではない。話題はイギリス南部の田舎の自然や、のんびりと過ごす日々の様子が多いが、他には若い頃を過ごしたロンドンのほろ苦くも懐かしい思い出や、当時のイギリス社会に対する痛烈な批評なども。それらが四季折々の描写に混じって好い味を出している。(ちなみにこの部分がギッシング本人の主張なのか、それともライクロフトの思う事なのかは微妙なところだ。原著の刊行は1903年。世界では帝国主義が覇権を競い、あと10年もしたら欧州大戦に突入しようという時代にあたる。しかしそんな頃の意見であるにも関わらず、まるで今の日本に対して言われているようで心が痛むのは何ともはや。)
 でもまあ、本書を読む醍醐味は社会批判の部分よりは、やはり気持ちのいい自然描写や心象風景にこそあるわけで、全体はそんなトーンで統一されている。特に印象にのこった部分を以下に簡単にまとめてみよう。

 春は山査子(サンザシ)や桜草(プリムローズ)に立金花(マーシュマリゴールド)といった草花が咲き乱れる牧場や森の散策。
 夏は薔薇と蜂の羽音。月明かりの下で読む本の愉しさと子供時代の思い出、そして信仰がもたらす心の静穏について。クセノフォン『アナバシス』やシェイクスピア『テンペスト』など、好きな本への賛辞も彩りを添える。
 秋は哲人皇帝アウレリウスをはじめとした哲学と内省の季節。暮れゆく空と自らの人生の先に思いを馳せて、楡(ニレ)や山毛欅(ブナ)の落葉について記す。(ちなみに本書で有名な「このところ、柳蒲公英(ヤナギタンポポ)で忙しい」というくだりは、この秋の章の冒頭にあった。)
 冬は悪天候を避け、温かく居心地のいい室内で暖炉に石炭をくべる。面白かったのはイギリス料理に関する意見。彼の肉料理に対する偏愛や、それとは対照的に野菜料理について辛辣な言葉を吐く様子には笑った。

 あとで解説を読んで驚いたのが、本書を書いたときのギッシングはわずか42歳だったということだ。「56歳で隠遁生活を送る人物」というのはあくまでも小説の設定上の話であり、著者ギッシング本人の執筆時の状況とは異なる。たとえライクロフトが作者のある面を表しているとしてもだ。むしろ自分がこうありたいという理想を書いたからこそ、万人に受け入れられる作品になったのかもしれない。
 なおギッシングの作家としての本領は本書のような作品ではなく、当時のイギリスで資本主義や階級制度によって生まれた数々の社会問題を告発する小説にあったらしい。本書の中で時折混じるライクロフトの独白もそのようにして読めば、裏に色々な意味が込められていそうな気がしてくるね。
 本書に対する印象は最終的には、小林多喜二が書いた『仰臥漫録』(正岡子規)や『墨東奇譚』(永井荷風)といったところに落ち着いた。(ちょっと違うかな?まあいいや。/笑)
 いやあ、それにしても今回は気持ちのいい読書だったなー。
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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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