『ムード・インディゴ うたかたの日々』 2013年(フランス映画)

※映画および原作についてのネタバレを含みますので、これから観ようという方はご注意を。

 大好きなボリス・ヴィアン原作の小説『うたかたの日々』を、『エターナル・サンシャイン』のミシェル・ゴンドリー監督が映画化。公開初日の10月12日にさっそく観に行ってきた。調べたところ愛知県では何と1館しか上映予定がないそうで(*)、つくづく名古屋市に住んでいて良かったと感じた次第。まあ多少遠くても観に行ったとは思うけどね。

   *…名古屋は栄のパルコ東館8階にあるセンチュリーシネマ。名古屋駅に昔あったゴール
     ド劇場のような、ちょっとマニアックな映画ばかりをかけるミニシアターだ。(今回
     初めて行った。)

 正直、原作付きの映画は期待外れに終わりがちなので観ないことが多いのだが、本作は違った。たまたまYOUTUBEで見かけた予告編がかなり良かったのだ。実際に見た結果も予想以上に良くて大満足。ストーリーも変なアレンジが無く原作にほぼ忠実だし、映像も自分が原作に対して持っていたイメージにかなり近い。あっという間の愉しい131分だった。
 ただ如何せん原作を読んだのはかれこれ数十年も前のこと。映画を視た感じでは当時の印象や記憶と大きなずれは無かったのだが、実際のところどうだったのか気になった。そこでさっそく本棚から原作(ボリス・ヴィアン全集3『うたかたの日々』/早川書房刊)をひっぱりだして再読してみた。前置きが長くなってしまったが、以下は原作本との比較を交えた『ムード・インディゴ うたかたの日々』の感想について。

 物語を知らない人のためにまずは簡単なストーリー紹介を。
 物語の舞台は1947年のパリ。ただしヴィアンの想像によって生み出された虚構のパリだ。主人公はコランという若者で、彼は定職にもつかず(おそらく遺産か何かで引き継いだ)莫大な財産を食いつぶしながら贅沢に暮らしている。コランはあるパーティで知り合った魅力的な娘クロエと一生一度の熱烈な恋におちる。やがて盛大な結婚式を挙げたふたりだが、しかし幸せは長く続かなかった。クロエは肺に睡蓮の花が咲く奇病に罹ることに。日に日に衰えていく彼女のため、高額な治療費を使って懸命な治療を続けるコランだが、その甲斐もなく彼女は帰らぬ人に。そして彼女も財産もすべてを失ったコランは...。 とまあ、こんな話。作家のレイモン・クノーが「現代の恋愛小説中もっとも悲痛な作品である」と評したという話もある、儚い愛を描いた作品だ。
 予告編で流れていたのは映画の前半部分にあたる部分が中心。2人が出会い恋におち、そして結婚式を挙げるまでの夢のような日々を、いかにもヴィアンらしいキッチュでシュールな雰囲気そのままにうまく映像化していた。後半は病に倒れ衰弱していくクロエと、莫大な治療費のせいで没落していくコランの心象がインディゴ・ブルーの画面で表現され、そして最後にはモノクロへと変わっていく様子が見事。パステルカラーが基調の前半と、良い対称になっていたと思う。

 気になっていた小説との違いについても、細かなところを除いては殆どない。あちこちに出てくる不思議な「小道具」(**)もかなり原作にそのまま登場していた。感心したのはそれらの小道具の映像表現の仕方。わざとぎこちないコマ撮りにして、原作が持つ“安ピカ”(by荒俣宏)で不気味な感じを見事に表していたと思う。ゴンドリー監督は物語には手を入れない代わりに、映像の部分で原作のイメージを大きくふくらませる(超える?)大胆な解釈を施すことにしたのだろう。そしてそれは見事に成功していると思う。

  **…演奏に合わせてカクテルを調合する「カクテルピアノ」や、テコの原理で心臓をくり
     抜いてしまう殺人兵器「心臓抜き」といった機械の他、水道管から出てくる鰻やパー
     ティで踊られる奇妙なダンスのように、物語とは直接関係のないシュールな描写が
     多いのが本書の特徴。(1947年当時に圧倒的な人気を誇った哲学者サルトルを模し
     たジャン・ソル・パルトルという人物も、重要な役だがヘンテコ顔で登場する。)
     これらは著者の『北京の秋』や『心臓抜き』といった幻想系の小説群に共通する一種
     独特の“味”を作り出していると言えるだろう。

