『痴愚神礼讃』 エラスムス 中公文庫

 16世紀のヨーロッパを代表する知識人(聖職者)による当時の社会批判の書。これが機縁となってルターによる宗教改革の口火が切られたとの話を聞き、かねてから一度読んでみたいと思っていた。でもこの手の本は、何かきっかけがないとなかなか手を伸ばしにくいものなんだよね。今回は中公文庫から新訳が出てくれたので丁度良い機会となった。
 今回の中公文庫版のもっとも大きな特長というと、ラテン語からの原典訳だという点だろう。訳者の沓掛良彦氏による訳も読みやすくていい。翻訳ものは定期的にその時代の言葉でリニューアルした方が良いという話をたまに聞くが、本書や古典新訳文庫の収録作などを読むと、確かにそんな気がしてくる。それではさっそく中身についてご紹介を。
 本書を読むまで実はまったく知らなかったのだが、本書にでてくる「痴愚神」とはキリスト教のヤハウェ神とは何も関係がなく、ギリシア・ローマ神話に題材を取った異教の神だ。しかも女神。人間の愚かさを司る“痴愚の女神”が民衆に自画自賛の演説を行う姿を通じ、笑いの中に当時の権力者や聖職者への批判をにじませるというのが本書の基本スタイル。語り口が意外と滑稽だったのに驚いた。
 女神は道化師の被る二つに割れた帽子を頭につけ、自らの出自や自分がいかに人間たちの為に心を砕いているかについて滔々と述べる。それによれば彼女はプルトス(冥府の神プルート)を父に、ニンフのネテオス(ギリシア語で若さ・青春の意味)を母にして産まれた神だとのこと。痴愚の女神をたすける“お付の者”もたくさんいる。まず侍女神としては「ピラウティア(うぬぼれ)」に「コラキア(追従)」、「レテ(忘却)」に「ミソポニア(怠惰)」に「ヘドネ(快楽)」、さらには「アノイア(無思慮)」と「トリュペ(逸楽)」。侍従として男神も二人いる。その名を「コモス(お祭り騒ぎ)」「ネグレトス・ヒュプノス(熟睡)」というそうだ。
 これらの神々の名を借りながら、人間がもつ特性(悪癖)を順に具体例をもって説明していくというのが、本書のおおまかな流れ。(*)200ページを超える本文が、途中の切れ目も無くずっと同じ調子で続くので結構しんどかったりもするが、書いてある内容自体はそう難しくない。

   *…例を挙げれば、どんなに偉い王でも学者でも、子作りの気持ちに駆られると分別
     をかなぐり捨ててコトにはげむ。それは「アノイア(無思慮)」という女神の
     恩寵によるものだ ――といった調子。

 中には若干論旨が追いにくいところが無いでもないが、それは訳のせいではなくて原文自体が整理されていないからだと思う。例えばくだらぬ見栄やプライドを捨てて自分に素直に生き、人生を謳歌する人々を“痴愚”と呼び心から賞賛する一方で、生まれや教養や技芸を自慢する輩も同様に“痴愚”と呼び揶揄している点。
 当然のことながらエラスムスの執筆意図は、後者の人々を逆説的に批判する点にあるはず。しかし批判と讃美が入り混じって綴られる文章は、ときに意図が読み取りにくいものになってしまっている。(とは言いつつ、もしかしたら自分が当時の価値観を今の視点で読むから混乱するのであって、当時の基準からすれば首尾一貫しているのかもしれないが......)
 まあ、冒頭に掲げられた友人トマス・モアに宛てた文章に依ると、思いつくものを片っ端からからかいの対象にしたようなので、整理されていないのも致し方ないのかもしれない。書いてある批判の多くは現代でも充分に通用するものであって、読んでいていちいち納得。考えてみれば人間の本質なんてそうそう変わるものではないものねえ。(苦笑)

 全体を通した印象としては、本書が行おうとしているのは“愚かなものこそが賢く幸せである”という逆説を説いて、すべての価値観をひっくり返そうということではないかと思う。『マクベス』に登場する魔女が言うセリフ、「きれいはきたない きたないはきれい」のようなものといえば分かりやすいかもしれない。
 愚者を“知恵や理性の欠如したもの”とするのでなく、“痴愚の力に満たされたもの”として捉えていると言っても良い。赤瀬川原平氏によって一躍有名になった「老人力」みたいなもので、“負のエネルギー”に満ちているイメージ。
 著者自身はきっと社会批判を目的として筆をとったのだろう。しかし自分には本来の執筆目的よりも、むしろこのようなイメージこそが強く心に残った。理性や知恵を持っていても幸せにはなれないというのは、思えば哀しいことだ。痴愚の女神に最も愛されて幸せな生涯を送ることが出来るのは、もしかしたらドン・キホーテのような人なのかも知れない。本書を読み終えてそんな事を思ったりもした。
 気分は「おもろうて やがてかなしき “痴愚神礼讃”」といったところかな(笑)。
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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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