『現れる存在』 アンディ・クラーク NTT出版

 本書の副題は「脳と身体と世界の再統合」。いわゆる認知科学の学術書なのだが、比較的歴史の浅い研究分野だけあって、1997年の刊行にも拘らず早くも古典的な趣きすらただよう一冊となっている(笑)。おそらくこれからも読み継がれていくだろう記念碑的な著作ではないだろうか。
 なお日本語版では監訳者の池上高志氏(東京大学教授)による巻末解説で、原著刊行後の1997年から2012年までの進捗が簡単にフォローされているので、その点も有り難い。ではさっそく中身について。

 改めてキリスト教やデカルトの例を出すまでも無く、西洋文化の根本に心身二元論の思想があったと言えるだろう。しかし「“道具”である身体を“主人”である心が制御・支配する」という考えは、フロイトによる無意識の発見を経て20世紀になると徐々に揺らぎ始める。アフォーダンス理論やソマティック・マーカー仮説といった「身体こそが主役であり、脳は中央制御装置ではない」という説も提唱されるようになり、現在では認知科学として花開きつつある…。本書が生まれた背景を大雑把にまとめるなら、大体こんな感じになるだろうか。ぶっちゃけた話、生き物が環境のなかで生きていく仕組みを安易にモデル化(簡略化)せず、なるべくあるがままの形で解き明かそうとする取り組みと言えるのではないかと。
 そもそもニュートンの時代から「自然科学」というものは、なるべく簡素化した(=美しく調和のとれた)方程式やモデルを理想としたところがあったと思う。しかし世界は単純なモデルで示せるものばかりではないのも事実。それをむりやり簡略化するところに現実とのずれが生じる。そんな中に登場したのが、複雑な世界を複雑なままに扱おうという“複雑系”の考え方。バタフライ効果で有名なカオス理論などがその代表だが、複雑系の応用分野は物理学ばかりではなくかなり広い。本書で取り上げられている認知科学も、大きくはその流れを組んでいる研究分野のようだ。
 生き物が生きていくのに必要な力には、概ね「①周囲環境を認識する力」「②入力データを分析して生存に最適な行動を選ぶ力(*)」「③判断結果を実際の行動に移す力」の3つがあるのではないかと思う。これらは目や耳や皮膚といった感覚器官や、脳および全身の筋肉とそこに張り巡らされた神経系が互いに協調しあって実現される働き。したがって認知科学の研究も、例えばロボット(=運動における身体制御)や脳および神経系(=不充分な情報による最適判断の仕組み)、言語(=思考と意思決定のツール)といった、多岐に亘る分野の研究者たちが協力しあって進められている。言い方を変えると、認知科学とは「認知」すなわち脳もその一部であるところの「柔軟な要素で構成された問題解決のシステム」の仕組みを解き明かそうとする研究。すなわち世界をいたずらに単純化することなく“猥雑”なままに理解しようとする試みであり、自然な知性とは何かを理解しようとする試みでもあるといえるだろう。

   *…それは<創発>とも呼ばれることもある。副読本としてはユクスキュル『生物からみ
     た世界』の他、A・ダマシオの『デカルトの誤り』や「アフォーダンス」に関する本
     などが良い感じだ。

 本書にはそんな認知科学が辿ってきた道筋が見晴良く俯瞰できるようにまとめられているので、取り上げられる話題もおのずと広くなる。例を挙げれば「自律的に動くロボット(エージェント)」や「乳幼児の状況判断と行動」、「人工ニューラルネットワーク」に「粘菌の動き」、「脳神経科学」や「人の購買行動における心理学的アプローチ」、その他「言語獲得の仕組み」等々。認知科学の予備知識が全くなしで本書を読むと、あまりの話題の広さに少々とまどうかもしれない。
 ところで本書の題名になっている「現れる存在」とはそもそも何か? 本書によれば、それは“身体と一体化され環境に埋め込まれた生物の認知と行動のシステムの詳細”ということらしい。もしくは“身体・行為・世界から心を説明する方法”とも。分かりにくいけど、認知の仕組みを(簡略化せず)あるがままに表現することで見えてくる存在とでも言えばいいのだろうか。
 そのような「現れる存在」を明確にしていくため、アプローチのしかたは2種類あるそうだ。ひとつは個別の構成要素どうしのつながり方を考える事で、もうひとつはそれらが有機的に繋がって作り上げる更に高次なシステムのルールを知ることなのだそう。(それには「力学系モデルによるアプローチ」が有効らしいが、よく理解できなかった。/苦笑)ちなみに個別の要素が有機的に繋がる仕組については、まだ正直よく分かっていないとの事で、今後もまだ研究が必要らしい。
 なにしろ認知科学は発展途上のホットな分野なので、現時点ではたとえば物理学のようにオーソライズされた仮説があるわけではない。そのため本書にも「これが生物における認知の仕組みだ」というすっきりした結論が書かれているわけではないが、その分研究者たちの熱い思いが伝わってくる本という気がする。