 音楽にはヴィアンと交流があったJAZZプレイヤー、デューク・エリントンの名演奏の数々を使用。白黒のレトロな映像は、幻の1947年のムードを効果的に表している。(まあそういった演出上の理由とは関係なく、デュークの音楽自体が素晴らしいんだけどね。)
 次に原作と大きく違っていたところを、3つほど取り上げて書いてみよう。おそらくそこがゴンドリー監督による『うたかたの日々』解釈の意思表明であり、映画『ムード・インディゴ』のスタンスを象徴しているのではないかと思うから。
 まず最初はコランの家のキッチンに飼われているハツカネズミについて。原作では(ときおり妙に人間臭いところもあるにせよ)あくまでネズミという生き物の範疇を超えてはいなかった。しかし映画では驚くことに、芸人の爆笑問題がむかし着ぐるみで扮していた「爆チュー問題」そっくりの不気味なキャラに変身。これは「演出の延長」といえば言えなくもないけど、ひとつ間違えるとすべてをぶち壊しにしかねない、かなり踏み込んだ解釈でもあると思う。(このような方法をとった理由については、小説と映画におけるラストシーンの違いに現れているのではないかと思うが、詳しくは後で。)
 次は金に困ったコランがカクテルピアノを処分するため古道具屋に見積もらせているシーン。映画では古道具屋が演奏するピアノ曲(曲名は分からないが、原作通りならデューク・エリントンの〈放浪者のブルース〉)を聴きながらコランが流す涙が感動的。きっと幸せだった頃の二人と今の二人を重ね合わせたのだろう、とても美しいシーンだ。それに対して小説版のコランは愉しかった頃を思い出して「魂が浄化され」、ただ喜んでいるだけ。原作は徹底的にドライなのだ。
 最後の大きな違いは、クロエが死んでしまってコランが抜け殻のようになってしまってから。原作のラストでは絶望したハツカネズミが、猫に食べられる事で自殺しようとするシーンで終わるという徹底した救いの無さ。しかし映画ではここが決定的に違う。映画では、爆チュー問題風(笑)のハツカネズミは、(クロエが生前ずっと描き続けていた)幸せなふたりの様子を描いたパラパラ漫画の束を、崩れ去る邸宅跡から救いだす。そしてそれを抱えていずこへともなく去っていくのだ。これは普通のハツカネズミを使った撮影では無理だよなあ。
 アンチロマン小説を代表する作家ロブ=グリエと並び評される事もあるヴィアンだが、人間不在であくまでドライな世界観を持つ彼の原作に対し、ゴンドリーはもう少し人間的で救いのある作品にしたかったようだ。その結果、映画が終わったあとも幸せそうな二人の様子が目に残り、沈鬱なラストにも関わらず印象は決して悪くは無い。(『未来世紀ブラジル』も同様に救いの無い話だが、かなり自分の持つ印象は違っている。)
 以上、終わり方は小説とは違うが、これはこれで「あり」だなあと感じた次第。

<追記>
 今回、初日の朝一番の上映に行ったのだが、いくら小さな劇場とはいえ客が15名ほどしか来ていなかった。劇場の経営云々は別にして本作の上映だけに限っても、この調子では長く上映されるとは思えないなあ。好い映画だからもっと大勢の人に観てもらいたいもの。少なくとも愛知近郊の方で興味のある方は、なるべく早めに行った方が良いと思うよ。
 それから、原作はハヤカワepi文庫版(伊東守男訳)の他、光文社古典新訳文庫や新潮文庫からもでている。(新潮版の題名は『日々の泡』)もしも原作に興味を持った方がいれば蛇足ながらご参考まで。

<追記2>
 物語の本筋とは直接関係はないのだが、登場人物について書き忘れていたことがあった。コランの家に勤める料理人のニコラと、彼の姪のアリーズという人物が大事な役で登場するのだが、彼らが原作では白人なのに対して映画では黒人になっているのだ。(小説で白人なのは、何度も描写を読み返したからたぶん間違いないと思う。)これにどんな意味が込められているのかは分からないけれど、ヴィアンは問題作『墓に唾をかけろ』で人種差別からくる白人への呪詛によって犯罪を犯す黒人を描いてもいるし、なんだか意味深な気がする。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

水中シーン

水中シーンがいいですね!映画(アタラント号)、(カフェドフロール)なども水のシーンが印象的!

PineWood様

コメントありがとうございます。

ほんと、水中シーン良いですよね。前半の幸せなふたりの様子はとても好きです。(後半の暗さも対照的でまた好いですが。)
最新記事
カテゴリ
プロフィール

舞狂小鬼

Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

最新トラックバック
FC2カウンター
最新コメント
リンク
月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR