『黙示録』 岡田温司 岩波新書

 新約聖書を読むと、マタイ/マルコ/ルカ/ヨハネの四つの福音書につづき、使徒の言行録や「○○人への手紙」といった書簡集があり、そして最後に「ヨハネ黙示録」によって締めくくられる構成になっている。中身を読むと微妙な食い違いも含めて重複した内容が多いが、これはイエスが無くなってから数百年に亘って伝えられてきた多くの教えを、後の世になってカトリック教団が再編・認定したからなので致し方なし。ちなみに教団から正典として認められなかった教典類(外典)はやがて歴史から消えて行ったわけだが、思うに正典とそれらの違いは単に当時の教団内部の政治的な力関係の結果でしかない。“異端”を巡る話は、これはこれでとても面白いのだけれど、この話をしだすと長くなるので今回は触れないことにしよう。(笑)
 さて本書は、そういった新約聖書の正典の中でもひときわ異彩を放つ「ヨハネ黙示録」について、その歴史と後世に与えた影響についてまとめたものだ。(*)

   *…「7つの封印」や「赤/白/黒/蒼白の色をした四頭の馬」、「7人の天使が吹き
     鳴らすラッパ」に「カタストロフ」や「巨獣リヴァイアサン」、そして神の使い
     と悪魔の軍勢が戦う「ハルマゲドン」に「最後の審判」といった黙示録が元とな
     る破滅や終末のイメージは、キリスト教徒でなくても必ずどこかで目や耳にして
     いるはず。

 本書によれば、ヨハネの黙示録がもつおどろおどろしいイメージには、やはり元となった多くの先行文献があるらしい。たとえば旧約聖書では「ダニエル書」にみられる“四頭の大きな獣”や同じく「エゼキエル書」にみられる復活思想、そしてそれらのイメージの集大成たる「イザヤ書」などがそう。(まったく読んだことないので全て受け売り。/笑)
 著者はこれら旧約聖書の正典だけではなく、さらに外典である「第四エズラ書」「第一エノク書」「シビュラの託宣」といった古い書物まで遡って内容を比較し、それらがいかに黙示録における終末ビジョンのイメージ形成に大きな影響を与えたかについて探っていく。どうやらこれらのイメージはもともと一部の入信者のみに許された秘密の知であり、それを知ることはある種のイニシエーション的な意味合いを持っていたようだ。
 また黙示録では良く知られているように神/正義による悪の断罪が描かれるわけだが、ここに悪の象徴として出てくる「バビロンの大淫婦」は具体的な人間を示したものではなく、一般には頽廃の象徴たるローマ(帝国)を揶揄したものとされているらしい。しかし著者はここに単なる頽廃と爛熟のイメージではなく、イシュタルやイシス、ディアナといった地母神のイメージを見る。対する神の側には「太陽を身にまとう女」という聖女が出てくるが、こちらもイシスとのつながりが指摘されている。つまりはいずれもグレートマザー(太母)の二面性を付与された存在であって、同じカードの裏表をなしているというわけ。うーん、こういう話は面白い。

