『生命(ゼーレ)の哲学』 岩渕輝 春秋社

 19世紀のヨーロッパ知性を代表する人物、グスタフ・フェヒナーの生涯とその思想について、その詳細をまとめた本邦初の評伝。著者の岩渕氏はフェヒナーを研究するためにドイツ語を新しく学んだほど(!)の入れ込みようで、その熱意にはまことに頭が下がる。当時の学問の発展に大きな影響を与えたにも関わらず、今では殆ど忘れさられてしまった“知の巨人”の全貌を余すところなく伝えてくれる労作となっている。
 本書によれば、フェヒナーは物理学から心理学、はては哲学まで幅広く活躍した人物。例えばその著作『原子論』では、のちに一般的となる原子モデル(太陽系のように大きな粒子の周りを小さな粒子が周っているモデル)を初めて披露するなど、学術的にも数々の優れた業績を遺した、かなり有名な科学者だったのだ。一方ではマーラーやフロイトにも強く敬愛され、音楽家のシューマンとは親戚関係にあって、さらには電磁気学で有名なヴィルヘルム・ヴェーバーとも深い友情で結ばれていたとも。本書にはそんな彼の生涯(*)に亘る様々なエピソードと学問的な業績、人間関係やその思想の本質について詳しくまとめられている。

   *…1801年にドイツ・ポーランド国境近くの小村グロースゼルヒェンに生まれ、
     ロマン主義全盛の時代を背景に成長。当初は医学を志すも当時の医学に疑問を
     抱き、やがて自然哲学を経て物理学へと専攻が移る。若くしてライプツィヒ大学
     の物理学教授となるが、自然哲学や「死後の生」についての興味は持続。やがて
     生死をさまよう病気(おそらく抑鬱症的な精神神経症と光に対する極度の神経
     過敏)に罹り、3年後に奇跡的に回復した後は独特の生命観に基づく著作を発表。
     その後は1887年に86歳でその生涯を閉じるまで、晩年まで物質主義全盛の時代
     に抗すべくその思想を深め、著作を世に問い続けた。

 しかし先ほどは色々書いたが、実をいうとそれ程すごい人がいたとは本書を読むまで一切知らなかった。それもそのはずフェヒナーは、彼の思想の中核をなす「ゼーレの哲学」ともども、今となってはすっかり忘れ去られてしまっている人物なのだそうだ。(著者の岩渕氏はそのことを嘆いておられる。)
 自分が思うにフェヒナーは、例えば16世紀のゲスナーや17世紀のキルヒャーのように“世界が総合的に理解できた時代”のいちばん最後に位置する人物のような気がする。その後の時代になると自然科学の分野があまりに細分化・高度化してしまったため、ひとりの人間が世界をまるごと語ることは質・量ともに不可能になった。そんな意味で、フェヒナーは哲学と科学を同一の地平で語ることが出来た最後の人物であったような気がする。そしてその幸福な時代は、19世紀後半のヨーロッパを席巻したスピリチュアルブームの終焉とともに終わりを告げたのだ。

 では早速フェヒナーが生涯をかけて追い求めた「ゼーレの哲学」について、本書の内容を自分なりにまとめてみよう。
グスタフ・フェヒナーの思想は、題名にもある「ゼーレ(Seele)」という言葉がベースになっている。これは「プシュケー」に起源をもち、“生命”と“心”の両方の意味をもつ言葉なのだそうだ。日本語にはぴったりした言葉が無くて本書では「心」「魂」「生命」「精」「内界」「内面」といった言葉に適宜訳されている。また「生の息吹」や「生の胎動」という意味合いも含まれるとのこと。哲学者の竹田青嗣氏が述べているような(古代ギリシアの本来の意味での)「エロス/生の躍動」に相当する概念と言えるのかもしれない。

