『批評理論入門』 廣野由美子 中公新書

 本書の副題は“『フランケンシュタイン』解剖講義”。フランケンシュタインを題材にして、様々な批評理論の具体的な事例を示した本。第1部は「小説技法篇」と称して、ストーリー(エピソードを時系列で並べたもの)とプロット(実際の語り方)の違いや、物語の語り手および焦点化(視点)、エピソードの提示ないし叙述の方法、小説を作る上で欠かせない修辞や象徴といった技法について解説する。これらを説明するのに必ずしも『フランケンシュタイン』である必要はないのだが、逆に言えば『フランケンシュタイン』がそれだけ多くの技法を活用している証拠とも言える。
 第2部はいよいよ本書の本題である「批評理論篇」。これまで世に出てきた主要な批評理論を順に紹介し、さらにそれらの理論を実際に用いて『フランケンシュタイン』という作品がどのように解釈され得るのかについて語っている。(*)

   *…本書を読んで自分の本の愉しみ方が、「脱構築批評」の影響を受けつつも、作品に
     応じてその都度様々な批評理論の観点を利用したものであることがよく分かった。

 本書に出てくる批評理論について少しご紹介しよう。まず基本は、作品を「道徳」すなわち“社会通念を伝える道具”として読んだり、「伝記」つまり“作者の人生を反映したもの”として読む、いわゆる「伝統的批評」と呼ばれるもの。次は作品を詩・劇・小説もしくはナンセンス文学やロマン主義・ゴシック小説といった、形式上のカテゴリーで分類する「ジャンル批評」。これはニュー・クリティシズムと呼ばれる批評理論を始めとして、作品を(前述の伝統的批評と違い)作者や社会背景から独立した存在として批評するものだそう。ただしこれはテクストが何を内包して何を伝えようとしているか?に囚われている点で、結局は古いタイプの教科書的な批評のような気がする。
 ついで紹介されるのが「読者反応批評」。これは「テクストが本来意味する(と思われる)もの」ではなく、読者がどう読んだかを問題としている。ただしこれもあらゆる読み方を是としているわけではなく、「ある水準に達した資質の持ち主」が読者として想定されているそう。まだまだ読者の数だけ解釈があるという考えではないらしい。次の「脱構築批評」に至って、やっと自分にも馴染みの批評がでてくる。これはJ・デリダにより提唱されたもので、「矛盾する複数の解釈」をテキストが両立して内在させていることを明らかにしようというものだ。それにより『フランケンシュタイン』においては、生と死/美と醜/光と闇/善と悪といった、二項対立的な概念の境界がいかに曖昧なものであるか、いかに両義的に描かれているかが示される。なお当然のことながら、この批評には決まったひとつの解釈というものは存在しない。(**)

  **…自分にとっては、これが読者により様々な「読み(作品解釈)」があることを保障
     してくれるベースになっている。多くの人が自らの「読み」を互いに紹介しあい、
     「こんな解釈もあるのか!」という驚きや楽しさがあるのが一番の理想なのだ。
     (よって本書で紹介される数多くの批評理論も、どれが優れているということでは
     なく、いずれもひとつの“正しい解釈”と言えるかも知れない。)

 先に進もう。次に紹介されるのは「精神分析批評」と呼ばれるもの。フロイトやユング、ラカンらの精神分析理論を援用し、作者の創作姿勢や登場人物の心の動きを解釈するタイプの批評だそうだ。また「フェミニズム批評」というのもある。これは様々な小説作品の背景に、社会的に抑圧された女性の立場を読み取ろうというもの。伝統的に文学は男性中心に形成されてきたため、その中で無視されてきた女性作家の作品を発掘・再評価しようというのが狙い。
 この「フェミニズム批評」をさらに大きく発展させたのが「ジェンダー批評」であり、ここでは性別による役割り分担を自然のものではなく「社会や文化によって形作られた差異」であるとみることで、女性の問題ばかりでなく男性や同性愛者、性同一障害者なども射程にいれて論じられる。これによれば『フランケンシュタイン』では主人公ヴィクター・フランケンシュタインと親友のヘンリー・クラヴァルや、ヴィクターの許嫁エリザベスと召使いジャスティーヌの間に、同性愛的な関係を見ることができるそうだ。うーん、面白い。
 「マルクス主義批評」というのもある。これは作品が生まれてくるのに不可欠であった政治的・社会的・経済的条件を探究して、それらとの関係性で作品の意味を読み解こうとするスタイルの批評だそうだ。
 個人的に本書の批評のなかで一番面白かったのは「文化批評」というやつかな。文化人類学や社会学で使われる「カルチュラル・スタディーズ(文化研究)」と呼ばれる方法の成果を用いて、作品の生まれた社会そのものを読み解いていこうというもので、自分がこれまで学生時代から慣れ親しんできた文芸批評の類は、割とこれに近いものが多い気がする。(荒俣宏氏の本なんかはほとんどがこれかもしれない。)
 作品の生まれた歴史に着目するという点では、「ポストコロニアル批評」(=帝国主義と植民地という観点で読む手法)や「新歴史主義」(=フーコーの「知の考古学」のように、文学テクストと他の領域のテクストを全て同列で論じる手法)といったものも「文化批評」の仲間と言えるかも知れない。
 他に変わったところでは「文体論的批評」というのもある。これはテクストのなかの言語学的な要素に着目して、文体や語法を科学的に分析しようというもの。文節ごとの単語の数を比較したり、使われている品詞の種類を調べることで、作者がどのような効果を上げようとしているかを考察する。(ここまで来るともはや文芸批評ではないね。/笑)
 以上、ずらずらと列記してきたが次でいよいよ最後。それは「透明な批評」というものだそうだ。読者が作品世界に深く入り込んで、作中で直接言及されてはいない設定や結末まで自由に解釈してしまおうという批評(?)なのだそう。たとえば「マクベス夫人には何人の子供がいたか?」などの問題設定がなされるらしい。日本でいうと、2012年に高野史緒氏によって書かれた『カラマーゾフの妹』(***)という小説のスタンスが近いのかな?

 ***…未完となったドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』を高野流に解釈して、「父殺
     し」の真犯人を描いたミステリ。

 ふう。本書で紹介された色々な批評について軽く触れていくつもりが、思ったより長くなってしまい申し訳ない。本書は『批評理論入門』という名の通り、あくまでもフランケンシュタインをネタに批評理論について語るのが眼目であって、本書の中で『フランケンシュタイン』について個々の批評理論をつかった深い読解がなされているわけでは無い。その意味では(怪奇小説ファンとして)少し物足りなさはあるが、批評理論をざっと一望することが出来る上、その材料が自分の好きなジャンルの小説というのは決して悪くない感じ。
 最後になるが一言だけ。先ほども少し書いたように批評理論はあくまでも、ひとつの作品を重層的に愉しむための“道具”にしか過ぎない。従って本書で紹介された多くの理論はどれも等しく価値を持つものであって、「果たしてどれが正解か?」などというものではないと思う。リンゴは皮を包丁で剥こうがピーラーで剥こうが、もしくは丸かじりしようが美味しいのだ。それが良いものであればね。(笑)
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