『記憶のしくみ(上下)』ラリー.R.スクワイア/エリック.R.カンデル 講談社ブルーバックス

 原著が2009年に刊行されたばかりの、記憶に関する最新研究を分かりやすくまとめた科学解説。分子生物学と認知神経科学の両方からのアプローチにより得られた、過去30年余りの研究の成果が一望に見渡せる。構成は2巻組で、上巻では記憶の種類の2つ(*)について書かれ、「シナプス可塑性」を中心とした基本的な記憶メカニズムの説明をおこなう。ついで下巻では、陳述記憶における短期記憶と長期記憶の記憶貯蔵のメカニズムについて、分子生物学的ならびに認知神経科学の観点からの研究成果をもとに、詳しく解説している。
 ではさっそく個人的に興味深かったところについて、ざっくりとご紹介を。(ただ、なんせ専門用語が多かったので、自分の理解不足により違っている点があればご指摘いただけると幸い。)

   *…ひとつ目は言葉で説明できる事実やエピソードに関する「陳述記憶」で、二つ目は
     運動機能や反射など言葉で表すことができない「非陳述記憶」。なお記憶には保存
     期間によって「短期記憶」と「長期記憶」に分ける方法もあり、分子生物学的には
     こちらの分類の方がメカニズムの違いがはっきり分かる気がする。

 「記憶」といっても、その正体をぶっちゃけていえば脳の神経細胞による信号の受け渡しにほかならない。つまりは脳神経における「信号の伝わりやすさのパターン」こそが、脳の中に書き込まれた「記憶」にあたるわけだ。従って本書の内容も、それらの仕組みが短期記憶と長期記憶、はたまた陳述記憶と非陳述記憶でどのように違うのか?という話が中心になる。
 まず非陳述記憶についてだが、これは簡単。神経系における一般的な信号受け渡しの仕組みに等しく、本書によればそれが「短期記憶」の正体でもあるようだ。
 神経細胞のシナプス(≒神経細胞間の接合部位)では、「修飾性伝達物質(セロトニン/アセチルコリン/ドーパミン/ノルアドレナリンなど)」によって細胞の電位が変化し、それによって信号の受け渡しがなされる。これらの物質は標的となる細胞の表面にある受容体に作用し、神経細胞の電位(=興奮度合)を調節するので、伝達物質の量が増えるとシナプスの「鋭敏化」の度合いが変化し、細胞の興奮が一定時間持続される。それがすなわち「記憶」になるというわけだ。
 なお、同じ刺激が繰り返されると次第に慣れによって信号の強度が減ってくる。また別の新たな刺激があると、別の経路にある「修飾性介在ニューロン」から送られた信号によって、再び強く反応するようになる。(**)やり慣れた行為は、いちいち意識しないでもすることができるというのも同じ仕組なのかな?
 以上のように「短期記憶」は、分子生物学的に見れば神経系の信号受け渡しの抑制と増加そのもの。おそらく本来は飢餓や逃避、捕食行動などに直結する生化学的な神経システムから生まれたのだろう。仕組みの基本原理そのものは地球上に存在する全ての動物に共通しているそうで、実際のところ先ほどあげた神経細胞に関する知見も、元はアメフラシやショウジョウバエによる実験で得られたものだそう。

  **…これらをそれぞれ「馴化」および「鋭敏化」と呼ぶ。

 なお”パブロフの犬”で有名な「条件反射」も実は非陳述記憶の一種らしい。難しい言葉でいえば「全く関連の無い2つの刺激が(時系列順に同時発生するという)一定条件によって結び付けられ、関係性が記憶される現象」ということ。仕組みは先ほどの短期記憶メカニズムの応用編のような感じだ。ちょうどいいタイミングで二つの刺激が同じシナプス伝導系に加えられると、先の短期記憶における「鋭敏化」より更に多くの神経伝達物質(セロトニン)が放出される。それによりシナプス結合が強化されると、最初の刺激によって自動的に後の反応が引き起こされる。
 途中ちょっとややこしかったが、以上が非陳述記憶の仕組みだそう。

