『空海の夢』 松岡正剛 春秋社

 松岡正剛の古い著作を読むときにはちょっとした覚悟が必要になる。なぜなら若書きの文章がものすごく読みにくいから。本書は初版が1984年なので、彼の著作の中でも結構初期のものとなる。刊行後も2度に亘って新章追加による改訂がなされた新版が出ており、現在のものがどうやら最終版ということらしい。改訂された部分がどこか説明はないが、おそらく序章から「対応と決断」の章までが最初からの部分、その後は新版で増補された章が挟まれたのち、「華厳から密教に出る」以降が再び初期に執筆された文章(と思われる)。― そう判断した理由は、その前後で明らかに文章の読み易さが違っているから。(笑)
 著者の初期における執筆スタイルは、テーマに触発されたことを凄いスピードで書き散らし、ついていけない読者は平気でおいてけぼりにする傾向が強い。正直言って読者にとって親切な書き手ではない。読み手を選ぶというか、読む側にもそれ相応の知識があることを前提に内輪のような話をする、もしくは自分用のメモをそのまま出版してしまう感じとでも言えば良いだろうか。空海をテーマとした本書もスタンスは同じである。「月」にまつわるテーマを題材にした『ルナティックス』(初版1993年)とか、古今東西の人物142人をネタにした『遊学』(初版1986年)などでは、そのスタイルが見事にうまく嵌まっていて実に面白い。しかし、空海を取り上げた本書では少し無理があったかもしれない。

 本書は空海の生涯(=その出自ならびに中国に渡って恵果から密教を伝授されたのち帰国し、当時の日本仏教の最高権威になるまで)を縦軸に、そして古代インドから中国に至る密教の成り立ちを中心にした仏教思想史を横軸として構成が組まれている。ただし縦軸である空海の生涯については、彼の著作である『三教指帰』『即身成仏義』『秘密曼荼羅十住心論』などで記された「哲学思想」の中身が中心であり、教団指導者としての活動には殆ど触れられていない。つまり思想家としての空海のみに焦点をあて、宗教家としての空海は殆どオミットされてしまっている。
 哲学の一種として密教を語るだけならそれでも良いが、「宗教」の領域まで踏み込んで考察するのであれば、思想だけではなく「体験」への考察が不可欠ではないかと思われるがどうだろうか?せっかく“タオイズム”などの新しいキーワードで密教を捉え直そうとするのであれば、神秘体験や悟りの実践に関する考察を避けては通れないのではないかと思う。というよりそこまで踏み込まないと面白みが半減してしまうのではないか。
 その点で、実際にチベット密教に入門して体験をしてきただけ、中沢新一の文章には重みがあると思う。『虹の理論』(新潮文庫→講談社文芸文庫)に収録された「タントリストの手記」や、『野ウサギの走り』(中公文庫)、『森のバロック』(講談社学術文庫)などに挿入された断章を読む限りでは、こと密教の考察に関しては中沢新一の方にどうしても軍配を上げたくなってしまう。
 ただし宗教の実践について突き詰めていくと、少し重苦しい話になっていくので注意が必要。余談ついでにその件についても軽く触れておくことにする。

 竹田青嗣いわく“哲学”の本質は関係者相互の「納得」にある。それが真実かどうかは別として、ともかく当事者同士で「納得」が得られない主張は認められない。(自分一人の思い込みで他人の同意が得られないのであれば、それは“哲学”ではなく単なる“妄想”。)
 そして“哲学”とは別にもうひとつ“信仰”というものがある。“哲学” と“信仰”の違いがどこにあるかといえば、“信仰”の本質を掘り下げていくと最後には「無条件で信じる」ことにぶち当たるということ。理屈も納得も関係なく、とにかくあることを無条件で受け入れた瞬間に“信仰(=宗教)”というものが始まる。それを自分ひとりでこっそり実践している分には世の中も平和なのだが、たいていの場合はお節介にも(笑)自分の考えを皆に伝えたくなる。また殆どの人は自分一人で探求するだけの気力がないので、誰かが作ったお仕着せのシステムに乗っかってお手軽に心の平安を得ようとする。両者の思惑が一致したところに、宗教を実践するための団体“教団”が発生する。
 本書には「山川草木悉皆成仏/さんせんそうもくしっかいじょうぶつ(=この世のあらゆるものは既にして仏である)」という密教の重要な考え方が紹介されている。『空の思想史』の感想でも述べたのだが、この思想は“悟り”を得た後に現世に帰還した時の心境を説明したものである。仏教思想の完成形たる密教にして初めて到達し得た、究極の現世肯定の思想ではないかと思う。神の存在に頼らないで倫理問題を解決できる思想体系であり、確かに素晴らしいものだ。しかし少し不安を感じる点も無いわけではない。
 この世に存在するのが“自分一人だけ”であれば勝手に何を考えようが問題は生じないが、世の中には“常に自分を超えていこうと考える人”と“そうでない人”のどちらもが存在する。“悟り”を自己が目指すべき理想/目標として利用するだけなら良いが、そうして到達した境地を絶対的な価値と考える人が居た場合、実践を始めた瞬間から“そうでない人”に対する「疎外」や「押し付け」が生じるのではないか?ニーチェの「超人思想」がナチスによって悪用されたのと同じように、悪しき選民主義の理論的根拠として利用される恐れは無いのか?