 後半にはメルロ=ポンンティの身体哲学まで出てきてちょっと驚いたが、さらには「人間が作り出してきた社会構造そのものが、実は人間の個人の脳にかかる処理の負担を減らすために行われた外部環境の構造化である」という大胆な社会学的な仮説(**)まで。
 ここで述べられる「共通の言語が個人に対して他の人の知を提供することで、思考の強力なツールになる」というのは、まさに集合知の仕組みそのものではないかという気がする。そしてその結果生まれたのが、神話や哲学思想や科学知識、あるいは詩的言語による異化作用や創作であったりというわけ。また巻末の日本語版付録においては、言語どころかジェスチャーまでもが思考を形作る一部であることが示唆されているが、もしそうとすれば、神話だけでなく儀礼も思考の記憶装置であると言えることに…。文化人類学好きにとっては堪らない話が続く。(笑)

  **…そう考えると現在の選挙制度や国の仕組みに見られる不具合や、社会システムの限界
     も腑に落ちる気がする。非常にしっかりした“足場”に支えられた場合には合理的な
     推論に基づく社会的な判断が可能だが、非合理で制約が多くやっつけ仕事のような人
     の思考の比率が強まるにつれて失敗のケースが増えるというわけ。

 うーん、何だかまとまり無い文章になってしまい恐縮。まあ、もともとが雑多な内容の本ということでご勘弁いただきたい。なにしろ様々な点で刺激を受けた本だった。では最後に、本書を読んで頭に浮かんだ雑多な思いつきをいくつか書いて終わりとしたい。

― その1 ―
 哲学における“イデア”の概念も認知科学で考えることが出来るのかも。「イデアとは情報の内部処理の過程で生まれる、その場限りで有効な“内的表象”の総体である」とか。たとえば「コーヒーカップ」と言われた時、その人の頭に浮かぶ(つまりその人にとってその言葉が意味する)“内的表象”こそが「コーヒーカップのイデア」であるというわけ。
 本書によれば内的表象が生まれる理由は、環境を積極的に構造化することでその後の計算負荷を減らそうとするためだそう。もしそうであればイデアとは各個人によって違うものということになってしまうが...。

― その2 ―
 生物が自らの生存確率を増やそうとすれば、リアルタイムの環境情報による行き当たりばったりの対処ばかりではだめ。将来に予測されるリスクに対する備えが必要となる。意識とはもしかしたら「時間的あるいは空間的に離れた出来事」や「想像上の行為によって起こりうる結果」について、事前に予測し対処するために生まれてきたのかも知れない。

― その3 ―
 「リズム」を刻むという能力は、音楽ばかりでなく実は日常生活においても必要不可欠なもの。動き出したバスにとび乗るときなど、外部のシステムにステップ(=動作の順序)だけでなくタイミング的にも同調して動く必要がある場合、リズム感がないとどうしようもない。野生の世界では動いている獲物を獲るときに必要な力だろう。
 このように認知科学の観点から考えていくと、人間の精神活動というのも(哲学思想に代表されるような)ある種特権的・特殊なものでは決してなく、神経活動の延長上にあるものと理解できる。要は生き残るチャンスを少しでも高めるために進化してきた能力ということ。してみると「現れる存在」とは、実はあるがままの人間の姿と言えるのかもしれないね。

 以上、おそまつさまでした。
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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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