 次は「陳述記憶」について。こちらの方は読んで字の如く「意識することで言葉にできる記憶」のことであって、ごく一般的に「記憶」と呼ばれているものがこれにあたる。先の非陳述記憶と大きく違ってくるのは、陳述記憶には短期だけでなく長期記憶があるという点。何年も前のことを憶えていられるのも長期記憶のおかげだ。
 短期記憶はもっと細かくいうと「即時記憶」と「作業記憶」のふたつに分けられる。前者は「意識して保持されるもの、つまり意識しなければ僅か数秒で消えてしまう瞬間の記憶」なのだそう。メモリは最大7つ程度までしかないらしい。一方、後者の作業記憶というのは「繰り替えし復唱することで数分から数時間にわたり延長される記憶」のこと。これらの短期記憶は海馬を含む「内側側頭葉」に保存され、前頭葉から側頭葉に対して的確な信号のフィードバックが行われる(つまり繰り返し思い出す)ことで延長が可能となる。さらには前頭葉の判断によって、記憶の取り消しを戦略的におこなう事もできるらしい。(嫌な記憶はわざと自分の意志で忘れてしま得るということなのかな。)
 一方の長期記憶はシナプス結合の強度を変える短期記憶とは違い、「シナプスの接続構造そのものが変化する」ことで起こる恒久的なものだそうだ。記憶が蓄えられる場所も短期記憶とは異なっていて、情報の種類によって貯蔵部位は変わるらしい。たとえば色・形・大きさ・位置といった情報は、一般的に下側側頭葉(TG野)や頭頂部の皮質(PG野)などに分散して蓄えられる。しかし屋外の建物や自然といった、視覚を通じて得られる比較的大きめの対象物に関する記憶は、主として視覚処理を司る側頭葉内部に蓄えられ、また道具や家具のような人工物、つまり触った感触や機能理解によって記憶されるものは頭頂葉と前頭皮質に蓄えられるとのこと。
 短期・長期を問わず、すべての記憶はまず海馬および内側側頭葉に「即時記憶」として保存される。長期記憶の場合は、そこから長い時間をかけて先ほどの貯蔵場所に記憶情報の移送が行われていくようだ。(このあたりの詳しいメカニズムが神経レベルでどうなっているのかについては、実はまだ解明されていないとのこと。どうやら睡眠が関係しているということは分かっているようだが。)
 こうして皮質の各部位に蓄えられた即時記憶は、やがて細胞レベルでの変化によってニューロン間の接続の強さに永続的な変化を引き起こす。そうなればもう大丈夫。もはや外界の影響を受けなくなり、安定した永続的な記憶になるというわけだ。
 なおここで注目すべきは、全ての記憶はいったん海馬を含む内側側頭葉に保存されるという点。これはつまり「内側側頭葉を損傷すると、短期長期に関わらず全ての陳述記憶が記憶の際に障害をうける」ということを意味する。アルコール中毒やアルツハイマー病、あるいは脳卒中などの疾病で長期記憶に関する障害(健忘症)が発生したり、あるいは事故に遭った時にその前後の記憶が飛んでしまうのは、脳のこの部位もしくは周辺が損傷や一時的な機能不全に陥るためだというわけだ。ふーむ、面白い。今やこんなことまで分かっているのだねえ。科学の進歩とは大したものだ。

 本書を読んでよく分かったのは、記憶を呼び起こすという行為はテープやメモリに蓄えられたデータを再生するのとはわけが違うということ。つまり記憶を「想起」するという行為は単なる「再生」ではなく、脳の各所に蓄えられた数々の情報をひも解くことで行われる「再構成」に他ならないのだ。そして過去の再生がたとえ正確なものではなく不正確であっても、その時の自分(生存)にとって有効なものであればとりあえず「事実」として受け入れてしまう。生物にとって「記憶」とは本来そのようなものであるらしい。
 記憶が必ずしも正確なものである必要がないということは、裏返すと再生の過程で容易に歪曲や偽造が生じる可能性があるということでもある。いやむしろ人間の脳は、関連する意味を大まかな固まりにして覚える事は割と得意だが、機械のように正確な記憶は不得意。紛らわしい内容も何もかも一緒くたにして、あたかも実際に起こったかのように再生してしまう。(それは記憶再生の”手がかり”となる情報を「符号化」することで、最小限の記憶量で済ませようという仕組みが働いているからのようだ。)
 記憶の再生とはそのように極めて主観的な作業だということを、よく「記憶」しておいた方が良い。それが本書を読んでいちばんためになったことかな。(笑)

<追記>
 本書を読むには生物学や化学の知識も若干必要かもしれない。しかし一般読者や学生向けだからと適当に誤魔化さずきちんと、且つなるべく分かりやすく説明しようという態度には好感が持てる。高齢による記憶障害やアルツハイマー症候群といった高次の機能障害について、執筆時の最新知見が触れられているのも好印象。翻訳書の場合は得てして日本人著者による本に比べると文章が読みにくいなどのハンディがあるが、こういった点は海外の科学解説書に共通した良い部分ではあるよね。(ちなみに著者のひとりエリック・R・カンデルは2000年のノーベル生理学・医学賞を受賞している人物。こういう人が一般向けの本を書くところがすごいよなあ。)
 もっとも最近は日本でも第一線の研究者が一般向けの本を書いてくれるようになったと思う。特に比較的若い研究者によるものは、読みやすくて面白いものが多いのでお奨め。そういう地道な活動が、いわゆる「理科離れ」を防ぐ上で大事なのではないかと本書を読んで改めて感じた次第。子供に興味をもたせたいなら、(たとえば英語を小学校から必修にするみたいな)押しつけではなく、もっと学ぶことの愉しさを教える事を考えた方が良いのではないかねえ?
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