『イスラムの神秘主義』 R.A.ニコルソン 平凡社ライブラリー

 イスラム系の神秘主義的信仰である「スーフィズム」に関して、思想的背景を中心にまとめた本。スーフィズムというと、スカートのような裾を広げてくるくると回るスーフィー教徒の写真くらいしか思い浮かばなかったのだが、読んでみたら恥ずかしいことに全然違っていた。スーフィズムすなわちイスラム神秘主義を信仰する人々を「スーフィー」と呼ぶそうで、本書では彼らが信仰の階梯(マカーマート)を上っていく過程を軸に、スーフィズム全体の思想についてまとめてある。その反面、スーフィズム成立の歴史についてはあまり言及されず、その教えが最盛期を迎えた12世紀ごろの彼らの精神性や考え方を中心に書かれている。まあ入門書としては手ごろなのではないだろうか。
 本書を読んで意外だったのは、「スーフィー(イスラム神秘主義)」というのは「確固とした教理体系に基づく特定宗派」につけられた名前ではないという点。どうやら“ある種の傾向”をもつ集団に漠然とつけられた総称らしいのだ。そしてそれが何かというと、最終目標である「神との合一」に向かって、主に思索活動に基いて信仰を突き詰めようということのよう。ちなみにその過程は「道(タリーカ)」と呼ばれているらしい。
 一般的なイスラム信仰では「律法」や「禁欲」といった生活信条のイメージが強い気がするが、スーフィーはそれよりも「汎神論的」「思弁的」という方がしっくりくる感じ。(もちろん生活面への反映はされるわけだが。)
単に富を持たないだけでなく、富への欲求そのものを一切もたないということ。真の清貧を保ち、個人の意志を全て放棄して神への信頼に全面的に身を委ねる…それが彼らの理想的な生き方のようだ。

 とてもざっくりした印象では、教えに関してはユダヤ・キリスト教的な一神教はもちろん、密教系の仏教にも共通するところがある気がした。例えばスーフィーにおいては、人間の魂が持つ邪悪な要素を「ナフス」と呼ぶそうで、その正体は怒りや欲情といった“肉欲”(≒地上的/世俗的な欲求)に等しいもの。それを打ち破るには瞑想による修行を通じて「神への信頼」を獲得し、自らの全霊を神の前に投げ出すことで自我を忘却することが必要。ちなみに彼らが12世紀以降になって教団化した「スーフィー教団」においては、音楽/唄/踊りなどを通じて神の中への「消滅(ファナー)」と呼ばれるトランス状態に入るようになったそうな。肉体的な儀式を経てエクスタシー/宗教的法悦を得るというのは原始宗教ではよくあることだけど、ユダヤ・キリスト・イスラム教といったあたりでは割と珍しい。もしかして今の我々がイメージする姿はここから来ているのかな。
 スーフィーにとって神とは「全現象の根底にある一なる真の存在」である。従って人間を含む全宇宙は極論を言えば神と等しいことになる。(注:このあたりセム系一神教というよりも密教の教えっぽい)
 それなのになぜ人間は普段、神の恩恵から遠ざけられてしまっているのか? 彼らの教えによれば、それは「ヴェール」によって神の光が遮られてしまったから。いうなれば“隠された叡智”というわけで、ここらはグノーシス主義の考えに極めて近い。それもそのはず実はスーフィズムとは、世界各地に広がったイスラムの教えが各地に元々あった思想(キリスト教グノーシス主義や仏教、古代ギリシア思想など)から影響を受けて出来上がったものなのだ。そりゃあ密教にも似ているわけだよね。砂漠で瞑想するような禁欲的な側面は、原始キリスト教からの影響なのかもしれない。
 色々な信仰からの影響を受けて思想を深めていった結果、スーフィズムは一般的な意味での「イスラム教」ではなく、異教にも通じる“何か違うもの”をもった信仰になっていたようだ。そのためスーフィー教団は正統的なイスラム教からは異端の宣告を受け、やがて表舞台から消えていくことになっていったとのこと。(それでもシーア派にはまだ色濃く雰囲気が残っているそうだが...。)
 具体的にどんなところが違っていたのか、いくつか例を示そう。まずひとつめ。彼らは表面的にはどんなに異なった教義をもつ教えであっても認める。偶像を祀る神殿をもっていてもOK。これなんか正統派のイスラム教からは絶対認めがたい気がするね。「エクスタシー(宗教的法悦)の状態で神との完全なる合一を果たす」といった内容についても、“異端”の臭いがプンプンする。(笑)
 「悪」の定義についても独特なものがある。スーフィーにとって悪というのは、神に敵対する“絶対悪”ではないのだ。それはむしろ「神の不在」により引き起こされる“状態”であったり、もしくは人間には計り知れぬ意図でもって与えられた「神の秩序と調和の一部」であったりする。なぜなら彼らの信仰の根本にあるのは、「宇宙のあらゆるものが神と等しいものである」という考え方だから。そのため悪が神と別の存在であると認めてしまうと、「神は悪でもある」ということになってしまう。なんだか、「犯罪がこの世から消えてなくなると、警察の存在する意味は無い」という話にも似たような感じが。(笑)

 閑話休題。あくまで本書によればだけど(*)、スーフィーとは斯様に一般的なイスラムの教えと似て非なるもののようだ。律法にとらわれない自由主義的な信仰の総体と言ってしまっても良いのかもしれない。
 ひとつだけ気を付けなければいけない点があるので付け足しを。これまで紹介した内容は、かなりの修行を積んで聖者と呼ばれるようになった人々により初めて許される考えだということだ。いくらスーフィーといえども、一般的な信者がいきなりそのような考え方をするのは認められない。導師(聖者)によって適切かつ充分な指導を受け、神との合一に向けた一連の長い階梯を上っていくことが前提であるとのことだ。(しかし正しい信仰を突き詰めたところにあるのが、これまでの教えを否定するものだというのが面白いね。まるで風狂禅を実践した一休禅師を思わせる。)
 しかしそれが故、スーフィー教団では聖者たちが非常に大きな力を持つようになった。神への絶対的な帰依ではなく、聖者への絶対的な帰依にもつながる信仰は、神の下の平等においてなぜかヒエラルキーが存在するという、矛盾めいた状態を生じさせてしまうことにもなる。有名な暗殺集団の指導者である「山の老人」の伝説も、こんなところから生まれてきたのだろうか、なんてことも考えたりして。

   *…巻末の解説によれば、本書が刊行された1914年以降も研究が進み、今の学説や見解
     は本書と異なる部分もあるようだ。本書ではイスラム教とスーフィズムの異なる部分
     について、幾分強調しすぎているきらいがあるかもしれない。まあ概ね評価できる
     内容らしいけど。

 以上、何となくとりとめの無い話で申し訳ない。でも、知っていて別に何かの役に立つわけでも無い知識だし、普段の仕事とはまったく縁のない話ではあるけれど、本書みたいな話を読むのは大好き。「使えない知識」ほど生活を豊かにしてくれる気がするのは不思議だね。ときどきは世俗を離れて幽玄の世界に遊ぶのが、心の健康のために良いのだろうか。しょっちゅうやっている気もするけど。(笑)
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