 次には黙示録のビジョンが歴史の中で、どのように理解されてきたかについての説明がされる。著者によれば黙示録の読み方は「歴史主義的」(=ユダヤや初期キリスト教徒の迫害に対応させる)、「終末論的」(=黙示録のビジョンをそっくりそのまま現在の状況に照らし合わせる)、「寓意的」(=善悪の戦いなど普遍的テーマに読み替える)の3つに分類できるそうだ。暗示や幻想的なイメージを多用するというもともとのテキストの性質からしても、様々な解釈がされても仕方がないといえる。
 例えばキリスト教にとって審判の日の到来は重大な関心事だったわけだが、それがいつ来るのかは誰にもわからない。しかし黙示録によればその予兆として「アンチキリスト(反キリスト)」なる者が出現するとされている。とすれば、アンチキリストが特定さえできれば、最後の審判が訪れる時もわかるというわけだ。その結果、過去から様々な人物がアンチキリストと見做されてきた。(ヒトラーなどもそのひとりといえるだろう。)
 黙示録の最後で神の栄光とともに現れる「新しいエルサレム」についてもしかり。文字通り“闘って勝ち取る現実の場所”として読む見方もあれば、現実ではなくまったくの“精神的な王国の象徴”として読む見方もある。(ちなみに後者の場合は、教会/カトリック教団は「キリストの王国」を既に体現した存在である――という考えが前提となるらしい。そして彼らは異端や異教から正しいキリスト教信仰を守るために戦うのだ。十字軍の発想はこのあたりから出ているのかね。)
 このように多様な読みが出来るということは、同じ文章が対抗する勢力によって全く正反対に解釈され得るということでもある。たとえば宗教改革の際には、プロテスタントとカトリックは聖母マリア図像のモチーフの中に、それぞれ自分たちに都合のよい黙示録的な解釈を組み込んだ。たとえば「無原罪の御宿り」(マリアがイエスを身ごもった時のエピソードを描いたもの)の図像において、プロテスタントはマリアに踏みつけにされる蛇(竜)をカトリックに喩えており、またカトリックはカトリックで、マリアの横に今にも竜の口に投げ込まれようとする裸の野蛮な男を描き、これをプロテスタントになぞらえることで互いに非難し合ったのだそうだ。今でいうところのプロパガンダやイメージ戦略のようなものといって良いかもしれない。(両者による非難の応酬は、どちらがキリストでありアンチキリストであるかを巡ってますます過熱していった様子で、本書で紹介される図像をみているだけで大変におもしろい。)
 最後の章になると内容ががらりと変わり、現代にも残る黙示録の影響を紹介。様々なハリウッド映画の中に描かれるカタストロフのイメージとして取り出して見せる。例として挙げられる映画は「原子怪獣現わる」「放射能X」「水爆と深海の怪物」などなど。邦題を見ていても分からないが、これらの原題はそれぞれ「二万ファゾムから来た獣」「奴らだ!」「それは海底からやって来た」といい、いずれも欧米人には黙示録を強くイメージさせるものなのだそう。ある宣伝用ポスターに書かれた「本当に起こりうる恐るべき物語!」という惹句も、元は黙示録にある「今後起ころうとしていることを書き留め(た)」という言葉を踏まえたものらしい。
 日本人はあまり意識していないが、ゴジラが海から上がってきて街を焼き尽くすシーンも、黙示録に出てくる巨獣リヴァイアサンを強く意識させるものらしい。ほかにもキューブリック監督の「博士の異常な愛情」やタルコフスキー監督の「サクリファイス」、コッポラ監督の「地獄の黙示録」など数多くの映画が紹介され、芸術や文藝の世界では黙示録的なイメージが今でも色濃く残っていることが示される。

 かくして長年に亘ってキリスト教の歴史とともに、世界中に強い影響力を及ぼしてきたヨハネ黙示録なわけだが、著者も言うように20世紀を迎えて2つの世界大戦とアウシュビッツおよびヒロシマ・ナガサキを経験してしまった我々にとって、「カタストロフとそのあとに訪れる新エルサレムの到来」といういかにも単純なビジョンはもはや信じがたいものとなってしまった。そして21世紀を迎えた今、世界各地で続く民族紛争やテロの不安、ナショナリズムやポピュリズムの台頭と環境問題など数多くの課題が山積している。これからの未来がバラ色と考える人はいないだろうが、かといって問題から目を逸らしているだけでは何の解決にもならない。
 このような時こそ黙示録的なイメージは人々の心にじわじわと侵食していき、知らぬ間に人々の心に不安を煽り立てるからこそ、それを直視してその先を見つめる努力が必要なのだ――そう語る著者の意見には全くの同感。黙示録的イメージは誰もが多少知っているが故に却って詳しく知らなかったりする。こういう基本的な知識は、まずきちんと知ることから始めたいね。

<追記>
 ところで著者の岡田氏は(いくら研究のためとはいえ)SF映画に詳しすぎる。映画を紹介するくだりではそれまでの調子とはうって変わって如何にも愉しそうだった。なんだかんだ言って“この手の映画”が大好きな人なのではないだろうかね。(笑)
 黙示録は怖いけど何だか魅かれてしまう不思議な力を持っている気がする。本書を読んでそれを再認識した次第。
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