 彼はその著書『ナンナ、あるいは植物のゼーレンレーベン(Seelenleben/精神生活)』において、様々な生命体がすむこの世界はゼーレに満ち溢れていると説く。動物ばかりでなく植物を含んだあらゆる生命体にゼーレが存在するという彼の主張は、仏教の考え方(例:「山川草木悉皆成仏」)が浸透している我々などからすると別に驚くにあたらないが、キリスト教徒であったフェヒナーにとっては、世界観を揺るがすほどの大きな分かれ目になる考え方であるようだ。
 そのことが書かれた本書の第7章は、フェヒナー思想の核心にあたる大事な部分になるので、少し長くなるが引用してみよう。
 「全自然界が神によって内界化(ベゼールング)されて(中略)、この世には内界化から零れ落ちるものは何もない。石も波も植物も内界化されている。」「個々の心(ゼーレ)は能動性や感覚や思考や意志を持ち、それらを結びつける統一体を形づくっている。そして、それら下位の統一体同士は、最高位の神の統一体を介して結びついている。」(注:ベゼールング=“ゼーレを吹き込む”という意味の動詞が名詞化したもの)

 なお彼は別のところでは、石や水や波といった「死物」は(動物や植物とは違って)知ることや感じることの出来る内的な統一体を持たないとも言っており、考えに若干まだ整理しきれていない点があるようだ。ただし植物のゼーレについては繰り返しその存在を主張しており、植物には動物のような高次の意識はなくとも“生動”(≒生命の躍動)や感覚というものがあるとしている。
 彼にとって植物のゼーレを信じないということは、「動物や人間は自然界で圧倒的な数の死物(非生物や植物)にかこまれた孤独な存在である」という世界観(闇の世界観)を認めることにつながり、決して与しがたいものであったようだ。彼が信じたのは、生きとし生けるものがゼーレを持って繋がりあうという「光の世界観」もっとも植物にゼーレがあるかどうかだって実験で確かめることは出来ないわけで、それを信じるか否かは結局のところ、その人次第という事になるわけだが......。

 次は彼の思想におけるもうひとつのポイント「客観的な非決定性」について。これは何かというと、当時ヨーロッパ社会を席巻しつつあった決定論的な考え方(自然界には必然的な因果律がある)に対抗する、「世界の客観的性格が世界の進行を原理的に予測できぬものにする」という考え方。彼が宇宙に持っていたイメージは「宇宙は発展の過程で自らを縛る新たな法則を生み出しつつ進行する」というイメージなのだそうだ。
 人間の生命活動の奥底には生の息吹が湧きあがる場(ゼーレ)があり、それはけっして無味乾燥な唯物論的な法則では縛られない。―― 彼のそんなロマンチックな考え方は、ロマン主義全盛の時代に育ちシェリング=オーケンらによる自然哲学(**)の影響を受けたことで育まれたものなのかもしれない。また生涯敬虔なプロテスタントであったフェヒナーは、彼の信仰と矛盾しない理想的な新しい思想を考えることで、極端な方向に走り過ぎている(と彼には思われた)自然科学を、より良い方向へ導けると考えたのだ。
 こういった考え方が科学者として正しいかどうかは別にして、人物的にはとても心惹かれるものがある。温和な性格で、亡くなった時は町中の人々が悲しんだということだから、人間的にも大変に魅力ある人物だったのだろう。(個人的にはこういう人と友人になりたいものだと思う。逆にいくら立派な業績を上げている人であっても、人間としてどうか...という人とはあまりお近づきになりたくない。/笑)

  **…自然哲学の概念を提唱したシェリングはヘーゲルや詩人のヘルダーリンと同時代
     の哲学者。彼が唱えた「世界霊」というのは、古代ギリシアの哲学者が用いた
     生命原理的なものを表す概念だそうで、フェヒナーに大きな影響を及ぼした。
     手塚治虫の『火の鳥』にでてくる「コスモゾーン(宇宙生命体)」みたいなもの
     だろうか。オーケンはシェリングの弟子だそうだ。(当然ながら筋肉少女帯のボ
     ーカル・大槻ケンジのことではない。/笑)

 なお彼のこの考え方はずっと変わることがなく、その後の業績も彼自身が当初考えた思惑とは違うかたちで評価されてしまったのは少し気の毒な気がする。
 例えば彼は客観的なデータの欠如により科学と認められていなかった心理学の分野において、精緻な自然科学的手法(実験による数値化)を用いて人体に与えられる刺激量と被験者が感じる感覚量を数式化した。(これは今日「フェヒナーの法則」として知られ、彼が創始した精神物理学は現在の実験心理学の元となった。)
 元々のフェヒナーの意図は“心”の状態を数値化・客観化することで、思弁的思索や内観的記述に頼っていたために、それまで科学として認めてもらえなかった心理学を科学として認めさせようというところにあったらしい。ところが意に反して心理学はそれを端緒に“無味乾燥で唯物論的な”科学の仲間入りをしてしまい、「ゼーレの哲学」からは遠いところに行ってしまった。
 著者はフェヒナーを「インドに行こうとして、誤ってアメリカ大陸を発見してしまったコロンブス」に喩えているが、ゼーレの考え方に固執していた彼が図らずも科学の発達を通じて、物理学的世界観の浸透に寄与してしまったのは皮肉なものだ。(しかしフェヒナーはめげることなく一生ずっと無味乾燥な自然科学の世界に挑戦し続けた。70代は新たに「実験美学」という学問を創始したが、これは実験科学の手法を用いて美学上の問題を科学的に追求しようとしたものだそうだ。まさに「真・善・美」が混然となった概念こそが、彼の哲学の理想だったのではないかという気がしてくる。)
 参考までに彼の著作を列記してみよう。(先に挙げたものは除く。)
『ゼンド・アヴェスタ、あるいは天界と彼岸の事柄について。自然考察の見地から』(ゾロアスター教の聖典を書名に借りた、神秘主義的世自然哲学の色合いが濃い著作)/『シュライデン教授と月』(フェヒナーの著作を批判した植物学者シュライデンへの反論や月の気象学的影響についての統計学論考)/『精神物理学原論』/『内界(ゼーレ)の問題を巡って』/『美学入門』(実験美学の本)/『生物の創造と進化の歴史に関する若干の考察』(ダーウィン進化論に対する反駁。昆虫と植物の共進化は偶然ではなく、相互にある種の関係性をもって進化した結果だと主張)/『闇の世界観に対抗せる光の世界観』(世界を闇と捉える世界観と、光や音や生命に満ちた世界観の対比をした本)。
さらにはフェヒナー名義ではなく、ミーゼス博士というペンネームでユニークなエッセイやフィクションも出している。『死後の生についての小冊子』/『天使の比較解剖学』/『小品集』/『四つのパラドックス』といった作品だが、これなどは内容説明を読むと、まるでスタニスワフ・レムが書いたユーモア小説『泰平ヨン』シリーズを地で行っているような感じさえする。

 そんなわけでとても優れた業績と現在にも至る影響を与えたフェヒナーではあるが、それほどの人物である彼が今日忘れられてしまっている直接の原因は、本書によれば19世紀に知識人たちを巻き込んだスピリチュアル・ブーム(霊媒による彼岸との交信や妖精写真など)にあるようだ。奇術師によるペテンにはコナン・ドイルなど当時の錚々たる顔ぶれがころりと騙されたわけだが、その渦中にはフェフナー自身もいた。友人の誘いで「四次元の世界から降臨する霊との交信をする」と称したスレードというイカサマ霊媒師の交霊会に何度か連れ出され、それがためにスピリチュアリズムの擁護者と非難される羽目になったらしい。(もっとも、これはある意味仕方ないところはあるかもしれない。霊を四次元の存在であるとする主張や交霊会で本当に霊と交信しているかどうかには懐疑的だったようだが、かといってすべてがインチキとも言い切れないと考えていたようだ。)その前から『死後の生についての小冊子』(ミーゼス博士名義で発表しのちに本名に変更)を書いたり、最晩年に出した自らの思想の集大成ともいえる『闇の世界観に対抗せる光の世界観』の中では、先ほどの交霊術と合致するような世界観を示しているほどだから。(***)

 ***…『死後の生…』では、生まれる前に母親の胎内で過ごす「第一段階」と存命中の
     「第二段階」に続く、「第三段階」たる死後の世界が描かれる。そこでは人々が
     残した個々の精神活動の「波紋」が重なり合って相互関係を持ちつつ一体化し、
     永遠の覚醒/高次の生を形成すると述べられている。

