『文学のレッスン』 丸谷才一/湯川豊 新潮文庫

 丸谷才一氏といえば、小説・文学評論・エッセイ・翻訳と多彩な分野でマルチな活躍ぶりを示した方。惜しくも2012年に亡くなられたが、本書はそんな氏が小説や伝記、詩や戯曲といった、様々な“文学”のジャンル別に縦横無尽に語った「丸谷版・文学講義」。語り起こしなので文章もやわらかく読みやすい。聞き手は「文學界」編集者などを経て現在は大学教授も務める評論家の湯川豊氏。うまいリードで丸谷氏の膨大な知識を引き出している。

 以下、面白かったものをいくつか紹介したい。たとえば「伝記」について述べるこんな話。―― 近代イギリス社会で特に敬されたのは、社交的であって且つ奇人と呼ばれるような人物。それを描くことが、同様に社会における人間を描くのが主眼の「長篇小説」と並んで、「伝記」がイギリスで尊重された所以であるとのこと。
 「歴史」については、「歴史を物語のひとつとして愉しむ」という視点も示唆にとんでいて面白い。氏によれば歴史書には、特定個人(すなわち物語でいうところの語り手や主人公)といった視点は無い。その極端な例が歴史年表とのこと。しかしそれが「物語」になれば特定の視点で語られるため、感情移入もできるし記述も起伏に富んだものになる。視点を定めてしまうと史実の見方に偏りが出るという弊害もあるが、物語として愉しむだけなら何ら問題は無い。そもそも史実といっても、所詮は歴史書を編纂した人物や集団の視点によるものでしかない。過去の「史実」を今の目で振り返ったり、国という立場を入れ替えて眺めてみると、「特定個人の歴史認識」であることが露わになることもよくあるわけで...。うーん、結構奥が深い。
 また別の話。「戯曲」という形式は、他のジャンルに比べると文学としては立場が若干弱いようだ。なぜなら「役者(配役)」「劇場(建物と観客)」「物語(台本)」の3つで出来上がる“演劇”という芸術表現の、ひとつの要素(しかも順位は三番目)に過ぎないから。ちなみに本書で丸谷氏自身は述べていないが、この三つは「長篇小説」の章で語られる「作中人物」「文章」「筋(ストーリー)」の要素に、それぞれ対応するものかもしれない。
 次は「詩」について。海外では今でも「詩」という文学形式がとても重要な位置を占めているが、日本では殆ど壊滅状態に等しい。書店に並ぶ文学は散文形式のものばかりとなっている。ではなぜ近代以降の日本で「詩」が消えてしまったのだろうか。本書によると、それは西洋文学の洗礼を受けた明治期の人々が、西洋哲学や近代的自我に代表される「観念」の追求へと走り、もうひとつの伝統的な要素である「韻」の重要性を見失ってしまった為であるとか。
 日本にも独自の表現形式である俳句や短歌の伝統は残ってはいる。しかしそれらは如何せん文字数が限られていて、単独では多くの意味を十全に盛り込むことが出来ない。実はそのために過去あったのが、歌枕など複数の作品を重層的に結び付け味わう仕組み。ひとつのフレーズが過去の作品と呼応しあって別の含みを持つことで、三十一文字を遥かに超えた味わいを出していたというわけ。しかし社会変化で過去の蓄積が失われるとともに前提となる共通認識も消滅し、それらも意味をなさないものになってしまった。このようにして日本では「詩」を愉しむ人が日本からいなくなった...というのが大まかな説だ。

 以上、軽くさわりを紹介したが、本書にはまだまだ多くの文学ジャンルが取り上げられている。たとえば「エッセイ」は定義づけ不可能であり幾ら定義を重ねても必ず抜け落ちるものがあるとか、「批評」は学問とエッセイの重なったところに生まれるとか、興味深い薀蓄が次から次へと語られて飽きることが無い。(良く考えてみると本書自体が文学に関するエッセイみたいなものでもあるわけだな。/笑)
 著者の本はエッセイが好きなので比較的よく読むのだが、小説や訳書はこれまで殆ど読んだことが無かった。そのうち読んでみてもいいかもなあ。『女ざかり』とか評判いいようだし。
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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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