 結社によるテロリズムの原因追究は、笠井潔が『テロルの現象学』(ちくま学芸文庫)で詳細に行っている。実生活とかけ離れた「観念(=思い込み)」が、社会による自分疎外から発生した「ルサンチマン(弱者の嫉妬)」を糧にして、やがて“党派観念”というバケモノへと成長していく様子がリアルに分析されている。ドストエフスキーの『罪と罰』で主人公である元大学生ラスコーリニコフが高利貸しの老婆を殺害する論理がまさにそれ。
 笠井がその本を執筆した際の対象は、連合赤軍に代表されるような共産ゲリラ的なテロが主流であったが、その後に起きたオウム真理教やイスラム原理主義による宗教テロも同じ文脈で充分に説明が可能と思う。(*)

  *…ちなみに新興宗教と伝統宗教の違いを企業に喩えてみると、新興宗教は創業者がまだ
    経営の第一線で辣腕をふるっている企業であり、伝統宗教は創業後に長い時間を経て
    社長も世代交代し、形成がシステマチックに受け継がれていて、且つ企業としても
    成功している、いわゆる“ビジョナリーカンパニー”(笑)という感じがしている。
    ホリエモン率いるところのライブドアに対して世間一般が示した「胡散臭い」という
    反応は、ある意味でオウム真理教などに対するものと根が同じだったのかも。

 また仏教思想の実践に関しては、次のような問題も考えられるだろう。
 例えば自分の家に強盗が押し入ってきたとする。その時、家族を守るために武器を持って相手を殺すことは許されるのか? 他者に対して否定を強制してくる脅威を排除することは、あらゆるものを仏として肯定する立場からすると許されないのではないか? 理念と実践にどう折り合いをつけていくべきなのか?

 もちろんこの件について思考した人間も大勢居る。親鸞の「悪人正機」を挙げるまでもなく大乗仏教の指導者たちは何らかの形でこの問題を考えている。自分の知る限りでは「他者論」のレヴィナスや「雨ニモマケズ」の宮澤賢治などもそう。しかし彼らまで行ってしまうとあまりにラディカルに突き抜け過ぎていて、逆に付いていけないところがあるし...。
 自分としてはこの問題に対して、今のところ良い答えは出せていない。たぶん「投企」(byハイデガー)や「命懸けの飛躍」(byマルクス)による判断を、その瞬間ごとで繰り返していくしかないのだろう。
 ただ、西洋思想よりも東洋思想の方がまだマシな点があるとすれば、キリスト教では「自分がして欲しいことを人にもせよ」という積極性に価値を認めるのに対し、仏教では「人が嫌がることはするな」という消極性にこそ価値を認めている点だろうか。

 『空海の夢』の話に戻ろう。
 先ほど松岡正剛が空海を取り上げたことに対して「少し無理があったかも」と述べた。それは本書が“実践する宗教家としての空海”には触れないという方法をとったからである。「その部分はあえて避けて通る」という趣旨のことを松岡自身が本書のどこかに書いていたと思うが、そのようなスタンスをとる限り、深く考察すればするほど限界が見えてきてしまうというジレンマが生じる。初版で書かれた部分は空海と密教思想の展開を主題にしているだけになおさらその傾向が顕著に表れている。
 それに比べ、後で増補された「カリグラファー空海」「イメージの図像学」などの章は、とても読み易いし面白い。それは思想を直裁に取り上げるのでなく、“書体”だとか“曼荼羅の図像”だとか空海に関係しつつも宗教や思想ではない部分から触発された話題を巡って、いつものセイゴウ節が満喫できるから。テーマを巡ってあちらこちらと彷徨うフラフラ感は、いかにも「松岡正剛の本を読んだ!」という感じがして好い。年取ってギスギスしたところが取れて、少し精神的にも余裕が出てきたのだろうか。

<追記>
 最近になってやっと松岡正剛の本の「一番愉しい読み方」が解ってきた気がする。
 彼の文脈は、「AはBである」という形ではなく、「『AはBである』と言われている/言っている人がいる」という形をとる。自分が賛同する論理を様々な著作から選んできて、パッチワークのように構成し直すという方法で、間接的に自分の主張を表している。ある意味まだるっこしいところもあるが、これが彼お得意の「編集」というヤツ。前にも書いたように、多くの本から選び抜いた断片を補助線として書き連ね、それらを一歩引いたところから眺めた時、ひとつのデッサンが見えてくるというのが正剛流なのだと思う。
 そういった意味では、松岡正剛は普通に言われるような意味での“著者”ではなく、まさに“編集者”と言った方が良いのかも知れない。

<追記2>
 空海という名前を聞くたび、あるイメージが頭の中に浮かんでくる。空の思想によるあらゆる物事の否定が「空(くう)」という言葉に重ねられているとすると、「空っぽの母なる海」という逆説的な名前なわけだが、実は「空っぽの海」という言葉が真空の宇宙のイメージにつながった瞬間に、ディラックが提唱した“電子の海”(エネルギーで充満した真空)という概念が突如浮かび上がってくる。
 何もないどころか、負のエネルギーと正(=生)のエネルギーによって沸騰し、対消滅が繰り返されることで表面上は“何もないかの如くに見えているだけ”というのがディラックのアイデア。このイメージが空海という名前と重なると、『森羅万象は全て仏である ―山川草木悉皆成仏』という密教のキーワードがぴたり一致する気がして、ちょっと出来過ぎのような気がしないでもない。(笑)
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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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