『「伝説」はなぜ生まれたか』 小松和彦 角川学芸出版

 久しぶりに小松和彦氏の新しい著作を読んだ。2008年の『百鬼夜行絵巻の謎』(集英社新書ビジュアル版)以来およそ4年半ぶり。(正確には2011年に『いざなぎ流の研究』というのが本書と同じ版元から出ているが、7000円近くするうえ専門書なので買ってない。)しかし何せ国際日本文化センターの所長をされているお忙しい方。たとえ期間が空いてでも、こうして読めるだけで有り難いと思わなくてはいかんね。
 さて早速だが、本書の構成は序章を入れて全部で6部からなる。序章は“「物語る行為」の宇宙”と題して、神話や伝説がいかに成立し、それが社会においてどのような意味を持つかについてを考察。本書全体をくくる総論となっている。続く第1章から第5章は日本各地の伝説の具体例を挙げ、「異界」「天竺」「龍神」「琵琶の精霊」「天皇(王権)」といったキーワードについて読み解いていく各論の形をとる。(*)

   *…第1章は能登半島に伝わる猿鬼伝説を取り上げる。第2章は天竺に対する日本人の
     典型的イメージを御伽草子に探り、四国に伝わる“いざなぎ流”におけるそれと
     比較。続く第3章では戸隠や箱根に伝わる九頭龍伝説、第4章は説話に出てくる琵琶
     にまつわる伝説を。そして最後の第5章は再び猿鬼伝説に戻って異界と天皇性の
     関係について語る。

 以前にも書いたことがあるが小松和彦氏は生粋の民俗学者ではなくて、もともとはお隣の文化人類学の出身。だからフィールドワークや構造主義といった文化人類学的な手法も熟知していて、それらの知識に基づいて民俗学に取り組んでいる。だからこそ旧来の民俗学の(狭小な)視点にとらわれず、自由闊達な見方でもって妖怪や異界といった日本文化の「闇」に焦点をあてた鋭い分析が出来たのだろう。従来の民俗学に散見される“ちょっと納得いかない結論”の押し付けに対しては、個人的に「?」と思うところも無くはないが、その点、氏の著作はいずれも論理的で納得のいく考察がなされており、気分よく読めるものとなっている。(それにしても小松和彦氏といい歴史学の網野善彦氏や東北学の赤坂憲雄氏といい、自分の好きになる著者がことごとく“異端”の香りのする人だというのは、いったい何故なんだろう。/笑)
 話を戻す。本書でもそんな著者の筆は冴えわたり、猿鬼や九頭龍の伝説についての詳細な分析は、読む者を飽きさせない。なかでも自分にとって最も読みごたえがあったのは、神話や伝説に関して著者一流の考察を施した序章(総論)の部分。以下そのあたりを中心に、簡単な感想と内容をご紹介しよう。

 本書によれば日本における従来の「神話学」というのは、各地に伝わる散文形式の物語群を、便宜的に「神話」「伝説」「昔話(民話)」の3つに分けて考えてきたそうだ。しかしそれは世界的にみると、実はあまり一般的な分け方ではない。日本以外では3つではなく、「神話・伝説」(=社会的には“真実”と受け止められている話)と「民話」(=明らかに“作り話”として了解されている話)の2つに分けられることが多いらしい。(著者が実地調査を行ったミクロネシアの島においても同じ。前者は“ウルフォ”、後者は“フィヨン”という名でやはり2つにわけられていたそうだ。)
 ではこれら「神話・伝説」はどのようにして作られてきたのだろうか。それは「神話・伝説」が「(社会的)真実」を「物語る」というところに秘密がある。例えば哲学者ベンヤミンは「情報」と「物語」の違いを次のように述べているそうだ。

 「情報はそれがまだ新しい瞬間に、その報酬を受けとってしまっている。情報はただこの瞬間にのみ生き、自己を完全にこの瞬間にゆだね、時をおかずに説明されねばならない」
 「物語は消耗しつくされることがない。自己の力を集め蓄えておき、長時間ののちにもまた展開することが可能」

 言い換えれば、情報とは一過性のものであり「真実」としての価値しかもたないのに対し、物語は(その源が真実であるないに関わらず)繰り返し語られることで価値を持つということ。出来事が起きてからかなり後になっても何度も言及されることにこそ、物語が語られる“意味”があるのだ。
 また科学史家の野家啓一氏によれば、「カタル(語る)」という言葉は、語源的にいうと「経験」を「カタドル(象る)」という意味が込められているのだそう。(ちなみにこの場合の「経験」とはベンヤミンがいうところの「情報」ではなく、何度も繰り返し再生されるもののこと。つまり真実に基づくかどうかは別にして、先ほどの「物語」のイメージに近い。)
 たとえば誰かが自分の経験したことを別の人に伝えたとしよう。もしくはどこかで伝え聞いた話を「事実」として語ってもいい。その場合の「こんなことがあった」という言葉は、単独ではあくまでもひとつの「情報」でしかなく、決して「物語」ではない。なぜならそのままでは、他の出来事との“つながり”がないからだ。それが「物語」になるためには、その社会における他の出来事との連鎖(因果)によって、その“ある出来事”の行方や結果が示される事が前提となる。そして単独の「情報」を因果によって「物語」に解釈し直すことが出来る人こそが、すなわち「語り手」と呼ばれる存在になるわけだ。
 更にこれらの「物語」が普遍性を持ち、長きに亘ってある社会に伝承されてきたとき、「物語」は「神話」へと変わる(**)。これが本書における小松流神話解釈の骨子である。いままで色んな神話学を読んできたけど、結構斬新な考え方で面白いと思った。

  **…なお社会における集合的記憶の媒体としては、「神話」の他に「儀礼」というもの
     もあり、互いが補完しあって社会を成り立たせているとのこと。これは文化人類学
     の世界ではお馴染みの考え方だよね。

 著者によれば「(神話あるいは歴史を)物語る行為」とは、「絶えざる過去の出来事の記憶の発掘と現在の状況に照らし合わせてのその再解釈、過去の再構築」であるのだという。つまりは歴史と神話の違いとは、「種類」ではなく「程度」に過ぎないといこと。なんてすごい(笑)。
 残念ながら今ではあまり顧みられることの無い神話研究。けれども実は神話の研究を行うことで、現代社会を論じる上で強力な武器となる「相対的な視点」を身に着けることが出来るのではないか?という指摘も、とても刺激的。猿鬼や天竺、九頭龍といった各論ともども、久々の小松節を堪能できた一冊だった。(^^)
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No title

なるほど。一過性の情報を、ストーリーへと変化させ、語り継がれて神話になるというプロセス、とてもしっくりきます。
ただの出来事が、奇怪な出来事として語られ、妖怪というイメージが付加されて伝承されていくといった所でしょうか。
全然関係ありませんが、昨日諸星先生の『異界録』を買いました。

慧さま

こんばんは、コメントありがとうございます。

人文・社会学系の仮説というのは、自然科学と違って検証するわけにはいきませんけど、だからこそ余計に「納得感」が大事ですよね。

その点、本書の神話成立のプロセスは結構納得がいきました。

『異界録』ですか! いいですねえw
ブログでも以前書きましたが、諸星大二郎は大好きです。
『諸怪志異』のシリーズで特に好きなのは、五行先生と阿鬼の話ですね。
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Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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