 以上、ざっくりとフェヒナーの「ゼーレの哲学」についてまとめてみた。フェフナーは敬虔なキリスト教徒ではあったが、キリスト教の教義解釈そのものが原因となって「神への信仰」いう精神活動と「質的・機械的な世界観」の分離という“不幸”が起こったと考えていたようだ。そしてキリスト教が排除してきた古の異教的な考えである)自然と人間の精神活動の幸福な一体化を望んでいたらしき雰囲気もある。フェフナーの主張は自分のみたところ最終的には好き嫌いでしか判定できない世界に落ち込む神秘主義と思われるので、字義通り受け入れるのは無理だが、比喩として捉えるならばとても感銘を受けるものであるといえる。少なくとも彼が言いたかった気持ちは非常によく分かる。崇高な精神の活動こそが人間の本質であると信じる見方は(人によってはロマンチストの甘い考えとして批判されるだろうが)嫌いではない。気を付けないと水に「ありがとう」という類の話と同じになってしまうが、一歩ひいて現代から過去の偉大な思想家として見た時に、色々と得られるものは有るに違いないだろう。
 ひと言でいえば、「光の世界観による生の躍動(ゼーレ)の復権」という果たせぬ夢を追いもとめ、古き良き時代の理想的な学者人生を全うした人物。日本でいえば南方熊楠のような感じといえるだろうか。今では望むべくもないが、昔はこのようにあらゆる分野を横断的に渉猟する“総合知”を求めるゼネラリストが確かにいたのだよなあ。
 余談だが、工学系の大学を卒業して新入社員として会社に入った時、特定の技術のスペシャリストとして一生を終えるのでなく、ゼネラリストでありたいと思った事を思い出した。悪く言えば気が多いという事にもなるだろうが、色々な世界を見ることで初めて理解できることというのは有ると思う。そんな意味でもフェヒナーのような人物はかなり魅力的である。
 心温まる一冊だった。結構な値段がしたのだが元は取れたと思う。大変な労作に感謝。

<追記>
 余談ついでに、本書を読んでから以前より気になっていた今西錦司著『進化とはなにか』(講談社学術文庫)を呼んだのでその感想も少し加えておきたい。今西錦司氏は文化人類学者で日本における霊長類研究の礎を築いた人物だが、一方では生命の進化にも興味をもっており、「棲み分け理論」を提唱してダーウィンの進化論を否定する論文を数多く書いた。(いまなら「トンデモ本」に入れられてしまうような内容ではあるが)
 で、読んだ結論から言うと、フェヒナーが「ゼーレの哲学」を追い求めた感覚と今西氏が進化論に求めたものは案外近いものだったのではないかという感触を持った。
 『進化とはなにか』の中で今西氏は哲学者・西田幾多郎の「生物に、眼ができたから物を見るようになったのでなく、物を見るために眼というものもできたのである」という言葉を引用している。ここからもわかるように、著者は(本人は否定しているが)基本的に今西理論はラマルクの進化論(≒キリンは高い樹の上の葉を食べるために首が長くなったというアレ)の延長上にある。実際には生物が周辺環境を知るための手段にはいろいろあり、可視光を含む電磁波を認識するというのもその手段に過ぎないというのがユクスキュル(『生物から見た世界』)やJ・J・ギブスンに始まるアフォーダンスの考え方だが、まだ本作が書かれた時代にはその発想は無かったのだろう。
 今西氏の主張を端的にまとめると、「進化は個体を単位としたランダムな非適応的(≒自然淘汰)な突然変異ではなく、“種”を単位とした、方向性のある適応的(≒棲み分けによる共存)な変異に依らなくてはならない」というものになるが、そこで進化の内的動因となるのは、ヘーゲルの「世界精神」の概念に近い、架空の進化圧とでもいうべきものだ。(具体的には言及されていない。)
 こうして考えていくと、ヘーゲルやラマルク、今西錦司(1902年生まれ)、そして西田幾多郎といった19世紀から20世紀初頭の知性は、個体ではなく種や世界(社会)に埋め込まれた生命力/宇宙生命といったもので一直線に結ばれるような気がする。『生命(ゼーレ)の哲学』によれば、西田幾多郎の『善の研究』の序文にも『闇の世界観に対抗せる光の世界観』の冒頭が記されているとのことだし、思いつきとしては案外外れていないんじゃないかと思うんだが。どうだろうか。
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