『あわいの力』 安田登 ミシマ社

 能楽師であり古代漢字の研究者でもある著者が、「身体感覚」を通じて心にまつわる諸々について綴ったエッセイ(というかなんというか、分類不能な一冊)。この著者は以前『身体感覚で「論語」を読み直す』(春秋社)という本を読んでべらぼうに面白かった。白川静氏にも共通する漢字への豊富な知識や、「能を舞う」という特別な体験を基にした知見は、他の著者では得られない一種独特の視点を与えてくれる。
 本書の題名にある「あわい」とは、媒介という意味をあらわす古語だそうで「あわい・あわひ(間)」と書く。ここでは“こちら”と“あちら”をつなぐキーワードとして使っていて、たとえば夢幻能でいえば著者がつとめるワキこそが(多くは亡霊や精霊である)シテと現実の世界をつなぐあわい/かけはしとなる役割を果たすという。
 先の『身体感覚…』にもでてきた著者の仮説(本人は“妄想”とも言っている/笑)があって、それは人間に「心(≒自己意識)」が生まれたのは僅か3000年ほど前ではないかというもの。殷の時代の中国で文字(甲骨文字)が発明されてからだというのだ。
 文字により記録が出来るようになると、まず過去や未来という時間の観念が生まれた。そして過去の記憶による“後悔”や未来に対する“不安”が生まれるとともに、それを感じる「自分」というものができたのではないかという。人類は二足歩行を覚えることによって繁栄することができたが、それと同時に直立姿勢からくる新たな病気も抱えることになった。「心」もそれと同じで、自意識をもつことで得られた利点も勿論あるが、一方でそれまで経験した事のない悩みや苦しみが生まれたのだという。そして500年ほどして釈迦や孔子が、1000年ほどしてイエスが登場し、心から生まれるそれらの様々な苦しみに対する処方箋を考え出した。しかし現在ではその効能も薄れ、また限界に達してしまっている…というのが大まかな流れ。
 著者自身も言っているように、これがどこまで正しいかは分からないが、古代ギリシア語やヘブライ語などにおいて「心」にあたる単語を探ってみたりと、少なくとも思考実験としては大変に面白い。(第八章「無限と有限をつなぐ『あわい』」などは、三木成夫氏の『胎児の世界』にも匹敵する想像力だが、一線を越えてしまうギリギリのところで踏みとどまっている感じがする。/笑)
 安田氏の姿勢の根本にあるのは、きっと未知の世界の持つ面白さやすごさを愉しもうという気持ちなのだと思う。だから押しつけがましい部分がなく、けっこう「えー、本当かな?」という内容を読んでいてもさほど抵抗が無いのだろう。(信じるかどうかはまた別の話だが。)色んな意味で刺激になるので、松岡正剛氏や中沢新一氏の著作と同じような読み方をするといいのではないだろうか。
 全体を通しての主張をひとことでまとめると、「自分の心に“異界”を呼び込むための“空白”の空間と時間をつくりたまえ」ということになるだろうか。そのためには実用の学ばかり覚えるのではなく、いわゆる「役にたたない」知識に触れる機会と、それを身に着ける心の持ちようが有効であると、まあそんな感じ。それこそが題名にもなっている「あわいの力」なのだという。
 著者いわく、読んだ人が少しの間でも自分を縛る「心」から自由になれるように―― という気持ちで書いたというだけあってかなり自由奔放な書きぶりなので、思惑どおりちょっと不思議な気分に浸ることが出来た。
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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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